官 残


 剥き出しの電極をその婦警の背中に押し当てスイッチを押すと、チキチキという幼児向け玩具がたてる緊張感のない音がして、次の瞬間、彼女はその場に倒れこんだ。

 スタンガンを手に気絶した婦警を見下ろしている僕は、今、駅の構内にいる。

 二つの在来線が接続する乗換駅ではあるものの、関係者専用の通路であるため人通りはなく、表の喧騒もここまでは聞こえてこない。計画を実行したのが窓のない長い直線廊下のほぼ中央だった事に気が付き、僕はやや焦りながら次の行動に移った。誰にも見られぬうちに、カートに乗ったゴミ回収用の大きな布袋に彼女を入れてしまわねばならない。倒れた婦警の両脇に腕を入れ彼女の上半身を起こした。思ったよりも力仕事だったが、つづいてその背中と膝を持ち、彼女の全身を抱き上げた時、さらに女の重みを実感した。

 ふと、数年前に別れた、僕より二つ年上の女性のことを思い出した。―何度かこうやっておどけながら彼女をベッドまで運んだっけ。僕がはじめて、そして唯一、抱いた事のある女性だった。
 そういえば二十代半ばに見えるこの婦警も、僕より二つほど年上ではないだろうか。

 布製の袋に婦警を押し込むと、その上にカモフラージュに用意しておいたゴミが入ったビニール袋と彼女が手にしていたコンビニエンスストアのレジ袋を置いた。コンビニ袋の中身はプラスティック容器に入ったパスタとペットボトルのお茶だった。

「お皿、あるなら使おうよ」

 かつての彼女の声がした。
 夕食のおかずをコンビニの惣菜にした日、そのプラスティックトレイを皿として使おうとした僕に向かって、彼女が言った台詞だ。
 ―コーヒーを飲む時は紙コップよりも陶器のカップを使った方が美味しいでしょう…そういうコトよ。

「気持ちの問題かい?」と訊ねると、彼女は「と言うより、志」と笑いながら胸を張った。―みっともないと思う事は出来るだけしない…そういうコトよ、と。

 その頃まだ学生の僕に、―先行投資だ、と冗談交じりに笑いながら、彼女は色々と世話を焼いてくれたものだ。

 罪悪感のさざ波が心を揺らした。

 その罪悪感は―むかし別れてしまった彼女に?
 それとも、目の前で気を失っている婦警に?

 僕は、彼女の分だけ重くなったカートを押し、目的の部屋に向かう。床と車輪が立てる高い音が廊下に響く。
 目的の部屋というのは、鉄道会社が、僕らビルメンテナンス用の業者に割り当てている休憩室兼仮眠室で、今日の昼間、この時間は誰も使用していない。

 婦警は鉄道警察隊々員で、この駅に勤務している。

 彼女の事を僕が意識しはじめたのは三ヶ月ほど前のある日の午後だった。駅舎の廊下を今と同じようにカートを押している僕に、向かい側から歩いてきた制服姿の彼女が、すれ違いざまに「お疲れ様です」と声を掛けてからだ。

 笑顔が輝いていた。

 挨拶を返す事すら忘れて僕はその場に立ち止まり、長い長い廊下の先に小さくなっていく彼女の後姿をずっとずっと見送った。
 その後も、廊下ですれ違う度に、彼女の「お疲れ様」の微笑が僕に向けられた。二度目以降は、僕もなんとか挨拶を返す事ができた。
 そして、今日の「お疲れ様」の後、僕は彼女の背後に静かに、しかし早足で引き返し、計画を実行したのだ。

 最初の笑顔を向けられてからというもの、僕は駅で勤務するたびに彼女の姿を探すようになっていた。そして知った。何事も無ければ、13時頃に彼女の休憩時間が始まる事を。
 それは、かなり高い確率で、規則正しかった。13時を10分ほど過ぎると、彼女は駅舎の中にある鉄道警察隊の詰所の裏口にある扉から、関係者以外立入禁止になっている駅の裏側に伸びる廊下に姿を現す。
 いつも、彼女の手には駅内にあるコンビニエンスストアのレジ袋がぶら下がっていた。

 休憩室に到着した僕は、ソファの背凭れを軽く手前に引き寄せた。カチャと金具の外れる音がして、ソファは平らな簡易ベッドになった。
 布製のゴミ回収袋から婦警を抱きかかえてソファに寝かせようと思ったのだが、彼女を隠した時のようになかなか上手くいかない。狭い袋の中で丸くなっている彼女を外に出すのは、中に入れた時に比べて、より一層、骨の折れる作業だった。
 思っていた通りに行かない…こういう時に、僕の胸の中には自分でも理不尽に思える種類の怒りが湧いてくる。怒りの矛先はこの鉄道警察隊の婦警に向けられるべき類のものではないのだが、しかし、怒りは婦警に向かう。
 だからこその「理不尽な怒り」なのだ。
 だが、その怒りが僕を突き動かしてくれる。なにしろ、彼女をソファに寝かさない事には怒りを発散させようがないのだ。

 抱え上げた婦警の肉体をソファにドサと投げるように置いた。

「ぅ…ぅぅん」

 仰向けの彼女が小さな声を上げた。チキチキチキ。今度は腹にスタンガンを押し付けた。ピクと軽く婦警の上体が反り、再び彼女は眠りに落ちた。
 胸が高鳴り性器は勃起した。アドレナリンが僕の血管に満ちた。

 淡い恋慕を抱いていた婦警が自分の掌中にある。

 昂ぶる鼓動を抑えながら婦警の顔を見ると、その口元は弛緩し、だらしなく開いていた。その薄い上下の唇を奪おうと僕は静かに彼女の顔に自分の顔を近づける。

 ―が、途中で思い直した。興奮のせいか、僕の口の中には唾液が溜まっていたのだ。

 僕は、その唾液を舌の先に集めると、彼女の小さく開いた口元を狙い、静かに落下させた。僕の口から垂落ちる粘った液体が糸を引きながら彼女の上下の唇の間に吸い込まれていった。
 背中がゾクリと震えた。勃起していたペニスがさらに硬さを増した。
 僕は、乾いた口中に第二弾の唾液を溜めはじめた。口内に水分が満ちてくると、うがいをするようにそれを撹拌させ、さらに多くの唾液の分泌を促した。唾が口から溢れそうになるまでそれを繰り返した。
 そして、僕は彼女の唇にキスをするが如く自分の顔を接近させ、たっぷりと溜まった大量の唾液を再び彼女の口の中へと投下した。

 彼女の顔がピクリと小さく動き、そして薄い唇が閉じた。そのとき僕は聞いた。ゴクリと婦警の喉が鳴る音を。
 血管に満ちていたアドレナリンが快感を伴う痺れとともに、僕の身体の隅々に拡散していった。

 僕は彼女のその唇を夢中で塞ぐようにして奪った。無味無臭で、柔らかい感触だけがあった。その唇の間から舌を挿し入れようとしたが、先ほど自分の唾液をそこに流し込んだ事を思い出して止めた。
 自分の吐いた液体の残滓を舐めるというのは、さすがに気が進まない。

 僕は彼女の制服を脱がす事にした。まず上着のボタンを全て外した。袷を捲り左右に広げると、内ポケットにボールペンが一本挿してあった。彼女のネクタイを緩め、白いワイシャツの一番上のボタンを外す。

 なぜか戸惑いがあった。その時は、まだ戸惑いの原因はわからなかった。

 僕は、婦警の上着の内ポケットからボールペンを抜いた。臙脂色をしたペンの軸の上半分を左に回すと黒いインクの、右に回すと赤いインクのペン先が顔を出した。ペン先を収めたボールペンを、僕は婦警の胸に近づけた。そして、彼女の乳房の膨らみの頂上をペンの先端で押した。
 張りのある反動がペン軸から僕の指に伝わってきた。
 さらに僕はペンの先で丘の中央に円を何周か描いた。そして最後にその頂上に臙脂色のボールペンを垂直に立て、人差し指でペン軸の尻に静かに力を加えた。
 銀色をしたペンの先がゆっくりと彼女の乳房に埋没していく。

「ぅ…ん」

 婦警の小さな声がその口元から漏れた。
 僕は慌てて、チキチキと三度目の電撃を彼女に与えた。婦警は今度は顔を横に向けて意識を失った。そして、今更ながら僕は思った。彼女の横顔をじっくりと眺めるのは、はじめての事なのだと。

 可愛らしい形をした彼女の耳が僕の目に入った。
 その耳を見つめつづけていると不思議な感覚に陥った。耳を走る幾つかの曲線のラインが妙にエロティックに見えてきた。僕は手にしたボールペンの先を彼女の耳に当てた。そして、外耳を走る複雑なラインに沿って静かにペンを動かした。
 時折、婦警の身体がピクリと小さく反応したが、目を覚ます気配ではなかった。
 撫で、押し、そして捲り、先ほど胸にかけた以上の時間、僕は彼女の耳を楽しんだ。

 遠くから列車の到着を告げるベルと放送が小さく聞こえてきた。

 時計を見ると13時30分。
 耳ばかりを弄んでいる場合ではないと思い直し、婦警の履いているズボンのベルトに手をかけた。そして彼女がベルトを二本していることに気が付いた。一本は手錠や警棒を装備した太く厚いものでベルト通しの上側から腰に巻かれ、もう一本は通常のものでベルト通しの内側にあった。
 外すのに苦労した外側のベルトの下に別のベルトのバックルが見えた時は少々面食らったが、内側のものは難なく緩める事ができた。
 つづいて彼女のズボンを脱がそうとして、まだ靴を履かせたままだった事に思い当たった。彼女の足元を見ると黒いスポーツシューズを履いている。ECCOのウォーキングシューズだった。
 婦警の両足の靴を脱がすと濃紺の靴下が現れた。両方の靴下も脱がし、彼女が履いていた靴の中にそれを入れた。

 ストッキングは着けていなかった。

 彼女の足首には靴下のゴムの跡が残っていた。そこを指先でなぞると凸凹とした感触が伝わってきて、この婦警を征服しつつあるという実感が大いに増した。

 婦警のズボンを脱がしはじめた時、彼女の上半身の着衣を緩めた時に感じた戸惑いが、再び僕を襲った。だが、今回はその戸惑いの正体が解った。
 部屋の電気を消していなかったのだ。
 むかし付き合っていた彼女は部屋を暗くしてからでないと服を脱がなかった。そんな彼女を抱く度に繰り返していた「電気を消す」という儀式を、今、この婦警の制服を脱がそうとした時に無意識に思い出してしまったのだろう。

 自然と壁のスイッチに目が行った。
 でも、電気を消すのはやめた。
 ―この彼女は、あの彼女ではないのだ。

 制服のズボンの下にはロングガードルの白い生地が、婦警の太腿を、膝頭の上まで包んでいた。
 僕は、立ち上がり携帯電話に付いたカメラで、ズボンを膝まで下ろした彼女の姿を一枚撮影した。そして再び彼女の傍らに屈むと、その白い下着を慎重に脱がした。
 ガードルの下には白いショーツがあったが、ガードルを脱がす途中でそれは少しだけ捲れてしまい、彼女の下腹部の陰毛が顔をのぞかせた。

 自分の不器用さが恨めしかった。

 黒い陰毛が視界の隅に見えてしまった時、僕はなぜか、失敗した、と思ってしまったのだ。最後までとっておくべき好物を、ついつい先に食べてしまった子どもの気分になっていた。
 ガードルを彼女の膝まで下ろして、ため息とともに、僕は、わずかに捲れてしまった彼女のショーツを元に戻した。そして、携帯電話のレンズ部分を彼女に向けてシャッターを押した。

 既に幾分かの興は殺がれていた。

 その気分をどうにかしようと、僕は思わず、戻したばかりの彼女のショーツを乱暴に下げ、その膝を思い切り左右に開いた。
 明るい部屋の中にさらけ出された婦警の女性器を目にした瞬間、馬鹿な事をしたという後悔が僕を包んだ。

 全てが醜かった。

 彼女の下半身は菱形を描いている。
 その菱形の左右の頂点は左右の膝で、そこでは中途半端に下ろしたままのズボンの裏地にガードルとショーツの白い生地が不恰好に伸びきっている。
 下にある頂点は彼女の足先でこれは特に問題はないのだが、上側の頂点が甚だしく醜かった。
 黒々と不規則に生えた陰毛が、そして、その下にある性器が醜かった。さらに性器の下には小さな肛門が見えており、その穴が大便の排泄器官である事が、僕が感じる醜悪さ増幅させた。
 しかも、上半身は上着が捲れているとはいえ、婦人警官の制服を着ているのだ。
 ネクタイとともにある白いシャツが余りにも眩しかった。

 彼女の上半身と下半身のアンバランスさが蛍光灯の灯りに満たされた部屋の中で僕に眩暈を起こさせた。

 この気分をどうしようかと迷った僕は、壁のスイッチを押し、室内の蛍光灯を全て消した。とはいえ、出入口のドア上部には曇りガラスが、下部には換気用スリットがあるせいで、部屋には真の闇は訪れない。しかし、それは程よい暗さだった。
 その暗さが、この醜い婦警の姿に興醒めになってしまった僕の気持ちを中和してくれる事を願いながら、白いショーツを元に戻し、左右に開いていた膝を閉じた。

 暗さに目が慣れてくるにつれて興奮が戻ってきた。
 先ほど電気を消す前に撮影したショーツ姿の彼女の画像を携帯電話の小さなモニターに映し出した。そして、闇の中にうっすらと浮かぶ現実の彼女の姿と見比べてみた。
 そうしてやっと僕のペニスはさっきまでの勃起した状態を取り戻した。

 僕は、固くなった自分の陰茎を握り、薄闇の中のソファの上でズボンを下げられ白い下着を晒された婦警の姿と、蛍光灯の明かりの下で鮮明に捉えられた同様の婦警の画像を見ながら、自慰をはじめた。
 程なく射精の瞬間はやってきた。
 頂点に至りながら、この興奮が目の前の婦警によるものなのか、携帯画像によるものなのか、はたまた、暗がりの中で以前の彼女を抱いた時の記憶によるものなのか、わからなくなっていた。

 ティッシュペーパーで自分の下半身を清潔に戻すと、僕は部屋の明かりを点け、婦警の下半身を早く元通りにしなくては、と思っていた。
 時計の針はもう14時に近づいている。
 彼女のガードルを戻す途中で、ふと思い立ち、先ほど部屋の隅のゴミ箱に放り込んだティッシュペーパーの屑を取り出した。丸められたその中には、まだ乾いていない僕の精液がたっぷりと付着している。その粘液状の部分を表にして、ショーツの上側から婦警の性器の部分にあてがった。数秒間、ティッシュをショーツに押し付けて、静かに離すと、僕の身体から出た粘液は、短い糸を引いて、婦警の白い下着にドロリとした染みとなって残った。その上から窮屈そうな素材のガードルを履かせると、さらにショーツに付着した僕の精液が、ショーツの裏地にまで滲み込んで、彼女の性器に密着していく感覚があった。
 おかしなもので、直接に彼女の性器を見た時は、禍々しい物を目撃したという激しい嫌悪感があったというのに、今はなぜか婦警の生殖器に興奮を感じていた。
 ズボンを元に戻した時、彼女の陰毛や生殖器をなぜ撮影しなかったのかと後悔していた。

 その後は、なんとか計画通りに事が運べたのだと、僕は思っていた。

 廊下ですれ違った婦警が突然倒れたものだから休憩室へと運び、暫くすれば気が付くだろうと、ソファに寝かせた。
 彼女の衣服を失礼にならぬ程度に緩め、30分ほど待った。
 だが、意識を回復しないので彼女が勤務する鉄道警察隊の詰所に知らせた。

 シナリオは完璧で、僕は彼女を含めて鉄道警察隊の人々に大いに感謝された。
 それで、全ては終わるはずだった。
 だが、歯車は小さくずれ始めていた。

 ある日の昼休み、彼女が休憩室にいる僕を訪ねてきた。手にはコンビニの袋ではなく、洋菓子店の袋が下がっていた。

「先日はありがとうございます。職場の皆さんで召し上がってください」

 ―あぁ、さすがだなぁ。―きちんとしているなぁ、と感心しながら「ありがとうございます。気を使わないでください」と、その日は、その差し入れを受取った。
 まだ、その時は、そうしてもらう事が、僕自身を、嬉しい―というより有頂天の気分にさせてくれた。
 しかも僕のその気分は、携帯のメモリーにある彼女の下半身を下着姿に剥いた画像のおかげで倍加した。彼女の笑顔と、僕だけが知るエロティックな下着姿の秘密の画像が、僕の興奮を加速させてくれていたのだ。

 その後も、時折、彼女は昼休みの時間を使って、休憩室にひとりいる僕を訪ねてきてくれた。―ひとりの食事は美味しくないから、お邪魔してもいいですか、と。
 僕も、彼女の訪問に食事の時間をあわせることにした。

 なにしろ、データには記録していないものの、君の陰毛も、さらには性器の形すら僕はこの目に焼き付けているのだからね。

 婦人警官の制服の下に隠された彼女の秘部を知ることの特権が僕を酔わせていた。
 白いシャツにネクタイを締め紺色のジャケットに階級章をつけた凛とした彼女の姿と、僕の心の中にある彼女の陰毛の下に見えた女性器の残像のギャップが、僕に優越感を味あわさせていた。
 僕と彼女の「蜜月」というものがあるのなら、きっとこの時期の事をそう呼ぶべきなのだろう。

 だが、蜜月の先の違和感は、同僚の言葉とともにやってきた。
 ―あの婦警とはもうヤッたのか、と。
 僕は返す言葉を失った。茫然としている僕に、同僚は―なんだ、違うのか。傍目からはいい感じに見えてるんだがな、と首をひねりながら言った。
 そして―婦警って、なんだかイイよな、とも。

 そんな事を考えた事すらなかった。
 加えて言えば、僕には、そんな事を考える資格すらなかった、と思った。

 急に彼女が「重荷」になった。―そう、以前交際していた「あの彼女」の時と同じように…。

 そして三月も半ばをすぎたある日の昼休み、休憩室に彼女と二人でいる時に、その重さが僕を圧し潰す出来事が訪れた。
 彼女は空色をした手帳のスケジュールのページをめくり、僕に見せながら微笑んで言ったのだ。

「ホラ、月末までにお休みが四日あるんですよ。どこかで一緒に休める日ってあるかしら?」

 彼女の台詞はその時の僕には、きつかった。まるで回答を先延ばしにするように首を傾げて考え込む振りをした。

 お茶を濁したかった。

 そんな僕に、手帳を閉じて立ち上がりながら、彼女は言った。

「内示がありました。来月から県北の警察署に異動するんです」

 ここから県北は遠い。

「お休みの日が重なるといいな…って、思いました」

 彼女は部屋を出て行った。
 そして、二度とこの休憩室には来なかった。

 数日後の昼休み、休憩室にやって来たのは彼女の先輩だという中年の男性警官だった。上司の方ですか、と言うと「俺はヒラだから先輩だよ。上司ってぇのは、別にいるんだよ」と笑った。
 そして、言った。

「明後日、30日。19時26分発の特急。彼女、この駅を出るから」

 僕を見る視線に強さが増した。しかし、口調は物静かなまま、言葉をつづけた。

「わかるな。わかるよな」

 わかった。
 ―が、なんと答えればよいのかは、わからなかった。
 わからないままに、僕はこう言ってしまった。

「―すみません。僕は…警察官とは…お付き合い…できないんです」

 もしもの時、彼女に言おうと用意していた嘘だった。
 中年の警官の喉が「ぅ」と小さな音を立てた。

「ん、ぃゃ、ん…すまんな。すまん事をした」

 そう言って、彼は部屋を出て行った。

 3月30日。
 19時を20分ほど過ぎた頃、休憩室に遠くからベルが聞こえた。そして特急列車の到着を告げるアナウンス。
 僕はソファの背を倒し、その上にうつ伏せになってその音を聴いた。

 そして、テーブルの上にある時計の針の動きを目で追っていた。

 時計の横には、僕が彼女のために用意したリボンで飾った包みが置いてある。
 包みの中には、食器のセットが入っている。

「お皿、あるなら使おうよ」

 彼女ではない彼女の声が遠くで聞こえた。
 19時23分だった。

 時計の長針が文字盤の「5」を指した時、再び、遠くでベルの音が鳴りはじめた。
 そして、低い響きがソファを通して僕を静かに揺さぶった。

 特急列車は駅を出た。

「冗談じゃねぇや」

 ある日、中年の男性警官が、突然、昼休みの休憩室に来て、僕に吐き捨てるように言った。
 ―桜の見頃が過ぎた頃だった。

「悪いけど名前で犯歴照会させてもらったんだが、引っ掛からねぇ。―あぁ言う嘘はつくもんじゃねぇよ。無用の照会なんざぁ、今じゃ、コレモンなんだからな」

 そう言いながら彼は手刀で自分の首を切った。

「はい」

 僕は俯いたままそう答えるしかなかった。

「―ったく、わかんねぇなぁ」

 深いため息とともにそう言い残して、彼は部屋を出て行った。
 でも、僕にも自分自身が「―ったく、わかん」なかった。

 ずっとずっとわかる事はないだろう。
 もしも、たったひとつ、わかる事があるのならば、それはこういう事だ。

 残像は消えない。
 脳裏に焼付いて、剥がす事など出来ない。

 そして、それを「想い出」などという美しい言葉に置換える事さえ許されていないのだ。


  -おわり-




2006/09/15

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