婦人警官 秘密 |
私には人には言えない悪い癖がある。 決して口外する事が出来ない、醜く汚らわしい行為ではあるのだが、それは、日常生活に疲れて鬱屈した私を、確実に至福の時へと導いてくれる。だから、少年時代からつづくその悪癖を、自分では後ろめたいと思いながらも断ち切ることが出来ないまま、とうとう十数年の歳月が過ぎてしまった。 こうして、私は三十歳になっていた。 私が教員として勤める市立中学校では、二年生が修学旅行で学校をあける時期になると、一年生を対象にした「防犯教室」の特別授業が、毎年恒例で行われる。今年、担任するクラスを持たない私は、五十歳を越える大先輩の学年主任の補佐として、この防犯教室の渉外担当となった。 ―とは言うものの、それは至極簡単で単純な仕事だった。 なにしろ、昨年と同じ段取りを設定してやれば、私の補佐としての仕事はあらかた終わったも同然なのだ。 学年主任は「音楽隊のスケジュールが合えばなぁ」と愚痴をこぼしていた。私がこの中学校に赴任する前、一度だけ、防犯教室に併せて、県警本部から音楽隊とカラーガード隊が来校し演技を披露してくれたのだという。「ありゃぁ、華があっていいもんだ」と言いながら、主任はその時の写真を私に見せてくれた。ミニスカートのユニフォームを着た隊員がフラッグを器用に操りながら、体育館をステージに所狭しと弾むように踊っていた。 「警察音楽隊でしょう。私も興味があります」向かいの席にいた音楽科の女教師が、私たちに声を掛けた。「演奏を生で聴いてみたいんですよ。なにしろ演奏でお給料をもらってる公務員ですからね」 音楽教師は、そう言って微笑んだ。―彼女は、吹奏楽部の顧問でもあった。 無邪気に笑うと八重歯が魅力的な、この二十代後半の女教師の微笑みの裏側にある恥部も、私は自分自身の悪癖によって、他人以上によく知っていた。 いや―もしも彼女に、今、恋人がいるのなら「他人以上に」ではなく「恋人以上に」彼女の秘密を知っているのかもしれない。 防犯教室の日がやって来た。 一時限目の授業中に、警察署の生活安全課から二人の警察官が学校に到着した。中年の男性警官と、濃い茶色のフレームの眼鏡をかけた、私と同世代…三十歳前後の婦人警官だった。私が二人を体育館に案内する途中で、男性警官が笑いながら言った。 「先生。来年から交通課の安全教室に切換えてはいかがですか」 笑ってはいたが冗談でない事はわかった。 中学生に「防犯」を啓蒙するのは難しくなってきた、と事前打合せで何度か言われた。不良も今や多様化している、と。苦肉のプログラムが「シンナー防止」と「身を守る防犯グッズの紹介」だった。 「本当はインターネットや携帯電話の使い方を教えたいんですけど」婦人警官も苦笑いで言った。「中一だと縁のない生徒さんも多いですしね」 そして、一応今後のためにと用意してくれたネットや携帯の啓発用チラシを私に示した。 色白のうりざね顔に眼鏡の奥の細い目。小さな鼻に薄い唇。そして、柔らかそうな細い黒髪を後ろに纏めた姿。その頭に被った制帽。その婦警の全てに利発そうな雰囲気と清潔感が漂っていた。 そんな風に彼女を意識してしまった瞬間、私の悪い癖が眼を覚ました。 ―この婦警は、一体どんな? まだ目的を達成できると確信できたわけでもないのに、私の心臓は興奮に大きく脈打ちはじめていた。 ―婦警というのは、またとない獲物だ、と。 妄想がむくむくと音をたてて膨らみ、今まで頭の中を占めていた特別授業の事を、一気に片隅へと追いやってしまった。「防犯教室」準備中の私は、心ここにあらずといった気分になった。 そんな落ち着かない気持ちのまま、シンナーを使った実験のために会議用の長テーブルを設置し、学校で用意したマイクのテストを行った。つづいて、プロジェクタをセットし、警察官が持ってきた啓発ビデオを講堂の壇上背後にあるスクリーンに投影して再生状態をチェックする。同時に進行台本を読みながら照明のオンオフとスピーカへの音声ラインを切換えるタイミングを確認していると、中年警官が苦笑いしながら婦警の方を示すように見て、私に言った。 「台本にはありませんが、ビデオの上映からシンナーの実験に移る時に、彼女、生徒さんたちを怒鳴りますから…」 「え?」 私は、その意味を把握できずに男性警官を見た。そして、婦警に目をやった。私の視線の先で、彼女は「よろしく」とでも言うように笑いながらペコリと一礼し、理由を説明しはじめた。 「どの学校でも、ビデオの上映中から生徒さんの私語が多くなるんです。だから、そこでこちらが怒ります。そうする事で、生徒さんたちは最後まで黙って話を聞いてくれますから。…まぁ、アトラクションみたいなものだと思ってください」そして付け加えた。「―他の先生方に、私が生徒さんたちを怒鳴っても驚かないようにと、事前にお伝え下さいね」 婦警の言葉に、中年警官がさらに笑った。 「あまりの迫力に、他の学校で、事情を知らない先生に止めに入られたことがあるんですよ、彼女…」そして、一拍おいて言った。「―最近の先生は、生徒を怒鳴らないらしいですな。―いけませんなぁ」と。 私を見る中年警官の顔は、いつの間にか笑顔から真顔になっていた。彼の台詞に私の顔が露骨に不快な表情になったのだろうか、婦警がこちらを見て、今度は「勘弁してやって下さい」とでも言うように、ペコリと一礼した。 私の不快感は一度に吹き飛んだ。この婦人警官の「賢さ」を悟った。そして、私は思いを馳せる。―彼女の上品な仮面の裏側に隠された、その知られざる恥部に。 防犯教室の特別授業が始まった。 体育館の照明は落ち、スクリーンにビデオが上映されている。あと数分でビデオは終了する。上映後、照明を点け、スピーカに繋がる音声ラインをプロジェクタからハンドマイクに切り替えれば、残る私の仕事は、この調整室を出て講堂に下り、デジタルカメラで防犯教室の様子を記録するだけだ。 ステージのスクリーンが溶暗した。 私は照明のスイッチを入れ、ビデオのラインを絞りマイクのラインを立ち上げた。「ハイ、皆さん、今のビデオで見たシンナーの恐怖、わかりましたか」と婦警がマイクに向かって話しはじめた。音声はOKだ。割れていないしハウリングも起きない。「よしっ」と、誰も聞く者がいないのに、私の口から声が出た。多少の焦りがあった。 なにしろ、次のプログラムは「シンナーの実験」ではなく、あの婦警による「生徒への叱責」なのだから。 私は、体育館二階の調整室から急いで講堂に下りた。そして、首に下げていたデジタルカメラを構え、この行事を記録するかのように、レンズを生徒たちの前にいる制服姿の婦人警官に向けた。同時に、人差し指でズームの倍率を最大にする。ファインダの中にいる婦警の視線が、その眼鏡の奥で生徒たちを見回すように左右に移動していた。 そして…。 「私語をしない!」 婦警が怒鳴った。連写モードでシャッターを切った。私の目に映ったのは、彼女の鋭い表情の四コマの連続画像だった。そして、ファインダを覗きながら、私は気付いた。その婦警の大声は、マイクを通して響く声ではなく、彼女の肉声だという事に。彼女は敢えてマイクを使わずに大声を出していたのだ。加えて言えば、その肉声はスピーカーから出る声よりも迫力があった。 「皆、私語は慎みなさい!貴重な勉学の時間を割いて防犯教室をする意味を考えなさい!―皆、自分には関係ないことだと思うから私語をするんでしょう!でも…」 しばらくの間。 生徒たちは、水を打ったように静まり返っている。婦警はマイクを口元に持ってきて、今度は静かな口調で話しはじめた。 「―でもね、補導された子どもたちは、みんな同じ事を言います。悪い事だとわかっていた…だけど、断れなかったって。―そして、こう言います。誘った先輩が元気で大丈夫なんだから、悪い事だとは思ったけれど、身体には危険な事ではないだろうと思った…って」 そして、中年の男性警官の方を窺った。彼は既に会議用の長机を前にして立ち、いつの間にか机上にはシンナーの瓶と大きなビーカーが準備されていた。 それを確認すると婦警は生徒たちに向き直って言った。 「実験をします。シンナーがどれだけ危険かを皆さんに理解してもらうために」 こうして、プログラムはシンナーで発泡スチロールを溶解させる実験に移った。警察官の話によると、発泡スチロールというものはヒトの脳と似た成分らしい。私はその事の方が、発泡スチロールの塊がシンナーの液中で一瞬で溶けて消滅してしまう事よりも興味深かった。―しかし、溶解の様子にどよめいた生徒たちを見ると、彼らはそうは思わなかったようだ。 つづいて、防犯グッズの紹介があり、例のネットとケータイのチラシが配られ、防犯教室は、四時限目が始まる前に予定通り終了した。 後片づけをし、中年警官と婦警を見送ると、あと20分で昼休みが始まる時刻になっていた。 学年主任と職員室に戻る途中、私は「あっ」と小さな声をあげた。そして、ポケットに手を入れると鍵の束を取り出し、学年主任に見せた。 「忘れていました。―トイレの施錠」 それを聞いた学年主任は、無言で唇だけを歪め、私に背を向けると職員室に向かって歩き始めた。そして、その時、私の唇も歪んでいたと思う。だが、主任のように不快さのせいで歪んだのではなく、思わずこぼれそうになった笑みのせいで歪んだのだ。 体育館とグラウンドの間に、運動部のために建てられた簡易な造りの一階建ての部室棟がある。 防犯教室の準備が落ち着いた頃、私は、普段は放課後にだけ開錠される、東西に細長い部室棟のそれぞれの端にある男子用と女子用の手洗いの鍵を開けて、体育館でリハーサルに余念のない警察官たちに伝えた。 「手洗いは運動場の方にある運動部室の建物にあります。校舎まで戻るより近いですから。左が男性用、右が女性用です」 今、その部室棟に向かう私は、自然と早足になっている。一刻でも早く「回収したい」という気持ちに、足が焦っている。―上手くいっている確率は未知ではあるのだが…。西側の端にある女子用トイレの中に「目的のもの」はある。 校舎側からは死角となる部室棟の女子トイレの前に立ち、私はドアノブに手をかけると素早く扉を開け、個室の中へと滑り込むように侵入した。 期待に心臓が高鳴っていた。個室の隅に目をやった。コーナーに白い三角のサニタリーボックスがある。 私は、そっと蓋の中心にある小さなつまみを摘んだ。そして、静かにゆっくりと、その蓋を持ち上げた。 ―あった。 筒状に丸められたものが、その中に一つだけあった。 その存在を確認した私は、急いで背後を振り返り、ドアを中から施錠した。 部室棟のトイレの鍵を開けたのは二時限目の授業中で、汚物入れの中は空だった。本校の生徒は、放課後以外はここを使わない。三時限目は防犯教室で今は四時限目だ。 今日、この手洗いを利用した女性はたった一人しかいない。 筒状の包みは生理用ナプキンではなかった。 パンティライナー…いわゆる「おりものシート」と呼ばれているものだ。 私はそれを手に取った。 下着に当たる側を外に、そして、性器に宛がう部分を内側にして丸められた「それ」の端を探り当て、丁寧に開きはじめた。 下着側には、シートがずれないようにするための接着用の糊が薄い膜のように塗布されていて、丸められた筒を開く時に、その粘着部分は「パリパリパリ」と、軽い―そして心地よい音を立ててた。 ビニールにくるまれていた内側の繊維部分が露わになった。 その中央には小さな縦長の黄色い染みが付着していた。そして、その染みのセンターを縦に走るように一筋のラインがあった。そのラインは黄色い染みの濃淡で描かれたものではなく、シート中央を走る一本の立体的な線だった。 シートの中央部分の繊維が「何かに挟み込まれていたように」一本の筋となって僅かに盛り上がっており、それは黄色い縦長の痕跡とともに、私に、あの婦人警官の女性器の形状を容易に連想させてくれた。 性器を撫でるように、染みの中央を走るラインを指先でなぞった。微かな湿り気が残っていた。 そこに、静かに鼻を寄せてみる。 異臭はなかった。しかし、もちろん芳香があるわけでもない。そこは、ただただ無臭だった。消臭効果のある製品だったのだ。 女子トイレの中で、私はその収穫した物を再び丸め、用意しておいた密閉式のビニールパックに入れ、その口を閉じた。 そして、ふと思った。 これではまるで刑事ドラマで見た証拠品のようではないか、と。 そう思いながら、ビニールパックの中身が婦人警官の汚物を吸い込んだ衛生用品である事実に口元が緩んだ。 私の悪習は長く、手に入れた収集物は多かったが、その使用者を確定できる物は、その中でもほんの僅かしかない。同僚の音楽教師の真っ赤な染みが付着したナプキンも、そんな貴重な収集物の一つだった。 今日の収穫には、久しぶりの達成感があった。 一刻でも早く自宅に戻りたかった。 帰宅して、このビニールパックに今日の日付を書いたシールを貼り、そして、デジタルカメラで撮影した婦人警官の画像をプリントしたものをセットにして、私のコレクションに加えるのだ。 なにしろあの画像は、生徒を叱る厳しい婦警の表情だ。 その表情の裏側で、彼女の性器からだらりと垂れ流された分泌液が、私の手中にある。 胸の鼓動が自然と高まり、心は踊った。 歪んだ欲望が次第に満たされていくのを自覚しながら、私は考えた。 ―来年は、交通安全教室に切換えてみようか。そして、音楽隊の派遣も要請してみようか。 〜おわり〜 |
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2007/01/29 |
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