婦人警官 恥部 |
交通課巡査長の小椋英理子が取締りを終え署に戻ると課長が「ちょっと…」と声を掛けてきた。その言い方は英理子の帰りを待ちかねていたかのようでもあったが、それにしては声のトーンがやや遠慮がちだった。課長は英理子に近寄り、そっと耳打ちした。 「すまないが五分ほど、時間をもらえないか」 課長はそれだけ言うと英理子の返事も待たずにドアに向かって歩き出した。慌てて彼女は課長の後を追う。英理子が交通課の扉から長い廊下に出ると、既に課長はその途中にある自動販売機前で立止まり彼女を待つように見ていた。 早足で課長に追いついた英理子に「何か飲むか」と、彼は自動販売機を顎で指した。全てのボタンにはグリーンの灯が点り英理子の指先を待っていた。 「あ、すみません。頂きます」と英理子はホット缶コーヒーのボタンを押す。 ガタンと自動販売機が小さく震えた。取り出し口に落ちてきたブラックコーヒーの温かな缶に手を伸ばした英理子の背中に課長が問いかける。 「柴田…柴田潤一、知ってるか」 英理子の肩がピクリと微かに動いた。彼女は、前屈みの姿勢のまま硬直してしまいそうな身体を、懸命の力で引き起こした。英理子は、自分の上体が強力な粘着テープを剥がす時のペリペリペリという音をたてたような気がした。そうやって彼女はやっと課長に向き直った。 「知ってるかって言うより、憶えてるか…だな」と言いながら課長はポケットから煙草の箱を出して英理子に見せ、さらに廊下の奥へと歩きだす。 長い廊下の先には鉄製の扉があり、そこを開けると屋外の非常階段に出る。このフロアにある唯一の喫煙場所だ。 非常階段を覆う鉄パイプの柵の向こう側には濃紺の空に真っ白な雲が流れている。 チャカと使い捨てライターの石が鳴り、紺青の空に課長が吐き出す紫煙が漂う。 課長と英理子の顔だけが重く曇っていた。 季節は冬。 そろそろ三月に近いというのに気温は未だ回復の兆しがない。 屋外を吹く風は肌に冷たい。 だが、「柴田潤一」について問われた英理子は、非常階段に吹く冷たい風に頬を打たれながらも、ホットコーヒーの缶を手にしている事を後悔していた。 ―こんな事ならば、冷たい飲み物を選んだ方がよかった、と。 ただ、甘さのないブラックコーヒーを選んだのが唯一の救いだった。 「柴田…柴田潤一は高校時代の同級生です。彼が何か…」 そう言って、缶コーヒーのプルタブに視線を落したまま開けた。課長の顔を見つづける事にためらいがあった。 「親しかったのか」と、課長は英理子の問いには答えず新しい質問を投げた。 「仲は…、仲は良い方だったと、思います」そう答えて、英理子は先ほどの問いかけをもう一度繰り返す。「彼が、柴田潤一が何か…」 「今も親交があるのか」 「いえ。…確か三年前の同窓会で顔を合わせたきりです」 それを聞いた課長は指先に挟んだ煙草を咥えた。炎のジジジという音が聞こえてきそうなくらいに深く息を吸い、胸に溜まった煙をたっぷりと時間をかけて少しずつ吐き出した。まるで、もう一言、英理子の答えを待つかのように。そして、その雰囲気を察した英理子は慌てて付け足した。 「しかし、その同窓会でもあまり話はしていません」そう言いながら、ブラックコーヒーの缶を掌の中で静かに回した。「良くも悪くも高校時代の仲の良かった同級生です。それ以上でも、それ以下でもありません」 すると課長は柔らかな声になって言った。 「エリちゃんは、もう二十五歳になっるんだっけ…。高校を卒業して七年か」 「はい」 英理子は、課長の声のトーンの変化に安心したのか缶コーヒーに落としたままだった視線を上司へと向けた。 彼女と課長の視線があった途端、課長は首を捻り、しばらく悩むようなそぶりを見せていたが、左右に振った頭を英理子に向けてやっと口を開いた。 「柴田なあ…シャブ食ってた。昨日、諏訪部署の生安に挙げられた」 そう言い終えた課長の口元は「への字」に曲がり、両眉は「ハの字」になっていた。 「え!柴田クンが」 思わず声がでた。課長に対してはじめて元同級生の柴田を君付けで呼んだ。―むかし、彼をそう呼んでいたように…。 「三年前の同窓会か。大学を出て就職するタイミングだったのか」 「は・はい、そうです」 「じゃあ、最後に柴田と会ったのは警察官になる前だな」 「はい」 「で、特に親密な交際がつづいていたわけでもない、と」 「はい。も・もちろんです」 課長は煙草を一口吸うと上を向いて煙を吐き出した。そして、笑って頷いた。 「うん。問題ないだろう。安心した。地元に勤めてる警察官の中には、たまにこういう事が起こるケースがあるんだよ。深く気にしない方がいいよ。キミはキミ、ヤツはヤツだ」 「あ…あの…」 何かを言いかけた英理子を制するように課長が口を開いた。 「うん。―君たちが高校時代に交際していたのは、もう把握してる。仲は良い方だったと、さっきエリちゃんも言ったじゃないか」 「…!」 「ショックを受けたのはわかるが、必要以上に気を落とすな。今回の件は、多分、マイナス評価になる事はないから心配は無用だ」 「はい」 英理子は力なくそう答えたが、それからどうしてよいのかわからず、手にした缶コーヒーを口に運んだ。心の中が混沌としていて、ホットコーヒーの温度もブラックコーヒーの苦味も感じなかった。 柴田潤一の名を聞いた時、最も触れられたくない思い出が、英理子の脳裡に浮かんでいた。それは、元の交際相手が、今現在、犯罪者になったこと以上に、彼女に重く圧し掛かっていた。遠い昔の出来事として断ち切るべき、誰も知らない…そして、知られてはいけない、英理子の過去だった。 課長の心配とは全く別の次元で英理子は動揺していたのだ。 そんな彼女の様子を見た課長は煙草を消して微笑みを向けた。 「なあ、エリちゃん、今度、頼まれてくれないかなあ」 「はい?」 「交通指導係で子供用の交通安全の紙芝居を作ろうと思ってるんだ。よかったらさ、その絵をさ、描いてみちゃくれないだろうか」 唐突な話題の変化だった。 いつの間にか、課長の視線は部下を見るというよりも、まるで自分の娘を見る優しさを宿していた。 「私が絵を?」 「うん。エリちゃん、高校時代、部活が柴田と一緒だったんだってな。マンケン…漫画研究部」 「!」 英理子は息を飲んだ。 「調査票にも書いていないもんだから諏訪部署の生安から聞いてはじめて知ったんだ」課長は柔和な顔のまま言った。「能ある鷹は爪を隠す…か。絵を描くの達者なんだってな。柴田の自宅から押収したモノの中に、エリちゃんが高校時代に描いた漫画が載った同人誌があったってさ」 思わず英理子は一歩後じさりした。背中が非常階段の鉄柵に当たった。 ―か・隠していたのにずっとずっと隠していたのに。 だが、課長は英理子の恥部をさらに深く抉る言葉を吐いた。 「今度、諏訪部署でエリちゃんの漫画を見せてもらう事にしたよ。今回の件はマイナス評価にはならないって言ったろう。それに、絵が描けるってのは警察官の特技になるんだよ。容疑者の似顔絵を描くって仕事もあるんだからさ。エリちゃんが希望するなら本部の鑑識への推薦も考えてもいい。こういうの自分からアピールしてもいいと思うよ」 ガラガラガラ…と音をたてて英理子の足元の非常階段が崩壊しはじめた。 そんな彼女に課長は幼い我が子を見る父親の表情のまま優しく微笑みかける。 「ずっと以前に交際してた男が逮捕されたのは残念だろうけれど、こういうのをチャンスに変えることも出来るんだ。過去の事よりも、今の自分を大切に考えなきゃな。紙芝居の絵を描くの、昔を思い出して辛いなら断っても構わないけどさ…」 非常階段が崩壊し英理子が叩きつけられた地面に暗黒の穴があいた。暗黒の先にある虚無の地獄へと英理子は吸い込まれていく。 ―終わった…全てが終わった、という英理子の心の叫びには幾重ものエコーがかかっている。 底のない深遠の闇に落下していく英理子の肩を課長の掌がポンと叩いた。 「セシルって洒落たペンネームだったらしいね。『ヤオイ』っていう漫画が得意なんだってな。ヤオイ君ってのが主人公なのかい?」 ―いや、『ヤオイ』っていうのは『ヤマなし・オチなし・イミなし』の頭文字で…とすら言葉にできなかった。当然、描いた漫画のストーリなど話せるわけもない。 自分ですら半ば忘却していた最も触れられたくない己の恥部が白日の下に晒されるのだ。 ―ああこんな事ならどこかの成人向け作品で陵辱される婦人警官のように夜間勤務中に何者かに強姦されその場面をビデオで撮影されそれをネタに更に複数の男たちに輪姦され彼らに脅された挙句勤務中に制服のまま幾度となく弄ばれ性器のみならず肛門にまでも男性器の形をしたバイブレータを挿入されそのままミニパトのシートに下半身を剥かれた姿で縛り付けられ衆人監視の路上に放置されやっとの事で救出されたと思いきやその瞬間に緊張が緩み浣腸されていた肛門から腸内の排泄物がバイブレータをポンと勢いよく弾き飛ばし路上へといつ絶えるとも知れぬ下痢状の糞便を垂れ流しつづけるという目にあった方がどれほど幸福だった事かと英理子は思う。 たとえ非人間的な仕打ちに遭ったとしても、そこには「被害者」という周囲の同情を引く要素が最後の最後には確実にあるのだ。 私の恥部にはそれがない。しかも、私の恥部は、当時、自らが望んで行った事なのだ。 七年前にセシルと名乗った婦警には、奈落の底で泣き崩れることすら許されていなかった。 〜おしまい〜 |
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2008/02/27 |
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