婦人官 屈
  Final Part


 ロビーは吹き抜けで天窓から柔らかな秋の陽光が射している。その陽だまりの中で、岬は彼女が部屋から降りてくるのを待っていた。

 新幹線でふたつの県を越え、在来線で二駅。―それでも4時間かからなかった。駅を降りると、消費者金融の看板で埋められた風景が岬を出迎えた。タクシーで5分も走れば郊外になる…そんな特徴のない町だった。
 海に程近い緩やかな傾斜地の途中に、鮫島の祖母が住む老人ホームはあった。
 彼は、両親を既に亡くし、緊急連絡先をこの老人ホームにしていた事に、岬は先日まで気が付かなかった。鮫島と同じ職場にいた頃も、緊急時は、携帯電話で事足りていた。

 制度上、鮫島の死は殉職だった。「上の方」では、殉職者としての今後の扱いから退職金の支払いに至るまで、かなり揉めたらしい。身寄りが高齢の祖母だけという事も、揉めた原因のひとつだったという話だ。
 結局、監察が手を回し、鮫島の遺体は火葬され、遺骨と位牌が、退職金の受取りなど諸々の書類とともに、宅配便でこの老人ホームに送られた。祖母には殉職のこと以外「被疑者死亡のため不起訴」という事実も伏せられていた。

 あの事件の後、眠れない日が続いた。疲れにウトウトすれば夢を見た。その夢には必ず鮫島がいた。なぜか、自分を直接強姦した春日署々長は登場しない。
 夢の中で、鮫島は、穏やかな表情でじっと岬を見ている。パトカーのトランクの上側から、ある時は署長室で、またある時は生活安全課の部屋で。ただただ、寛容さを宿した満足そうな微笑で岬を見つめていた。
 眠りを妨げる種類の悪夢ではなかった。目覚めた後の気分を陰鬱にする種類の悪夢だった。そして、夢から覚める度に、署長室で気絶する前に聞いた鮫島の言葉を思い出した。

 ―岬にケリをつけるのは俺だ!

 彼は、私にケリをつける前に死んだ。だが、私も鮫島にケリをつけていない。―そう思ってしまう自分を「損な性分だ」と思ったが、捨てるに捨てられなかった鮫島のネクタイピンを遺族に渡そうと、自分なりに強引な理由をつけて、この老人ホームを訪れる事にした。

 エレベータの扉が開き、介護士に車椅子を押されながら、鮫島の祖母が姿を現した。車椅子の中に埋もれるようなその姿は、岬が想像していた彼女のあらゆる姿よりも、小さかった。

「遠いところを申し訳ありません。」

 老婆の頭が垂れた。
 岬は、バッグに入れた白い封筒からタイピンを取り出した。

「鮫島警部の物です。」

 努めて事務的に振舞ったが、案の定、部屋に誘われた。海が見える簡易キッチンの付いたワンルームだった。介護士の同席は鮫島の祖母が断った。
 茶を入れようとする老婆を岬が制した。

「お構いなく。無理をなさらないで下さい。」
「すみませんねぇ。私がこんな身体でなかったら…孫の事は何から何まで職場の方にお世話になって…」

 殉職や退職金の件で幹部が揉めているという噂を、被害者の岬は、下らなく、情けなく、そして馬鹿馬鹿しいと、怒りとともに聞き流すように努めていたが、今、鮫島の祖母を目の前にして、「丸く収まっている」と思い、不思議にも、ほっとしていた。
 鮫島の祖母はタイピンをベッドの脇の棚にある位牌の前に置き、蝋燭にマッチで火を点け、両手を合わせた。
 線香くらいは…それでケリが付くと自分が思えるのなら―と、岬は位牌の正面へとベッドを迂回した。

「ぇ!」

 鮫島の遺影を見た瞬間に、喉の奥で小さな声が上がった。

「お恥ずかしい…他に写真がありませんで…」
「いえ…そういうわけでは。」

 遺影の鮫島は若かった。警察官の制服に身を包み、肩章から金モールが下がっていた。どう見ても警察学校卒業当時の写真だった。だが、岬が驚いたのは、その古い写真が遺影代りに使われていたからではない。
 写真の中で新人の鮫島巡査が笑っていた。
 確かに鮫島は岬の前で多くの笑顔を見せた。しかし、写真の中の笑顔は岬の知らない透き通るような笑顔だった。

 ―どうして…?

 岬の心の中の問いかけに写真は答えてくれなかった。

 エレベータが一階に到着した。
 開いた扉の先にあるロビーは相変わらずの陽だまりの中だ。来訪への感謝の言葉とともに岬を見送る鮫島の祖母は、別れ際に岬に尋ねた。

「孫は…孫は最期まで立派な警察官だったでしょうか。」

 柔らかな陽射しに包まれて老婆の目が岬を見ていた。

「―ハイ。…鮫島警部は、最期まで、ご自身の…信念を…貫かれました…」

 胃が熱くなった。
 鮫島の祖母が階上に姿を消し、タクシーを待つ間、岬はロビー隅の手洗いに入った。駆け込むように個室に入ると便座を上げ、激しく嘔吐した。胃の中の汚物がなくなっても胃液を吐き続けた。
 自分に対して吐き気がしていた。
 鮫島の事を立派だと偽った自分にではない。祖母の質問に、後に「嘘は言わなかった」と言い訳が出来る答え方をした自分が嫌で嫌で仕方がなかった。
 自分を捨てないかわりに、大切な何かを捨てた…私は鮫島と同じだ。

 ―恵に会いたい。

 列車の窓を後方へ流れる風景をぼんやりと眺めながら、岬は、ふと、そう思った。
 鳥越恵巡査は職を辞さない意思を上司に話したという。頼りないと思っていた後輩が、急に逞しく思えた。
 車窓の向こうの田園地帯は既に収穫を終えた単調な土色の拡がりだ。空に恵の顔が浮かぶ。
 青空に浮かんだ鳥越恵は岬に微笑みかけていた。

 ゴォ!と大きな音がして列車はトンネルに入った。
 暗黒が、恵の微笑を消し去ったが、窓の向こうのその闇を、いまだに岬はじっと見つめ続けていた。


  -完-


2005/09/01 脱稿

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