婦人官 屈
  part 22 [as Last Part]


 意識が戻った時、自分がどこにいるのか解からなかった。

「気がついたのか…」

 鮫島の声が近くに聞こえた。

「さっきはカッコよかったぜ…岬。不覚にも見惚れちまった。」

 上から覆いかぶさるようにして鮫島は岬を見つめていた。箱の中に入れられ、上部に開いた蓋から覗き込まれているようだった。岬の瞳に映る鮫島の姿は風景と一緒にゆっくりと回転している。その不規則で緩やかな回転は、ひどい頭痛のせいだと思った。反射的に身体を起こそうとすると、手首と足首に痛みが走った。
 次第に記憶が戻ってくる。
 手足は再び手錠とロープで固定されていた。身体を大きく揺すったが縄は解けそうにない。声を出そうとして、口に布が当てられているのが分かった。
 もがいたせいでネクタイだけが上着の外に出た。

「おいおい、勘弁してくれよ。制服を着せ直すの苦労したんだぜ。」

 鮫島は笑顔で、岬の上着から飛び出したネクタイを元通りに戻した。彼女の服装に乱れはなかった。目の前には制帽が置かれ、引き裂かれたはずのストッキングさえ新品に取り替えられていた。

「これ、着けてろよ。」

 鮫島が、自分のネクタイピンを外して、岬のネクタイに着けた。署内の売店で扱っているありふれたタイピンだった。屈み込んで岬にタイピンを着ける鮫島のジャケットの内ポケットから拳銃の銃把の底が顔を出していた。
 ―いまだに夜。遠くには、大型車の走行音に混ざって、虫の鳴く声が微かに聴こえる。
 頭痛による世界の回転が治まるにつれて、徐々に状況が呑み込めてきた。
 岬は車の後部トランクの中にいた。まだ、ここは春日警察署の駐車場だ。目の隅に、工具箱と一緒に朱色のカラーコーンが見えた。パトロールカーのトランクの中だった。
 鮫島が穏やかな表情で岬の瞳を見た。

「ちょうど出発するところだったんだ。―まいったな、こういうタイミングで目を覚ますとはなぁ…」

 そして、小さく息を吐き、はにかむように笑った。何かを迷っているようだった。

「ん。ま、いいか。」

 そう言うと、鮫島は岬の口を塞いだ布を少しだけずらした。
 ほんの一瞬だけ、彼と彼女の唇が軽く触れた。まるでガラス細工を扱うような軽い軽いキスだった。
 岬の唇にミントが香った。自然のミントの葉の香りにしては強すぎた。グリーンの液体が頭に浮かんだ。それはマウスウォッシュの匂いだった。その香りに遅れて、ごく微かに煙草の匂いがやって来た。

「お別れだ。さよなら…岬。」

 鮫島の声がして、そして、闇がやってきた。パトカーのトランクが音を立てて閉じた。エンジンがかかり、闇が細かく振動を始めた。

 春日署を出たパトカーは右に曲がり、その先の信号を左折し片側二車線の国道に入った。狭いトランクの中、岬の頭に中央分離帯のグリーンの植込みが浮かんだ。
 ―闇の中にいても、どこを走っているのか、きっと自分には判る。
 岬は、頭の中で、春日署管内と、恐らくこの車が向かうであろう隣接する城東署管内の地図を広げた。距離感と方向感覚を誤らないように神経を研ぎ澄まし、その地図にパトカーの軌跡を描きはじめる。この行為が何の役に立つのかは分からない。神に祈るというやり方が思い浮かばなかっただけなのかもしれない。

 急に胸騒ぎがした。しばらくして胸騒ぎの原因が判った。
 頭の中の地図上、パトカーがもう少し進むと、城東署管内へとつづく国道の右側には、公園がある。その公園を横切った先は、例の宝石店だ。
 ―後輩の鳥越恵巡査がそこにいる。
 手錠とロープで縛られた手足を激しく動かした。が、拘束は解けない。パトカーも右折レーンへ移る気配は全くなく、公園手前の信号を通過し、城東署の管轄へと向う。

 だが、次の信号の手前でエンジン音が高くなった。岬を強い遠心力が襲った。
 パトカーは左車線から一気に右折しはじめた。岬が頭に描いた地図上のその場所には中央分離帯の切れ目があった。その切れ目を抜けて対向車線にUターンしたパトカーは先ほど通過した信号を宝石店側に曲がった。

 路肩に停めたパトカーの運転席で鮫島は舌打ちをした。
 閉店中の宝石店に一台の車が向かうのが国道から見えた。気になってパトカーをUターンさせると、その車が宝石店の駐車場に入っていくのが確認できた。
 イレギュラーの出来事だった。
 フロントグラスの向こうに見えるその車のドアには、宝石店と契約している警備会社のロゴマークが入っている。話は通っているはずだった。今夜はパトロールの警備員は店に現れない。
 しかし、車から降りた警備員は店内に向おうとしている。

「なにかありましたか!警察です。」

 パトカーのドアを開けた鮫島は警備員に声を掛けながら、内ポケットの拳銃を握り、早足で店に近づいた。
 振り返った警備員は、笑顔で鮫島を見た。

「やぁ、夜遅くまでご苦労だね。大したことはないね。すぐに片付くよ。」

 警備員の言葉には、東洋系の外国訛があった。

 鮫島の視界から、一瞬、警備員が消えた。次の瞬間、鮫島は喉に冷たさを感じた。その冷たさが、徐々に熱を帯びはじめた。水がこぼれた、と鮫島は思った。
 ―変だな?
 しかし、何かの液体がシャツを濡らしていた。

 喉元を鋭利な刃物で突かれ、真っ赤な血で衣類を染めた鮫島の死体が、消防隊員によって発見されるのは、もうしばらくの時間を待たねばならない。
 そして、路上に停められたままのパトカーのトランクルームから、手足を拘束された岬が見つかるのは、さらにもう少しの時間を待たねばならなかった。


 〜to Final Part


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