| 小夜子 | 「―この件、どういうタイミングで茜本人に伝えるつもり?」 |
| 慶子 | 「…まあ、まずは課長と相談してみます。次期の異動まではまだ暫らくありますから」 |
| 小夜子 | 「風間さんも大変よね。東森さんと仲がいいだけにね」 |
| 小夜子 | 「いい意味でライバルだったそうよ。ライバルの事、日本語で『好敵手』って言うじゃない」 |
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小夜子、慶子に微笑む。
慶子、キョトンとした表情になる。
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庶民的な雰囲気の焼肉店。
店内隅の高い場所には14インチのブラウン管テレビがある。
テーブルに風間と東森が向かい合わせで座りジョッキの生ビールを飲みながら食事をしている。
東森、レバ刺を一口食べ、風間に微笑む。
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| 風間 | 「たまにはこっちにも顔出せって、いつも言ってるじゃないか。―ったく、こんな時だけ」 |
| 東森 | 「おいおい、こんな時だけって、歓迎されてないみたいだな」 |
| 風間 | 「いや、歓迎してるよ。ただ、突然あんな話を持ち込んでくるとは思ってなかったからさ」 |
| 風間 | 「難題っていうか…お前が人事に希望出せばな、松井の異動自体は難題でもないだろうけどな…」 |
| 東森 | 「―ああ、そうか、部下を取られるのが嫌なのか。お前の気分的に難題って事か」 |
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風間、ビールを一口飲み、東森に自嘲気味の笑いを向ける。
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| 東森 | 「ハハハ…。こっちは何時もそんな気分だよ。初任課生が卒業する時期になるとな」 |
| 風間 | 「いや、まあ…ホラ、嫁入りにふさわしくなるまで育ててから手放したいって事さ」 |
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風間、照れ笑いで網の上の程よく焼けたホルモンを取り口に入れる。
二人が注文した皿はすべて内臓の肉である。
店のテレビから流れるニュースの音声が微かに聞こえる。
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| テレビ音声 | 「…チベット自治区のラサで…騒乱…ダライラマ…策動とする…一方で武装警察が…弾圧…死亡者が確認…新華社通信に…温家宝首相は…人民軍の…否定…また亡命政府…条件に対話…発言に批判が…北京オリンピックに…避けられないとの見方も」 |
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風間と東森、テレビの方へ顔を向ける。
ほんの少しの間の後、風間が東森を見る。
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| 風間 | 「なあ…、やっぱアレか…あん時の夢を託したいってのがあるのか?」 |
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フラッシュバック。
テレビ画面を大写しにしたニュース映像。スタジオセットもアナウンサーの服装も時代を感じさせる古さ。
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| テレビ音声 | 「本日、JOC・日本オリンピック委員会はモスクワオリンピックへの不参加を正式発表しました。今年二月に政府による事実上の不参加の方針が決定してからも、JOCはオリンピック参加の可能性を示唆しつづけていましたが…」 |
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画面右上にある文字スーパー「モスクワ五輪ボイコット」が拡大され、走査線の上で荒れている。
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| 東森 | 「あん時は、金は無理でも…銅くらいはって思っていたんだぜ」 |
| 風間 | 「お前が代表に選ばれて俺が落ちた時は悔しかったが、ボイコット決定の時は…それ以上に堪らんかったなあ」 |
| 風間 | 「うん。ロンドンじゃボイコット騒動は起こらないな、きっと」 |
| 東森 | 「いや、大丈夫ってのはボイコットじゃなくて、松井茜が…だよ」 |
| 東森 | 「松井はロンドンには間に合うって事さ。もちろん、金を狙えるレベルになってな」 |
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茜は、ヘッドホンをし、ゲームのコントローラーを手にしている。
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茜、くしゃみでテレビ画面からそれてしまった顔を戻し正面を凝視する。
テレビモニターに映るゲーム画面は3D空間の廃屋を静かに前進している。
突然、物陰から飛び出すモンスター。
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茜の瞳が動き、指先がコントローラーを操る。
十字状のカーソルが素早く標的を把握した瞬間に画面にCGの血しぶきが飛ぶ。
モンスターが倒れた背後に、新たなモンスターが天井から落下するように出現。
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モンスターに十字カーソルが重なった瞬間、再び画面を血しぶきが覆う。
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| 茜 | 「うーん。ゲームだとかなり百発百中なんだけどなあ…」 |
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昼間。
風間課長と慶子の二人が立ったまま話している。
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そう答えた慶子は深いため息をつく。
それを見た風間の目が輝く。
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| 風間 | 「(嬉しそうに)慶子クンも、茜ちゃんの異動には、気が進まないのか?」 |
| 慶子 | 「え?―いや、そういう事はありません。そりゃあ、異動が正式に決まれば寂しい気持ちにもなるでしょうが、茜が可能性を伸ばせる場所に行けるのなら反対する理由はありませんから」 |
| 風間 | 「そうか…そうだよなあ。―世界に通用するって、あの東森が太鼓判を押すんだからなあ。感傷的になってる場合じゃないのかな」 |
| 風間 | 「―ん。いやまあ、なんだ…拳銃の腕は世界に通用するかもしれんが、それだけじゃなくてさ、いろいろな意味で世界に通用するように…まだまだ教えたい事がたくさんあるからさ、茜ちゃんには」 |
| 慶子 | 「ああ…そういう感覚は私も同じですよ。でも、そういうのも東森教官や小夜子さんならキチンとやってくれますよ」 |
| 慶子 | 「ただ、私はこの件を茜に話すタイミングを迷っているんです」 |
| 慶子 | 「早く話したいところではあるんですが…彼女…調子に乗ってしまうところがあるから」 |
| 慶子 | 「いい方向に調子に乗るといいんですけれどね。拳銃特練、しかもオリンピック強化選手だなんて…。妙な方向に調子に乗って、本来の交番勤務に支障がでそうですよ。心ここにあらずって状態の茜の姿がクッキリと頭の中に浮かびます」 |
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風間は慶子の言葉に返事をして、視線をやや上方にあげて何かを考える表情になる。
その一瞬後、自分の想像を打ち消すかのように大きく首を左右に振る。
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| 風間 | 「う!―ほ・本当に話すタイミングを考えないと大変なことになるな」 |
| 慶子 | 「課長ったら。一体、どんな茜を想像したんですか…」 |
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しどろもどろになる風間、気を取り直して慶子を見る。
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| 風間 | 「今度、慶子クンが茜ちゃんと一緒の交番勤務になるのはいつだい?」 |
| 慶子 | 「ん…四日後ですかね。あ、日曜から月曜の朝までだわ…」 |
| 慶子 | 「いえ、特に何も…。ただ、月曜は若宮町一帯が一般ごみの収集日なので…」 |
| 風間 | 「一般ごみの日って…慶子クン、交番のごみは署の方で独自に処理してるだろ。ほんの少しでも、一般ごみとして出しちゃダメだぞ!」 |
| 慶子 | 「あ、もちろん、それはキチンと徹底していますから。いや、まあ…月曜日には…色々ありますしね」 |
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そう言って風間に笑みを向ける慶子。
どう見てもごまかしの笑いである。
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早朝。
看板に「もえるごみ/月・木。プラスティック容器包装/毎月第一金曜。びん・かん/…」と収集日が記されている。
看板の下には、幾つかのゴミ袋が防護ネットで覆われている。しかし、防護ネットには裂け目ができている。
何かの黒い影がゴミ袋の上に落ちる。
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ゴミ捨て場そばの電柱の上空にカラスの群れが舞っている。
電柱の頂に一羽の大きなカラスが羽を休めている。
そのカラスは片目に怪我の傷がある。
片目のカラスの姿は、空に舞う群れたちを従えるかのように悠然としている。
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机に向かっていた慶子、茜を見る。
茜は、その手に虫取り網のようなものを持っている。よく見ると、それは網の部分が大きな魚釣り用のものである。
慶子、茜に向かって顔をしかめる。
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茜、胸を張って答えると、手にしていた網を慶子に押し付けるように渡す。
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| 茜 | 「作戦開始はマルロクサンマル。時計を合わせましょう」 |
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茜、慶子に向かって時計をした腕を出す。
慶子、網の先で茜の頭を軽く叩く。
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| 慶子 | 「ホラ。調子に乗らないの!―さっさと済ませましょう」 |
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街頭の時計が6時30分を示す。
電柱の上の片目のカラスが何かに反応して首をピクリと動かす。
片目のカラスの表情はまるで笑っているかのよう。
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歩道の敷石の上に点々と散らばる生ごみの残骸。
その残骸を移動撮影で追っていくとパンプスを履いた脚が現れる。
その女性のパンプスの足元に、ジェラルミンの盾がフレームイン。
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盾を持つのは、婦警制服に身を包んだ茜であるが、頭部には、制帽ではなく、警察官用の白いヘルメットを被っている。
そして、片手にはハンドスピーカが握られている。
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数名の見物人が、遠目に茜を見ている。
見物人の中には、パジャマに上着を羽織っただけの者もいる。
緊張した面持ちの茜に見物人から声がかかる。
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声援に応えて笑う茜だが、その表情には自信が欠けている。
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茜を望遠レンズで正面から捉えた画面手前の歩道上に、何者かの黒い影が舞い降りてくる。
黒い影の正体は片目のカラスである。
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朝の歩道。
茜の立っている場所と路上のカラスを挟んで反対側の場所。
網を持った慶子が、建物の影に身を潜めるように立っている。
そして、俯き、深いため息を吐く。
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| 慶子 | 「そりゃ、確かに住民の要望ではあるけどさ…無理しなくていいのよ。本来なら、市役所の保健課だか環境課あたりがやるべき仕事なんだから」 |
| 茜 | 「なに言ってるんですか、慶子先輩!市役所の連中は『早朝は勤務時間外なので9時過ぎに伺います』なんて言って逃げたじゃないですか!9時なんてカラスたち、お腹いっぱいになってる時間でしょう…」 |
| 慶子 | 「まぁね。…で、私たちがやらなきゃ誰がやるの、って言いたいわけね」 |
| 茜 | 「ですよー!―地域住民に愛される交番じゃないですかー」 |
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茜はそう言って、交番の隅をチラと見る。
促されるように慶子の視線も交番の隅へ。
そこには、ロッカーに立てかけられた魚釣り用の網。
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茜、ハンドスピーカを地面に置き、その手で腰から警棒を取り出す。
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側面から射す早朝の光の中にジェラルミン盾と警棒を持つ茜の立ち姿。
その姿には、ロボットアニメの決めポーズ的なカッコよさがある。
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慶子、茜の決めポーズ姿を見て、深いため息と同時に頭を抱える。
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茜、走り出す。
見事なスタートダッシュでカラスに向かって走りながら、警棒で盾を叩く。
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だが、カラスの方を見ていた慶子、意外そうな表情になる。
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カラスは慶子の方ではなく茜に向かって低空を飛んでいる。
茜、自分に向かってくるカラスに驚く。
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全力で走っていた茜、両足を踏ん張って止まろうとする。
歩道上を滑る茜のパンプス。
盾を前方に差出し後方に重心を移動させた状態のまま、まるで急ブレーキをかけた車のように、歩道上を滑走する茜。
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片目のカラス、茜に向かって飛びながら空中で足を前に突き出す。
その鋭い爪。
茜、反射的にジェラルミンの盾を顔の前に動かす。
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一方、カラスは、盾をステップにして垂直に上昇する。
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若宮三丁目を、まるで衛星写真のように垂直に見下ろす俯瞰映像。
小さな黒点が急速に大きくなる。
カラス、である。
画面を覆うように大きくなったカラスは、身を翻し下降しはじめる。
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路上に尻餅をついた茜は、それでも上空を見上げている。
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制服の腹部を見つめ愕然としている茜。
紺色の制服の上に、鳥のフンが白いシミとなってベッタリと付着している。
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電柱の頂上に止まった片目のカラス、一声大きく勝鬨を上げるように鳴く。
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その電線の周囲に、数匹の仲間のカラスの群れが弧を描きながら飛んでいる。
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箒の先のアップ。
慶子と、制服の上着を脱いだ茜が住民たちと一緒に、防護ネットの裂目からこぼれた生ゴミを片付けている。
茜が怒りの表情で、大きく膨らんだゴミ袋に、足を使ってさらにゴミを押し込んでいる。
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| 中年男性 | 「ネットをこう何度も破られたんじゃ堪らんですわ」 |
| 中年男性 | 「ですよー。値段も結構するんで、町内会費からじゃあ、またすぐに買い替えともいきませんわ」 |
| 慶子 | 「市役所の環境課の方が9時過ぎに来ますので、ご相談なさって下さい。警察官の立場では、なかなかお役に立てなくて申し訳ないです」 |
| 中年男性 | 「いやあ、婦警さんたちにはよくやって頂いていると思っていますよ。市役所は、ゴミ出しを遅めの時間にするよう町内で決めろって言うだけですから。でも、場所柄ねえ…どうしても夜のうちに出す人もいますし…そういう人は、町内会にも入っていないんで」 |
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中年男性、そう言って周囲を見回す。
若宮三丁目のマンション群。
マンションのベランダからネグリジェ姿の水商売風の女性がこちらを見ている。
慶子と中年男性、その女性と目が合う。
女性、笑顔で大きく手を振る。
中年男性、嬉しそうに手を振り返して、隣の慶子にハタと気づく。
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そう言いながら、中年男性はバツが悪そうに振っていた手を後頭部に持っていき頭を掻く。
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慶子もバツが悪そうに、ゴミ捨て場へと視線を移す。
そこに風が吹き、ゴミ捨て場の防護ネットが静かに揺れる。
裂けたネットは「暖簾」のように捲くれながら風に吹かれてパタパタと音を立てる。
慶子は裂けたネットをじっと見ている。
ネットが風になびく様子を凝視しながら、慶子、ポツリと独り言のように呟く。
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三本の平行線で引き裂かれ、暖簾のように風になびくネット。
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