官 
  Honky Tonk Policewomen


若宮三丁目交番24時

Role-01

 ディレクターの神崎は、ガムテープを手頃な長さに切ると、その糊面が表になるように器用な手付きでそれを繰り返し折り曲げて小さな三角形を作った。そして、三角形の底辺の中央に小型ワイヤレスマイクのヘッドを置くと、同様のもう一枚の三角形でマイクをサンドイッチのように挟んだ。さらに、彼はそれを松井茜巡査の制服の上着の内側にペタリと貼り、マイクに繋がれた送信機を彼女に渡しながら言った。

「ここがスイッチです。上着の内側から腰まで通して落ちないようにして下さい。そして、上着のボタンを留めたらマイクの場所を上から軽く押さえて剥れないようにして下さい」

 茜は言われるがままにその送信機をベルトに固定し、マイクを貼ったテープを上着の裏側とシャツに密着させる。マイクの受信機はパナソニック社製の小型デジタルビデオカメラの背面に取り付けられており、神崎はイヤホンを耳にして、カメラ側面にある音声レベルの表示を見ながら小さなつまみを回している。

 警察密着ドキュメントの取材初日という事もあり、神崎はクルーを連れずに一人で若宮三丁目交番にやって来た。
 今日の彼は、ディレクターでもあり、カメラマンでもある。

「あーあー、本日は晴天なり、晴天なり」

 そう言った茜に神崎はレベルメーターから顔を上げニッコリ笑って頷いた。

「OKですOKです。通常はスイッチはオンで。どうしてもの時は切って構いませんけど」

 茜は腰の送信機のスイッチを手探りで確認しながら神崎に尋ねた。

「どうしてもの時って、例えばどんな時なんですか?―ドキュメンタリー番組なんでしょう」
「んー、松井さんは、仕事中に愚痴ったりしませんか?例えば、上司の悪口…とか」

 神崎は茜ではなく、今夜の彼女の相勤者、瑞枝に言った。

「ぷっ!」

 神崎の質問に瑞枝は吹き出した。

「あはは、そうですね。そういう時はオフにしなきゃだめよ。茜の愚痴は辛口だから、そんなのがテレビで放送されたら、全国の婦人警官のイメージダウンになっちゃう」
「ははは、そうなんですか。そういう台詞もオイシイんですけれどねー。警察特番じゃぁ、さすがにヤバイか…警察の威信が…ははは」

 二人に笑われた茜は頬を丸く膨らませた。

「もー!私、そんなにひどいコト言いません!だいたい、この瑞枝先輩だってですね…」

 と、そう言った茜の口元を指すように、神崎が人差し指を向けた。

「ホラ!そういう時にスイッチをオフにするんですよ」
「あ!」

 思わず茜は掌で口元を押さえた。

「あたしが何ですってぇ?」

 そう言いながら、茜を睨んだ瑞枝は苦笑していた。

「ね。聞かれるとまずい私的な台詞はオフで構わないです。まぁ、編集の時に音声処理も出来ますけど…」と神崎は茜に目くばせした。「冗談はさておき、手洗いとかはスイッチ切らないとですよ。うちの業界でも忘れちゃう女性、たまにいるんで…」

 茜は、またもや「あ!」っと小声を上げたあと神崎にこう言った。

「―聞こえちゃうんだ、ジョロジョロ…って。―ん?でも、する時は水を流すからジャーッ・ゴボゴボーッ…かな」
「へ?」

 はじめて神崎が戸惑った。そんな彼の様子を見て、瑞枝が諭すように茜を見た。

「あ・茜っ!」

 神崎は、そんな瑞枝をフォローするように気を取り直して、元の口調に戻って茜に言った。

「茜さん、面白すぎですよ。今の、ビデオ回しとくんだったなぁ。はは…は」

 茜もつられて笑う。

「てへへへー。―で、神崎さん、今、私、誉められたんですよね」

 神崎は本気で番組の行く末を案じはじめた。
 まだ取材初日だというのに。


Role-02

 時計の針が0時を回った。

 神崎が構えたカメラのファインダには望遠気味に捕えられた茜と瑞枝の姿がある。高感度モードのせいでざらついた画面の中のふたりは、若宮三丁目の飲食店街を巡回している。神崎はカメラのファインダを注意深く覗きながらも、時には、そこから目を離し周囲の様子を注意深く窺う。
 彼の耳にはカメラからステレオイヤホンが伸び、片方の耳には茜に付けたワイヤレスマイクを通して離れた場所にいるふたりの会話が、そしてもう片方の耳には彼自身が持つカメラ付属のマイクが拾う音声が、それぞれ独立してモニタできるようになっている。そして、その音声も録画中であればビデオテープに記録されているのだ。

 掛け値なしの本物のドキュメンタリーを撮りたい。
 神崎は学生時代からの夢を、ふと思い浮かべた。
 キャパが…もしもロバート・キャパが、ビデオカメラを手にしていたら、彼はどんな映像を切り取っただろうか。
 ベトナムに散った伝説の報道カメラマンが、ずっとずっと、彼の目標だった。

 だが、イヤホンを通して聞こえる茜と瑞枝の会話に彼は頭を抱えていた。―あのコなら大丈夫だと踏んだのに…。

「茜…歩き方、変よ」
「へ?ふっ・普通に歩いてますよ、私」
「視閲式の部隊行進みたいになってるじゃない…。落ち着きなさいってば!」
「おっ・落ち着いてますッ!」
「さっきから、右手と右足、同時に出てるわよ!」
「ぅげっ!―はっ早く教えてくださいよう、そういう事は…」

 ―でも、彼女たちを…警察官を必要とする出来事が何か起これば、それなりのモノが撮れるだろう、と神崎は自分自身を鼓舞するかのように思い直す。
 彼の撮りたいものが、ほんの少しの間に、「本物」から「それなり」になってしまった事には気が付かないままに。

「あっ!茜、ホラあれ!」

 と、瑞枝の声が彼のイヤホンに響いた。反射的に神崎は最大望遠でふたりの婦警の様子を捉える。しかし、ズームすると光量が足りなくなった。神崎はカメラの感度をもう一段階上げた。それは感度アップの限界だった。ファインダに映る光景は明るくなったが、ノイズのざらつきも、さらに増した。
 ファインダの中には、ふたりの婦警の足元に、ビルの外壁を背凭れにして歩道に腰を落としているひとりの男の姿があった。背広を着た中年男性だった。酒に酔ったまま寝てしまったようだ。
 ザラザラのその光景の中で、瑞枝が肘で茜を小突きながら「マイクを付けているあなたがやりなさい」と促す様子が見て取れた。

「あ…あのぅ、もしもし…」

 茜が酔っ払いにかける声がイヤホンを通して神崎の耳に届く。

「こっ…こ・こんな所でお休みになられますと、おっ・お風邪をお召しになられますよ」

 棒読みだった。

 今日はダメだ…と神崎は思い、録画中のカメラのRECスイッチを切ろうとした。もう少し撮影されている状態に慣れてもらわなくっちゃな…。
 と、その時、イヤホンに茜の叫び声が響いた。

「ぁあー!ちょっとちょっとちょっと!ダメだって…おじさん!我慢して我慢!ココじゃまずいって!」

 ファインダから目を離していた神崎は慌てた。幸いテープはまだ録画中だ。何事が起きたのかと急いでファインダを覗き込むのと同時に「ぎゃー!」と言う茜の大声と、そして、その向こうで「ぅぇえ…ゲロゲロゲロ…」と男が嘔吐する音が小さく聞こえた。

「ぎぇえー」と茜は意味不明の音声を発して「ぁあぁーやっちゃった」と呟いた。同時に、瑞枝が冷静に東署に無線連絡する声が、茜に付けたマイクを通して小さく伝わってくる。

「もー、おじさんダメダメじゃん。立てますかぁ?」

 イヤホンから聞こえる茜の声に、神崎は微笑んだ。
 酔った男の嘔吐をきっかけに、茜は撮影されているのを忘れてくれたようだ。「ダメダメじゃん」の所は、台詞の文字スーパーをひと回り大きくして色を変え、強調しよう。
 そんな事を考える神崎が見るファインダの中には中年男性の背中をさする茜の姿があった。

「おじさんってば、もぅ!私のお父さんくらいの年でもあるんだから…しっかりして下さいよぅ。一旦、警察署に行って、家族の人に迎えに来てもらいましょうね」
「ぅぇえ…ゲロゲロゲロ」
「ぎぇええー!」

 ―吐瀉の音はまずいかな。生々しすぎるよな。確か夜8時からだったよな、オンエア。茜ちゃんの台詞の後、現場音は絞って、ナレーションをかぶせよう。
 ―そう…例えば、こんな具合に…。
 おやおや、松井巡査の懸命の介抱にも関わらず、お父さんはお構いなし。でも、こんな出来事は交番勤務の婦警さんたちには日常茶飯事…みたいな。
 交番密着シークエンスの「多忙な日常」というワンシーンにはなるだろう。

 そう考えつつ、酩酊状態の男を介抱している茜を遠めから撮影しつづけていると、道路の向こう側から、サイレンは鳴らさず赤色灯だけを光らせてパトカーが一台やって来た。

「よしよしよし」

 と、神崎は声に出さずに思う。パトカーへ中年男性を引渡す様子と、その時に交わされる警察官同士の業務的な台詞を少し聞かせつつ、編集で、去っていくパトカーの映像に繋いで「酒に飲まれたお父さんはこうして警察署へ…。皆さん、酒は飲んでも、飲まれてはいけませんよ」ってなナレーションを入れりゃぁ、それなりに仕上がるな…。

 だが、神崎の安心もつかの間、トラブルは唐突に起こった。

 音声がいきなり途切れたのだ。
 ステレオイヤホンの片方が突然沈黙した。茜に付けたワイヤレス側のイヤホンだ。
 音声が途切れる寸前、神崎は、「お前ら、俺を誰だと思ってやがるんだ!」という酔っ払いの罵声を聞いた。

 カメラ付属のマイクが周辺ノイズを拾う音声は聞こえる。―イヤホン端子の接触が原因ではない。
 ―では電池か?―いや、ワイヤレスマイクの送信機も、そして受信機も電池交換したばかりだ。

 まさか、切ったのか?
 松井茜巡査がワイヤレスの送信機のスイッチを切ったのか?

 神崎はひらめいた。

 ―お前ら、俺を誰だと思ってやがるんだ!
 ―あの酔っ払いは…もしや…?

 まずい状況が起きているのだ!―あの酔漢は…まさか…撮影されると警察にとって不都合な人物か?


Role-03

 ―使えねぇ!…よりによってこんな時に、と神崎は心の中で舌打ちをした。

 警察のドキュメンタリー番組には、放送前に撮影を許可した警察組織の「検閲」がある。―いや、警察ドキュメントが特別なのではない。民放の番組である限り、バラエティでもドラマでも「スポンサー試写」という名の「検閲」がある。
 ―検閲、というのは適切な表現ではないのかもしれないな。テレビ番組なんて「表現活動」ではなく「商業活動」なのだから…と神崎は自虐的になる。

 そして、彼は五年前の出来事を振り返る。

 当時、神崎は、夫が若くして癌に侵されたタレント夫婦を追っていた。夫妻ともに世間に少しは名の知れたタレントで、夫は自らの病状と余命をマスコミに公表しタレントを辞めた。そして、その妻もタレント活動を中断して夫の看病に徹した。

 夫は医師の宣告通りに癌でその生涯を閉じた。

 葬儀の慌しさが落ち着きを取り戻した頃、神崎は、妻が冷えた缶ビールを仏前に供えるシーンに遭遇し、その場面を撮影した。

「主人はビールが好きで好きで…」

 仏前に手を合せた後、カメラに向かってそう話す彼女の目から、涙が一粒だけ零れた。

 ―キャパが…もしもロバート・キャパが、ビデオカメラを手にしていたら。

 半年以上、密着取材を続け、百本以上溜まった取材テープのどこかに、生前の夫が「酒が飲めなくなったのが辛いわなぁ」と苦笑いする場面があった筈だ。
 神崎の頭の中でふたつの映像は編集され、ワンシーンが出来た。

 それは、いささか凡庸で、そして、あまりにテレビ的かもしれないけれど、その時、遠い遠い場所にいる憧れの写真家にちょっぴり近づいた気がした。本当に―ほんのちょっぴり、だったけれど。

 が、スポンサー試写で仏前の缶ビールのシーンをカットしろ、出来なければあの缶にモザイクかぼかしを入れろ、と言われた。仏前の缶ビールは番組スポンサーの競合メーカーの商品だったのだ。

 揉めたなぁ、あん時は。

 長い付き合いの広告代理店の担当者に「次はたとえスポンサーだろうが、あんな事、この俺が言わせないからさ」と、廊下に連れ出されて説得されたんだっけ。「だからさぁ、神崎ちゃん、今回ばかりは折れてくれよ」って。
 ―あいつ、毎回そう言ってるよな。弱いんだよな、俺…。いや、奴が上手いんだろうな。だって、あいつ「俺は頭下げるのが仕事だもん」って言ってるもんな。
 ―あれ、クライアントに頭下げるって意味だけじゃぁないんだなぁ。

 ―いや、違う!

 神崎は我に返る。

 問題は五年前ではなく、たった今、眼前で起こっている出来事だ。
 あの酔漢の正体をカメラに収めなくては。

 神崎は手にしたカメラでの収録をつづけたまま、ふたりの婦警に向かって早足で歩きはじめる。ワイヤレスマイクのスイッチが切られた今、音声を拾えるのはこのカメラのマイクだけだ。
 ―現場に近づかなくては。

 近寄る神崎に、瑞枝が気付いた。彼女は明らかに慌てていた。
 これまでの神崎の印象にある「冷静なポーカーフェイス」羽田瑞枝巡査長と様子が違う。

「ちょっと!神崎さん!遠慮して下さい」

 そう言いながら、まるでカメラを塞ぐかのように瑞枝は神崎に向かって来た。
 今回ばかりは遠慮しようとは思わなかった。

 ―キャパが…もしもロバート・キャパが…。

 ベトナムで命を落とした写真家の彼ならば、当然、更に前に進むはずだ。
 ―その行く手にたとえ地雷があったとしても。

 なにしろ瑞枝の言葉がカメラのマイクで拾える距離まで近づいている。
 警察特番には使えなくとも、このテープを使う機会が将来きっとやって来る。
 たとえ自分が「警察取材出入り禁止」になったとしても、だ。

「羽田さん!今、パトカーに乗せられている男性は誰なんですか?」

 自分の声も収録されるように神崎は大きめの声で瑞枝に問う。

「知りません!答える必要もありません!撮影をやめて下さい!」

 瑞枝が神崎に怒りの感情を露わにしたのははじめてだった。

 心が痛んだ。
 彼女には悪いが、その台詞は「組織防衛のための隠蔽体質」という文脈を持つ。―いや、映像構成によって、そのような文脈を持たせる事が出来る。
 だが、一方で、業界のみならず世間一般からも問題視されている「過熱報道」という言葉も神崎の脳裡を掠めていた。

 ―自分は今、まずい事をやっているのか?

「察して下さい!」

 瑞枝の声が神崎の迷いに拍車をかける。

 ―キャパが…もしもロバート・キャパが…。
 ―神崎ちゃん、今回ばかりは折れてくれよ。

 逡巡。
 ―そして、行く手を塞ぐ瑞枝に負けた。
 瑞枝を乗り越えて、その向こう側の映像を撮影する事を神崎は諦めた。

 ―もしも彼女が屈強な男性警官だったら…迷うことなく前に進んだだろうに…、と自分を慰めながら。

 パトカーのドアが閉じる音がして、赤色灯が東署の方向に遠ざかって行った。
 テープには、カメラの前に立ち塞がった瑞枝の姿しか収録できなかった。

「あなた方は本当に何でも撮ろうとするんですね!」

 瑞枝は、いまだに怒りの感情を神崎へと向けていた。

「少しはこちらの事情も察していただけるものだと思っていました」
「あ・いや…すみませんでした。職業柄…つい…。以後、気をつけます」

 神崎は、形式的に瑞枝に対して頭を下げた。「神崎ちゃん」は、今回も、折れた。
 そして同時に、心の中で、ロバート・キャパにも頭を下げた。―もちろん、瑞枝に対するよりも、深く深く…。

 その瑞枝の肩の向こう側から茜がちょこんと顔を出した。

「こちらこそ、すみません。マイクのスイッチ、突然…切っちゃって」

 茜は瑞枝の肩の向こうに隠れるようにして言った。

「で…でも、どうしてもの時…だったんですよぅ」

 カメラは回りつづけていた。

「私、やっちゃいました。我慢できませんでした」
「?」

 誰も覗いていないファインダの中で、茜は白い手袋に持ったタオル地のハンカチで口元を拭った。

「―もらいゲロ、やっちゃいました」
「……」

 ―キャパが…もしもロバート・キャパが…。

 神崎は、泣きそうな顔になって、憧れの写真家を想った。


  -おしまい-




2006/10/27

TOP     story     index page