婦人警官 四重奏 |
Honky Tonk Policewomen |
第006楽章 妹萌え! それは、慶子と茜が交番勤務の、とある日の出来事だった。 夜9時をまわった頃、机の上にあった慶子の携帯電話がヴーンと音をたてて震えはじめた。慶子は着信表示を見て驚いた顔になり、そして茜に言った。 「―身内からだわ。―ごめん、少しいいかしら」 「あ、どぞ」 茜は、記入中の書類から顔を上げて慶子に返事をし、再び書類に向かった。その茜の耳に、慶子が電話に話す第一声が飛び込んできた。 「お兄ちゃん、突然どうしたの?」 それを聞いた茜は、軽い違和感に捉えられた。 ―ん?お兄ちゃん?「兄さん」じゃなくって「お兄ちゃん」って…慶子先輩らしからぬ言い方だな、と。 「―こっちにいるの?―いつ帰ってきたの?―今日?今こっちに着いたばかりなの?」 交番の隅に移動して携帯電話に話す慶子の声を、茜は、机上の書類を文字で埋めながらも耳に神経を集中させて聞きつづけた。慶子が発した「お兄ちゃん」という台詞に、茜の好奇心がむくむくと音を立てて膨らんでしまったのだ。 「まったく、お兄ちゃんは、いつもいつも突然なんだから…。―でも、久しぶりにお休みが取れたんだね」 ―慶子先輩のお兄さんって東京で働いているって言ってたっけ。そうだそうだ、フリーで色々とやってるって言ってたよな…。いろんな会社のホームページ作ったり、DVDソフトの設計とか、なにやら難しそうなヤツ。競争が激しくて忙しい割りに儲からないらしいけど、それでも「IT関連」だって、以前、慶子さんが笑いながら話してくれたよな…確か。 「お疲れ様。おかえりなさい、お兄ちゃん」慶子は話しつづけている。「ごめんね、私、明日の朝まで仕事なんだ。ところで、実家には連絡したの?」 ―おーおー「おかえりなさい、お兄ちゃん」ですかぁ…いいねぇ、と茜の頬が自然と緩んだ。 「え?―そろそろ結婚しろって言われるからしてないって?―あはは、わかるわかる。父さんも母さんも、私にも毎回、そう言うもの」と、慶子は笑う。そして、その後、真顔になる。「でもね、お兄ちゃん、連絡くらいはしないとダメだよ。そういうトコ、お兄ちゃん、もっとシッカリすればいいと思うんだけどな、私」 ―ん?慶子先輩のお兄さんも独身なんだ…。 「―じゃ、結局、今回も私の部屋に転がり込む気なんだね…、お兄ちゃんたら、参っちゃうなぁ…」 そう言いながらも慶子の声には、困った気配は微塵も無い。慶子の声質は、聞く者に彼女の冷静さを感じさせる軽いハスキー気味の低音だ。茜は、いつもの慶子と変わらぬその声と、その声で話される内容とのギャップが醸し出す不自然さが妙に新鮮で、ますます兄妹の電話での会話に興味が湧いてきた。 「もう、晩ごはん食べた?―え、まだ?―お兄ちゃん、もう9時過ぎだよ…。相変わらず不規則なんだから。あのね…んーと…」そう言って、慶子は少し考え込み、電話の向う側の兄に話しつづける。「駅から私の部屋に行く途中にラーメン屋さんがあるんだけどね、二軒あってさ…白い暖簾のお店じゃなくて赤い暖簾に『中華そば』って書いてあるお店に行ってみてよ。―この時間も空いてるはずだからさ。そこ、ラーメンも美味しいんだけど炒飯が格別なんだ」 お!あの店か、と茜は思う。一度、慶子に連れて行ってもらった中華そば屋だった。うんうん、あそこの炒飯はヤバいくらいに美味しかったな。 「きっと、お兄ちゃんも気に入ると思うよ。―で、私の部屋の鍵はあるんでしょ…うんうん。―でね、キッチンの壁にお風呂のリモコンがあるからね。ボタン押すだけだからさ、お風呂はちゃんと入ってよね!―んで、冷蔵庫にビールが入ってるから、お風呂上りに、是非どうぞ」 ふぅーん、慶子先輩ってけっこう世話焼きなんだなぁ…ちょっと意外…。いや…待てよ…。もしかして、電話の向こうのお兄さんが…ちょっと…だらし…が…ない…の…かな? 「久しぶりに取れたお休みなんだから、今日は夜更かししないで早く寝た方がいいよ、お兄ちゃん。冷凍庫に食パンがあるからね。オーブントースターで焼くだけだからさ、ちゃんと早起きして朝食とるんだよ」 うむむむむむ。 茜は、書きかけだった書類の事を既に忘れ、心の中で唸りはじめた。 ―んー、私、ちょっぴり、引いてきたぞー。まずいぞー。なんだかイライラしてきてるぞー。 抑えることが出来ない茜の不思議な苛立ちは、今のところ、原因不明だ。 そんな茜の気分にお構いなしに慶子は電話での会話をつづける。 「明日、部屋に戻るのお昼の2時くらいになっちゃうかもしれないんだ。―何事もなければ、もっと早いと思うけど、こればっかりは何とも言えないの。ごめんね、お兄ちゃん」 ―ご・ご・ご・ご、ごめんね、お兄ちゃんだってーッ?! ―慶子先輩、自分が悪くもないのに謝るなって、いつも、私たちに言ってるじゃない! ―甘やかしちゃダメだー! と、茜は叫ぶ。もちろん心の中だけで。 「明日のお昼は何か外で美味しいもの一緒に食べようよ。久しぶりなんだから。それから夕食の材料の買い物をしよう。晩ごはんは私が腕を振るったげるね!―お兄ちゃん、何か食べたいものある?」 ―違う違う違う!慶子先輩はこんなんじゃなーい! 茜を激しい苛立ちが襲っていた。 ―慶子先輩は、もっと、ビシッとシャキッとキリッとしてなくちゃ、ダメだー! しかし、当の慶子は、茜の気持ちを察する気配など微塵もなく、ケータイの向こう側の兄との会話をつづけている。 「あははは。―そうね、そうだね。メニューは、明日の買い物の時に決めればいいよね。うんうん、お兄ちゃんの言うとおりだわ。まったく、私ったら、もぅ!」 ―うっううぅ。だんだん悲しくなってきたぞ。―これ以上、場違いな感じの慶子先輩を見たくはないよ。 「そろそろ切るわ」茜の期待にやっと応えるように、慶子は携帯電話に向かって言った。「じゃぁ、明日、お兄ちゃんと会うのを楽しみにしてるわね」 慶子は電話を切った。そして茜に言った。 「ごめんなさいね。気が散ったでしょう」 「―ん、あ、その、あの…ぃや、別に」 「兄と会うのは久しぶりなのよ。―少し、はしゃぎすぎたかしらね」 ―少しどころじゃないですよ、と言いかけたが、その言葉は茜の口から出なかった。茜が遠慮したのではない。 慶子は既にいつもの慶子だった。上司・岡林慶子巡査部長の雰囲気が、茜にその一言を押しとどめさせたのだ。 「兄と話すと、どうしても幼い頃の口調になって困っちゃうのよ。―習慣って怖いわね」 そんな自嘲の笑みも、いつもの如く冷静さを纏っていた。 ―うんうんうん、と茜は大きく心の中で頷く。―これこそ慶子先輩だ、と。 上司と部下というプレッシャーが、なぜか心地よかった。 そして、今になって、茜は、こうも思う。 ―あぁ、私ったらなぜ慶子先輩の会話に苛立っちゃったりしたかなぁ…、あのミスキャストのような台詞を、聞き耳を立てて、もっともっと楽しめばよかったよなぁ…。お兄さん、も一回、私の勤務中に慶子先輩のケータイに電話してこないかなぁ…そしたら、絶対、私、その会話を100パーセント楽しんじゃう自信があるんだけどなぁ…。 んー、なんだか、もったいない事をしちゃった気分だわ。 しかし、その後、兄から妹への電話がかかる事はなかった。 ―残念でした。 ―おしまい― |
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2007/02/21 |
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