婦人警官 四重奏 |
Honky Tonk Policewomen |
第009楽章 アラ、そうかしら 「アラ、そうかしら?」 振り返りながら、彼女はそう言って腰から上を相手の方に軽く捻る。しかし、上半身を相手に向ける角度は浅く、その分、首から上が相手側に捻られる。だが、顔は相手の正面に向く寸前で止まり、眼だけをさらに動かして、黒い瞳だけがやっと相手を見据える。 流し目を送る、というやつだ。 これを瑞枝にやられると大抵の男は堪らなくなる。 瑞枝お得意のポーズである。 だが、今、男たちを振り返り「アラ、そうかしら」と流し目を送ったのは茜だった。 「あははっ!わはははははははは!」 東署地域課の室内が男たちの笑い声でどっと湧いた。 流し目の茜は『瑞枝のポーズ』の姿勢を崩し、身体を大笑いの地域課の警察官たちに向け、胸を張って言う。 「ね・ねっ・ねーっ!似てるでしょう!私、瑞枝先輩をかなり研究したんですよ」 そして再び「アラ、そうかしら」と流し目になって、笑う地域課員たちを振り返った。 「あははは、最高!似てる似てる、そっくり!」30代の男性警官が腹を抱えた。 「わははは…まんま瑞枝だ…ははははは」と、瑞枝と同期の男性警官も爆笑した。 そんな彼らの反応に、茜は悪戯っぽい笑みを浮かべる。 「てへへへへ…そっくりだと思うでしょう。―でも、もっともっと似せてみましょうか…」 茜はそう言いながら男たちに背を向け、またもや「アラ、そうかしら」と振り返る体勢に入り、そして「ジャジャーン!究極の瑞枝先輩、行きまーす」と背中の向う側にいる地域課々員たちに宣言した。 「アラ、そうかしら?」 そう言って振り向いた茜の人差し指は左右の目尻に当てられ、指先が目尻を下側に引っ張っていた。 茜は垂れ目になっていた。 「プッ!」と、遠くのデスクから静観していたように見えた地域課々長がコーヒーを噴き「ゲホゴホガホゲホ」とむせた。 そして咳をしながら課長は茜に言った。 「あ・茜ちゃん…ゲホゲホ…そ・それは反則だよ、反則…ゲホゲホ…や・やっちゃイカンよ…」 言いながら課長も腹を抱えていた。 茜は今度は課長のデスクに向かって振り返る。―もちろん、目尻を垂れさせて。 「アラ、そうかしら?」 課長が「ガハ」と再び咳き込んで笑った。声にならない声で「くくくくく…」と喉で笑いながら、課長は身をよじっていた。 東署地域課は、茜がやる瑞枝のモノマネに湧きに湧いた。 その一時間後、交通課交通事故係の男性巡査長が地域課に茜を訊ねてきた。三十半ばの独身警官だった。 彼は、茜を給湯室に連れ出すとこう言った。 「茜ちゃんは…ん、いや、松井さんは、瑞枝さんのモノマネができるんだって?」 「ありゃりゃ…もう、交通にも伝わっていたんですか…」同じ署にいるとはいえあまり話したことのない交通課巡査長の突然の来訪に戸惑いながら「―瑞枝先輩には内緒ですよ」と、茜は唇の前に人差し指を立てた。 「うんうんうん」と、彼は大きくと頷いて、茜に向かって両手を合わせ「今、ここで、その瑞枝さんのモノマネってヤツをやってみてもらえないかなあ」と懇願し深々と頭を下げた。 そんな彼の熱心さに、茜は署内のある噂を思い出した。瑞枝に関心を寄せる男性警官たちが半ばジョークで…そして残りの半分は本気で瑞枝のファンクラブを作っているという噂だ。ファンクラブとはいえ積極的に瑞枝と接触しようとするわけでもなく、その活動内容の一切は謎だ。きっと、この彼はそのファンクラブの一員なのだろう。 噂だけで内容がわからない『羽田瑞枝ファンクラブ』に茜の好奇心が頭をもたげた。それに、そういった馬鹿馬鹿しいお遊びは、茜も嫌いではないのだ。 ―でもまー、ファンクラブっつーくらいだから、垂れ目抜きでやってみた方が無難だよな―と、茜は腰に手を当てて男性巡査長に振り返った。 「アラ、そうかしら?」 ―さあどうよ、と思いつつ茜が見た流し目の先の男性警官の顔は、意外にも拍子抜けした表情だった。 「―ん、あれ?―聞いた話と違う」と交通課巡査長は首を捻って「眼がさ…もっとこう、瑞枝さんぽいって聞いたんだよ」 「え?―あ。アレですか…」と、両方の目尻に人差し指を当てて、恐る恐る茜は訊いた。 「だよだよだよー!瑞枝さんといえばアレじゃないかあ。彼女はアレが一番のチャームポイントなんだからさあ。もう一度頼むよう。―究極の瑞枝先輩ってヤツをさあ」 くー、何だコイツは、とやや茜は引きはじめた。だが、そこで引き下がったままの茜ではない。それに茜にとっても「アラ、そうかしら」は垂れ目でやる方が自信作なのだ。 交通課の巡査長にクルリと背を向けると、茜は両手の人差し指を目尻にそっと添えた。そして、指先に力を込めて目尻を下側へ引っ張りながら「アラ、そうかしら?」と振り返った。 「ぉ・おおおおおおおお」 男性警官が声を上げた。 ―受けてる…嬉しい。だけど、ちょっとキモい、と茜は思う。な・何かが違う。感動なんてしないで笑っておくれよ。 モヤモヤとした霞がかかった思いでいる茜の両手を男性警官が握りしめて言った。 「ありがとうありがとう。すごいすごいすごい。そっくりだよ。瑞枝さんそのものだよ。完璧だよ」 彼は感嘆の表情で、握ったままの茜の両手を上下に大きく何度も振った。そして言った。 「今度さあ、時間のある時でいいんだけど、プライベートでさあ、ちょっと付き合ってくれないかなあ。君の瑞枝さんの感じ最高だからさあ…署内じゃなくってさあ、もっと落ち着いたところでやってほしいんだよなあ」 「へ?」 「んー、だからさあ…ねえ…茜ちゃん、僕の瑞枝さんになってくれないかなあ…。もちろん、お礼はするからさあ」 「ほへへ?」 「ね。何て言うのかなあ…瑞枝さんプレイ…ってやつをさあ…お願いしたいんだよねえ」 「ぐ!げげげ!」茜は蒼白の顔で首を横に振った。「いやいやいやいや、わ・私に頼むなら、ちょ・直接、瑞枝先輩に頼んだ方がいいじゃないですか…プ・プレイとかじゃなくて、ホ・本物なワケですから…ねっねっねーっ」 すると交通課巡査長は茜の眼を見据えてこう言った。 「そんなそんな…とてもじゃないけど、大切な人に、そういうお願いなんて出来ないよ」 プッチーン! その言葉に、茜はキレた。―じゃあじゃあじゃあ、わっ私は大切じゃないのかぁー、と。 「こっ、断る!断じて断る!」給湯室で茜が吼えた。「なあーにが『僕の瑞枝さん』だ、このこのこのっ!わ・私は松井茜だあ!」 年齢も階級も関係なかった。有り体に言えば頭に血が上ってしまったのだ。 「この私があんたの思い通りになるなんて考えてるなら、そいつは大間違いだぞおーっ!こっ今度、同じ事を言ったら、交通課に訴えてやる!セクハラ処分を受けないうちに、さっさと自分の部署に戻れえ!交通に引きこもって二度と地域に顔出すなあ!瑞枝先輩だってあんたなんかの言うことなんか聞くもんかあ!きっ聞くわけがないっ!聞くわけありませんっ!」 後は何を言ったのか憶えていない。そそくさと逃げるように男性巡査長が立ち去った給湯室を出て、地域課に戻った茜は大きなため息を吐いた。いつもより元気のない茜に同僚たちが声をかけたが「なんでもないです」と答えるしかなかった。 課長のデスクをチラリと見て、さっきのコト報告すべきかな、と考えたが、相手に『今度、同じ事を言ったら』と怒鳴ったのを思い出してやめた。報告をやめた理由はもうひとつある。ちょうどその時の課長は男性向け週刊誌の袋とじページを丁寧にカッターナイフで切っている最中だった…それも至福の表情を浮かべながら。 ダメだこりゃ。 一旦は忘れることで解決しようと決断したものの、それでもなかなか気分は晴れなかった。 交番長の慶子に相談しても上に伝わり問題が大きくなりそうで心が病んだ。由香にはこの手の相談はするべきではない。 この出来事を話すことで茜の気が軽くなるとすれば、相談相手は瑞枝しかいない。 ―瑞枝先輩に話してみようかなあ。 だが、茜はそれを諦めた。 ―とはいえ、自分が瑞枝のモノマネをした事を彼女に知られたくなかったからではない。 ふくれっ面になって「ひどい話でしょう、先輩」と訴える茜を振り返って、瑞枝は、きっとこう言うに違いないのだ。 「アラ、そうかしら?」と。 ―おしまい― |
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2007/10/31 |
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