官 
  Honky Tonk Policewomen


第011楽章 時をかける茜

 今日できる事を明日に回すとだんだんダメになる。
 なぜなら、明日になれば、それは明後日に回されてしまい、ずっとずっと何もしないなんて事になるからだ。
 確かに最近忙しいことを心の中で言い訳にしていた。
 帰る部屋は、ただただ睡眠の場所だった。食事も自炊の時間が惜しくて簡単なものを外で済ませる事が多かった。
 そんな暮らしを淋しいと思えるだけの余裕もなかった。いや…ない振りをしていた。心の底では、何とかしなければと思ってはいたが気持ちを上手く切り替えることができないでいたのだ。

 だが、今日は違う。
 それはいつかはやらねばならないことなのだ。
 部屋に戻ったのは23時を過ぎてはいたが、今日こそは、という決意とともに帰宅した。

 今、茜は冷蔵庫の前にいる。

 思えばいつの事だろうか。
 瑞枝の胸の大きさに嫉妬したあの日。―帰りにスーパーマーケットで子供の頃から苦手だった牛乳の1リットルパックを買った。だが勢いもそこまでで、帰宅してパックを開封したとたん、あの独特の匂いに負けて一滴も口にすることなく冷蔵庫へと戻した。
 最初の二・三日は冷蔵庫の扉を開けるたびに目の隅に牛乳パックが映って鬱陶しい思いをした。一週間ほど経つと、捨てた方がいいのではないかと思いはじめた。だが、捨てるには再び牛乳の匂いを嗅がねばならないと気付き放っておくことにした。半月経つと最早あれには触れないぞという自覚が生まれ、冷蔵庫を開くのをやめた。そして一ヶ月経つ頃には恐怖が芽生えはじめた。あの密閉されたひんやりとした空間の中でそれは既に牛乳とは呼べない別の物体に変化しているのではないかという恐怖だ。

 ある日、茜は夢を見た。
 彼女の右手が牛乳のパックを握っていた。驚いて、その忌まわしいものを振り払おうとしたが掌が開かなかった。
 その瞬間、第二の恐怖が茜を襲った。
 パックの中身の感触が液体のものではなかったのだ。固体でもなく液体でもない流動体のぐにゃりとした禍々しい感覚が伝わってきた。それは互いに反発する磁石が掌の中にあるような収まりの悪い感覚だった。
 茜はショックのため思わず後じさりをした。そのはずみで手の中の牛乳パックが斜めに傾いた。
 ―が、注ぎ口から牛乳はこぼれなかった。
 だが、それは茜を安心させるどころか、彼女の背筋をさらに凍らせた。
 牛乳パックの中身―つまり、今やゲル状の粘液と化した物体が、ゆっくりと静かに…しかし確実に注ぎ口へと向かっているのが、紙パックを通して茜の皮膚に伝わってきたのだ。
 そして、今、その何かが注ぎ口から姿を現そうとしている。
 茜はなぜかそこから目を逸らすことができない。
 かつて牛乳であった何かの姿はまだ見えないというのに、茜はその色がもはや牛乳の白色ではないと知っている。ただし、白ではないと知っているだけで具体的な色彩が何色なのかの確信はない。なぜ白ではない事を自分が知っているのか…その理由すら定かではない。夢の中で往々に経験する「これから起こる事態をなぜか理解できている」あの感覚がそうさせていたのかもしれない。

 ―今、パックの注ぎ口から、その物体が顔を出す…ところで目が覚めた。

 そんな夢を見た頃から、タイミングよくと言うべきなのだろうか、茜の仕事は多忙になった。多忙を極めはじめた。
 二十歳の新人婦警は仕事の処理に夢中になり自室の冷蔵庫の件はしばらくの間すっかり忘れていた。―まるで忘れることを自らが選んだように。

 しかし、いつまでもその状態でいられるわけでもない。
 いつかやらねば…その「いつか」を今日に決めて、一人暮らし用の小型ツードア冷蔵庫に対峙した。
 だが、対峙しはじめたのが23時過ぎだったので、あっさりと今日が終わり明日がやってきた。
 時計に目をやった茜は既に0時を過ぎた事に愕然とした…が、それがいいきっかけになった。

 ついに茜は思い切って冷蔵庫のドアを開けた。

 突然、強烈な刺激臭が茜を襲う……ことはなかった。
 だがしかし、臭気は冷気の拡散とともに静かにやってきた。
 牛乳の腐敗臭は、鼻から脳に抜けるような尖った刺激臭ではなく、まるで滓が沈殿していくように茜の鼻腔を通って口の中へと広がっていった。
 今まで冷蔵庫の中にあったというのに、腐敗臭に冷たさはなく、逆に生温く感じてしまうような不快さがあった。そして、それが嗅覚だけでなく、口の中に纏わり付くように付着し味覚の一部さえも刺激するような感覚があった。

 茜の頭蓋骨の中で脳が激しく重くなり上下左右に揺れた。
 意識が朦朧とし…そして、茜は、時を越えた。

 時を越えた…即ちタイム・リープ…時間跳躍、である。
 嗅覚に与えられた刺激によって、人が潜在的に持つ航時能力を発現する可能性は、古くから識者によって示唆されている。実際に我が国でも、1983年、広島県尾道市の女子高校生がラベンダーの香りによってタイム・リープを行ったという記録が残されている。

 茜は時間を越えて未来の世界へと旅をした。

 ただし、ほんの3秒先の未来へ。
 3秒先の未来には茜がいた。
 3秒後の世界にいる未来の茜も意識朦朧の状態で苦しんでいた。

 茜の部屋で二人の茜が牛乳の腐敗臭にもがいている。
 3秒前の茜が出現した瞬間、両者とも気絶寸前の状態でお互いの存在には気付かないでいた。だが、3秒後の世界に茜が出現して1秒後、人の気配を察したのか未来の茜が3秒前から来た茜の方を見た。
 未来の茜は自分の隣に自分の姿を見て凝固した。
 ―が、しかし、さらに1秒後、3秒前の茜は忽然と未来の茜の前から姿を消した。

 再び、時を越えたのだ。
 今度は、ほんの3秒前の世界に。

 茜が戻った部屋には誰もいなかった。
 元の部屋にいた過去の茜はどこに行ったのか?
 もちろん、茜がここに戻る2秒前に部屋から姿を消し、そこから3秒後の未来へと時間を旅していたのだ。

 こうして、未来に3秒、過去に3秒と二度の時間跳躍を行った茜であったが、本人にその自覚はなく相変わらず牛乳の腐臭による不快感に苦しんでいた。
 時を越える事による乗物酔いに似た感覚も牛乳のせいだと思っていた。
 そうやって激しい眩暈に襲われながら茜が部屋に戻って1秒後、彼女の隣に茜が現れた。
 3秒後の未来に跳躍してきた3秒前の茜である。やはり彼女も茜と同様に牛乳の腐臭に苦しんでいた。
 先ほどから意識が朦朧としていた茜は隣に人の気配を感じてその方向を見た。過去の茜が部屋に出現してちょうど1秒後のことだった。
 苦しむ自分の姿を自分の隣に見て、茜は思わず凝固した。
 その1秒後、茜の隣の茜は突然、姿を消した。

 とうとう幻覚まで見えてしまったぞ、と思った茜は、今にも倒れそうな身体を懸命に支えながら冷蔵庫の前を離れ、テーブルの上に置いた携帯電話を手に取った。そして頭の中を襲う重い鈍痛にクラクラとしながら、最も簡単に発信できる操作方法のひとつ…つまり着信履歴のトップにある番号を表示させ通話ボタンを押した。
 運がよかった。
 その番号は同じ寮に住む由香の携帯電話の番号だった。電話の向こうにいる由香に必死で助けを求めながら、茜は玄関に向かい最後の気力を振り絞って鍵を開けた。
 ドアが開いて由香の姿が見えたとたんに、茜の体から一気に力が抜け気が遠くなった。

 翌日になり、茜は交番長の慶子から厳しい厳しい説教を受けた。
 何しろ、深夜に警察寮の部屋で発生した異臭のため気絶寸前の婦警が携帯電話で同僚に助けを求めてきたのだ。
 夜が明けるまで、婦警寮はもちろん県警本部までをも巻き込んだ上を下への大パニックが起こった。
 隣県の警察本部へNBCテロ対策部隊の出動要請をする寸前だったという。

 こうして深く深く反省した茜が自分の航時能力に気付くはずもなく、当然、それ以降も彼女は牛乳に近づこうともしなかったので、新人婦警が時間を縦横無尽に駆け巡りながら難事件を解決していくという痛快な物語は永遠に封印されることとなったのである。


  -おしまい-




2009/01/04

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