第一回
第二回
第三回
第四回

第一回

[01]

 真夜中に交番の電話が鳴った。

「まただ」

 と、万紀子は眉を顰めた。電話の液晶パネルには「発信元非通知」の文字がある。小さなため息をひとつ吐いて、彼女は受話器を取った。

「ハイ、宮澤交番です」

 既に慣れきってしまった彼女は冷静な口調でそう言った。
 だが、受話器の向こう側は「いつものように」無言だ。相手は万紀子の問いには答えない。ただ「ふっ」と小さく笑う音が受話器から響いてくるだけだ。

 それすら「いつもの事」だった。

 その鼻で笑ったような音は、受話器にある小さな穴を通して相手の息が万紀子の耳に掛かるような錯覚を感じさせ、彼女の気分をいっそう不快にする。
 万紀子は受話器の向こうには男がいると思っている。
 その男の冷笑に「もしもし!」と語気を強めて問いかけると、プツリと電話は切れる。

 ―もう何回、同じ事が繰り返されただろう。

 そう考える度に気が重くなる。

 宮澤交番には三人の警察官が勤務するようシフトが組まれている。
 巡査の万紀子は23歳。交番勤務の地域課々員の中では年齢的にも経験的にもまだ新米で最も下っ端だ。彼女が勤務する日の相勤者は二人とも男性警官で、深夜に何か事件や事故が起こると、主にその二人が対応に出て、万紀子は交番に残される事が多い。
 そして、万紀子が交番でひとりになるタイミングを見計らったように例の電話は鳴る。

 最初は笑い話だった。
 ―適当な番号にいたずら電話をかけた先がたまたま交番だったのだろう。女の声に相手も少し期待しただろうな。まさか婦人警官が電話を取ったとは思わずに、と三人で笑った。

 二度三度と続くと笑ってもいられなくなった。

 最初は、男が笑った後に「宮澤交番です」と言ったものだから、相手は慌てて電話を切った、と思っていた。だが、それは、こちらの思い込みだったのだ。三度目の電話で、相手が「ふっ」と笑うタイミングは、宮澤交番の名前を口にした後だというのがハッキリ解った。

「薄気味悪ぃな」

 と、交番長でもある中年警官が腕組みして嘆息した。そして彼は交番の外へ出て周囲を見回した。万紀子も彼の後につづいて表に出た。
 宮澤交番は無防備だった。
 周囲に立ち並ぶマンションの窓には、深夜とはいえ、数える事が面倒なくらい幾つもの灯りが消えることなく燈っている。ここを監視している者がいたとしても、それを特定するのは不可能だ。

「相手は非通知なんですよ」と、交番の電話の液晶画面の着信記録をスクロールさせながら万紀子は訴えた。「非通知拒否の設定にしましょうか」

 しかし、それはあっさりと却下された。

「マキちゃん、それは出来ないよ。非通知で交番に通報する市民もいるかもしれないしさ、そのうえ…うちの署の電話の中にだって敢えて非通知にしてある番号が幾つかあるだろう…」そう言いながら交番長は着信記録の非通知表示の幾つかをボールペンのキャップの先で指し示した。
「ホラ、これも…そして、これも…地域課からの業務連絡だろう」

 そう言われると、万紀子は納得し頷くしかない。

「あの…NTTに発信元の番号照会はできませんか?―公務執行妨害か威力業務妨害で」
「んー。どうだかなぁ?―多分、上がウンと言わんだろう…。こないだのニュースの…ホラ、他所の県であった110番のいたずら電話…そいつで逮捕者が出たって話。…あれも何百回だが千回だかって異常な数だったろう。―通信司令室でさえそうなんだから交番じゃぁなぁ…。そもそも署の代表番にも下らない電話が多いって言うしな…」

 そして、交番長は捻っていた首を戻して万紀子を見た。

「悪いがマキちゃん、もうしばらく我慢してくれや。女の子だから不安になっちまうのはわかる。とかく恨みを買う職業だ。何か起こってからじゃ遅い。だから、俺も上には報告はする」そして、彼はゆっくりと万紀子から目を逸らした。
「でもな、もしも、俺がマキちゃんと同じ目に遭ったとしたら、笑い飛ばして無視するしかないんだよ。いたずら電話が怖いです、なんてとてもじゃないが言えねぇんだよ。上にはもちろん、同僚にもさ。―うぅん…わかってくれるかなぁ」
「ハイ…おっしゃりたい事はわかります」

 ―つまりは「女である事に甘えるな」という事でしょう、と言い返したかったが、交番長の人のよさが万紀子の反駁を躊躇させた。

「しばらく様子を見ます。でも、そういう電話があった時間や回数は報告しますから、何かいい対処方法があったら教えてくださいね」

 万紀子は精一杯の作り笑いでそう言った。

「すまんなぁ…本当にすまんなぁ」

 そう言って万紀子に詫びる交番長の姿が、却って彼女を申し訳ない気分にさせた。

 その後も万紀子が一人になる度に、例の電話はかかってきた。
 いつの間にか、万紀子は、自分が交番に一人になると電話が鳴るのだ、と思うようになっていた。

 ―そして、やはり、今夜も、一人になった万紀子を電話のベルが呼ぶ。

 まるで、彼女の「期待」に応えるかのように。


[02]

 電話の鳴らない夜は唐突にやってきた。

 その日は曇天で、夜になっても星は見えなかった。夜空を覆う薄い雲の向こう側に、輪郭を失った満月がぼんやりとした姿を浮かべていた。
 深夜、交番に事故の通報があり、相勤の二人の男性警官がパトカーで現場に向かった。一人になってしばらくすると、万紀子は電話機を見た。それは既に彼女の癖のようになっていて、今から10カウントダウンする間にベルが鳴る、という妙な確信すらあった。

 だが、その夜は電話は鳴らなかった。
 代わりに交番の扉が静かに開いた。
 夜気がそっと流れ込み交番の空気が微かに揺れた。それは風となって万紀子の頬に触れた。電話機を凝視していた万紀子は、頬を撫でた夜の気配に、やっと交番入口に視線を移した。
 そこに、男が一人、立っていた。
 長髪で長身の男だった。黒いセーターに黒いジーンズ。そして、さらに、彼の眉を隠し睫毛に触れるほど伸びた前髪のせいで、男の印象は「黒」だった。だが、顔色だけは白かった。

「あ」

 万紀子は、口から小さな声を漏らし、思わず一歩、身を引いた。
 男は、唇の端を僅かに引き攣らせた。同時に、万紀子を追う彼の瞳が細くなった。―笑ったのだった。

「待っていたよ…君が一人になるのをさ…」
「え!―あ・あなた、まさか!」

 男の不気味な笑みを見た万紀子に「ふっ」と受話器から漏れてくる例の音が聞こえた。男の口元から笑い声が出たわけではないというのに。
 万紀子が脳裡で聞いたその音には、電話の向こうから響いてくるあの硬い響きがあった。反射的に万紀子は電話機を見た。その時、机上に置かれたままの携帯無線機が目に入った。万紀子は咄嗟に身を乗り出して無線機を取ろうとした。

 ―ヤツが姿を現した、と。

 しかし、その瞬間、男は猫の敏捷さで跳ねた。入口そばのカウンタデスクの上で、彼の運動靴の底がキュッと鳴った。その残響が消える前に、男は既にカウンタの内側、万紀子のほんの数センチ前に着地していた。万紀子は乗り出そうとしていた上半身を思わず引いた。机上の無線機は遠く離れた。
 金属がたてる激しい音がして背中が硬い物に当たった。スチール製のラックが万紀子のすぐ背後にあったのだ。万紀子の身体は硬直した。

「騒ぐなよ」

 そう言った男は右手を万紀子の目の前に差し出した。その手の中にブルーの何かがあった。彼の手は、静かに、その青い何かを握り締めた。

 ―ガチャッ!

 そして、掌が開いた。―彼が持っていたのはホチキスだった。ホチキスの先端から平たく潰れた針がはらりと床に落下した。
 男は、再び唇の端を歪め、目を細めて笑った。笑うと、その目の下の皮膚が痙攣して細かく震えた。

「騒ぐなよ…頼むから騒ぐなよ」

 万紀子に言いながら、男はホチキスを何度も繰り返し掌の中で開閉した。

 ―ガチャカシャシャシャシャ…

 万紀子の目の前で、文房具の先から、押し潰された平らな針が幾つもバラバラバラと床にこぼれ落ちていった。男の笑いは不器用で、楽しんでいるようには見えなかったが、目だけは滑らかな弧を描いて細くなり、喉を撫でられた猫のような満ち足りた表情が宿っていた。 
 彼はホチキスで万紀子の耳たぶを挟んだ。

「…へ・へへ…ピアス…する?―へ・へへッ」

 かすれた声で男は揶揄するように言った。自分の台詞を洒落たジョークのように思っている口ぶりだった。
 耳たぶに触れたホチキスの金属部品の冷たさに、万紀子は反射的に顔を横に向けた。

「ぃやっ!」

 ホチキスの先から耳たぶが抜けた。その途端、男が怒鳴った。

「てめぇ!言うこと聞けよ!俺のよ!」

 そして、彼の左の掌が万紀子の顔面を覆い、強い力で押した。
 ガン!
 大きな音がして、万紀子の後頭部はスチールラックの扉に打ちつけられた。痛みは感じなかった。実際には鈍い痛みがあったのだが、目の前の凶器である文房具が齎すであろう尖った痛みへの恐怖のせいで、頭部を襲った鈍痛に対する感覚は麻痺していた。
 顔全体を掌で覆われたまま、万紀子の視界は塞がれていた。男の指と指の隙間から辛うじて交番の風景が男の向こう側に覗けるだけだ。

「やめなさい!」

 そう声に出した万紀子は、視界は塞がれていたが口は塞がれていなかった事にはじめて気が付いた。

「やめなさいっ!―あなたは、自分が何をしているかわかってるのッ!」

 再び、声を上げた。自分の声に鼓舞されたのか、万紀子の両手が男の左腕を掴み、顔に貼りついた掌を懸命に引き剥がそうとした。男の腕の力は強かった。程なく万紀子は自分で自分の愚かさを呪う事になる。女の細腕で抵抗を試みたからではない。顔面を覆った左手に必死になるあまり、男の右手の事を忘れていたのだ。
 ホチキスを持った右手の事を。

「何だと!こら!」

 怒号があり、凶器となった文房具の戦慄が再び万紀子を襲った。それは、万紀子の下唇を挟んだ。

「ぅあ!」

 言葉にならない声が反射的に口から漏れた。
 万紀子の下唇は、ホチキス先端にある金属部品で上下から挟まれ、そして引っ張られた。
 万紀子の口は横にやや広く、彼女の顔立ちに明朗快活な印象を与えていて、やや生真面目すぎる性格をカバーしてくれていた。
 その下側の唇は、男の持つホチキスによって不恰好に捲られ、引き伸ばされている。男は、ホチキスの「ハンドルの遊び」の範囲で指先を細かく振動させた。その度に、ホチキスは何度もカチャカチャカチャと音をたて、万紀子の薄い唇の皮膚を脅かした。

「ガチャンといってやろうか…ガチャンと!―痛いだろうなぁ…血が出るだろうなぁ…でも、なぁに、大した怪我にはならないさ、きっとね。だからガチャンといってやろうか…」
「ゃ…ひゃだ…ひゃめて」

 上手く発音できない万紀子の言葉を聞いて、男の声のトーンが緩んだ。

「ふん!やめなさい…が、今度はやめて…になった」嘲笑の後の男の声は落ち着きを取り戻していた。「―だったら、まずこの手を離せよ」

 恫喝の声とともに男の両手に力が入った。頭は背後のラックに押し付けられ、ホチキスに挟まれた下唇はさらに引っ張られた。歯茎の付け根にも痛みがきた。
 万紀子は、男の言うとおりに彼の腕を掴んでいた両手を静かに離した。

「そうだ、そのまま手を下ろすな。その高さのまま両手を広げろ」

 唇に触れているたった一箇所の恐怖が万紀子を命令に従わさせていた。いや、その恐怖は正確には二箇所にある。
 言うまでもなく、ホチキスの針の形「コ」の文字の二箇所の尖端だ。
 もしも男がホチキスを握りしめたなら、射ち出されたコの字形の針は唇を貫通してしまうのか、それとも厚い紙の束を綴じるのを失敗するが如く唇の中で歪んで折れ曲がってしまうのか。


-つづく-

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