婦人警官 凶器 |
第二回 |
[03] 命じられるがままに両手を顔の高さに上げたまま左右に開くと、万紀子の頭部を押さえ付けていた男の掌が顔面を離れていった。掌は離れたがホチキスは唇から離れず、しかも、男の上半身が近付いてきて万紀子に密着した。 男の体臭は黴の匂いがした。 幾度も繰り返されてきた無言電話から漏れる男の息の「ふっ」という笑い声が、またもや万紀子の頭の中に響いた。電話機は匂いを伝えない。あの息の匂いがこれか、と万紀子は黴臭さの不快感に納得する。だが、それは黴の匂いではあるものの、湿った印象は微塵もなく、空気はただただ乾いていた。 「妙な事を考えるなよ…ふふふ。俺は…妙な事を…考えているけどな。ふふふ」 自分の言い回しに酔うように彼はそう言って、空いた左手を万紀子の背中に回した。その手は、万紀子の背の脇側をゆっくりと撫でるように腰へと下りていった。 「う!」 万紀子の全身に緊張が走った。思わずその手から逃れるように身体を捻ろうとした。 「動くなよ!コラ!」 そう叫んで男は万紀子を睨みつけ、右手のホチキスに針が飛び出す寸前まで力を加えた。金属部品が上下から強く万紀子の唇を挟む。 だが、この時ばかりは万紀子は恐れを感じなかった。感じている場合ではなかった。 男の掌の行く手には、拳銃があるのだ。 自然と万紀子も男を睨んでいた。男の顔が一瞬戸惑いを見せたが、指先が拳銃のホルスターに触れた時、彼はやっと、万紀子の怒りの形相の訳を理解したようだった。 「―あぁ、そうか、こいつの事か。―ピストル、取られると思ったのか」 笑っていた。だが、その笑いは、なぜか穏やかな笑いになっていた。唇を挟んでいたホチキスの力が少しだけ軽くなった。 「安心しろよ。ピストルじゃない…手錠だ、手錠を取りたいんだ」 そして、男は言い訳をする表情で万紀子にそう伝えると、腰の背中側に手を伸ばした。ベルトに装備された手錠ケースのボタンが外れるパチという音がした。 男の変化は妙だった。その変化に万紀子は戸惑う。 「警官って因果な職業だな」手錠をケースから抜きながら男は万紀子に言った。 「虫唾が走るよ」 顔の横にある万紀子の右手首に、手錠がカチャと嵌った。 「ゆっくり、手を後ろに回して下げろ」 ホチキスが万紀子を促すように少しだけ閉じた。だが、先程までの強さより幾分か軽い、と万紀子は感じる。 ―私が強気の顔で睨んだからか? 銃を奪われまいとした時を境に、男の態度が急に軟化したような雰囲気がある。だが、油断は出来ない、とも思っていた。常に交番を見張り、私が一人になる度に無言電話をかけつづけた粘着質の人物だ。二重人格かもしれない。またいつ豹変するのかわからない、と。 「さ・げ・ろ・よ!」 早速、男は豹変した…とは、その時の万紀子には感じられなかった。確かに彼は怒っていた。だが、万紀子に対して怒っているのではなさそうに見えた。 「手を下げろっつってんだよ!畜生!」 男の苛立ちを、感じはした。―畜生、と口走るほどの苛立ちは感じた。だが「畜生」は万紀子に向けられた言葉ではなく、男が彼自身に向けて発した言葉であるような印象を受けた。 「畜生…ちくしょう…ちくしょう…」 男は口の中でそう繰り返し唱えた。まるで、自分自身に苛立つかのように…。そして、彼が呪詛の如く「畜生」と唱える度に、唇のホチキスに加わる力が再び大きくなっていった。 そして、男は万紀子の眼を見て叫んだ。 「畜生!同情はしねぇからな!―ピストルが自分の事より大切だなんて仕草を見せても、俺はあんたに同情なんてしないからな!―決めたんだ。あんたをボロボロにしてやるって…俺は、そう決めてここに来たんだ…」 万紀子に対してというより、彼自身に言い聞かせているような口調だった。 だが、万紀子は、男の口から出る文脈を失った言葉の意味を理解できない。そして、それ故に先刻以上の恐怖を感じはじめている。 彼はなぜか拳銃を奪われまいとした私に「同情」した。きっと、その感情は彼自身にとって唾棄すべきものだったのだろう。今、男の炎は怒りの燃料が注がれ再び荒々しく燃えあがっている。 既に「なぜ彼が同情したのか」と考える余裕は万紀子にはない。最悪の豹変が男に訪れていた。今、男の目は据わっていた。 ―狂っている、と万紀子は怯える。 下唇からホチキスが離れた。男はそれを手の中で半回転させると、今度は万紀子の上唇の内側に台座側を差込み、垂直に突き上げた。 「ぅぐあぁ!」 首を支点に万紀子の顔が天井を向いた。「ぁがぁがぁが」と、万紀子の喉の奥―というより口蓋が悲鳴を上げた。 上唇はホチキスの力によって鼻に密着させられていた。 近すぎて焦点のぼやけた男の手が天井の手前にあった。目の先ほんの数センチの位置に、男の親指が添えられたホチキスの針の射出側が見える。 その銀色の部品がゆっくりと迫ってきて、鼻の頭に触れた。―ぐにゃり。鼻に圧力がかかった。 「けっ!なんて顔だ」 男がそう言って笑った。その笑いは禍々しい雰囲気の笑いに戻っていた。 万紀子は否応なしに今の自分のぶざまな状態を想像させられた。激しい恥辱の感覚が万紀子を襲い、開いたままだった口を思わず閉じた。だが、上唇が捲れているせいで、口を閉じても下唇が前方に突き出ている感覚があり、そこから連想する自分の表情もまた醜いまでに不恰好だった。 [04] 右手を男の持った手錠に繋がれ、顔面をホチキスで脅され、そして、左手は顔の横に上げられたままの万紀子に為す術はない。彼の命じるままに後ろ手に手錠をかけられれば、さらに為す術はなくなる。まだ自由な左手で、そして両足で反撃の機会を静かに窺いつづけるが、動いた弾みに男の手がホチキスを握り締めるのが怖かった。 今、何をすべきか、迷いと躊躇いがあった。 「わかったよ!」万紀子の躊躇を見透かしたように男が言った。「ホチキスも手錠も嫌なら…舌、出せ!」 そして、静かに口づけを促すように顔を寄せてきた。 下唇が何かに挟まれた感触があった。もちろんホチキスにではない。ホチキスは上唇と鼻を同時に挟んだままだ。下唇への感触は軟らかく、それ故に、不気味だ。 「ひ!」 万紀子の喉が情けない音で鳴った。 男の唇が万紀子の下唇を軽く挟み、そして、その感触を味わうかのように小さく蠢いていた。まさしく「蠢く」という文字そのままに複数の虫が万紀子の下唇表面を這いずる感覚だった。 「舌、出せよ…ベロだよベロ」 そう言って男が唇を離した瞬間に万紀子の唇が開いた。 男の言葉に従ったわけではない。息苦しかった。身体が空気を求めていた。 「はっ」 万紀子の呼吸音がした瞬間だった。 ホチキスが彼女の顔から離れた。 「はっ」 二回目の呼吸音がした。 が、三回目の呼吸音は唐突に中断された。 「ぅぁ?」 何が起こったのか万紀子には解らなかった。 ガキッ! 何かが歯にぶつかった。 その「何か」は、さらに歯の奥へと素早く侵入した。 バキ! 鋭くもなく鈍くもない音がした。 そして、暫しの間があり、そして響いたのは万紀子の悲鳴だった。 「ぎゃっ!」 その悲鳴を上げたのは激しい痛みの感覚があったからだが、その一瞬前には痺れるような感覚が万紀子を襲っていた。 脊椎を電流が縦断した。 悲鳴に至る前の暫しの間―ほんの僅かの時間に彼女は理解した。さっきまで万紀子の上唇と鼻を圧迫していたホチキスが口中に素早く挿入され、そして、その舌を綴じたのだ、と。 ―正確には舌の厚みを綴じ切れなかったのだが…。 万紀子の悲鳴は、舌の上の鋭い痛みのせいなのか、それとも、ホチキスの針が舌を刺した事を自覚したおののきのためなのか。そこまで思いを巡らす余裕は、今の彼女にはない。 ただただ驚愕があった。 ―本当にやるなんて、という驚愕だ。 「ぐぁぁ」 舌の上の痛みに万紀子は思わず両手で口元を覆った。今、男は手錠を嵌めた万紀子の右手を離していた。 ―馬鹿め、ざまぁみろ、と男の声がしたが、万紀子は舌に突き刺さった針を何とかしようと精一杯で、男の言葉に耳を傾けるどころではなかった。 血の味を感じていた。舌からの出血をその舌自身の機能が味として知覚していた。 舌の表面を、指先でもがくように探ると、爪の先に細く硬い異物が当たった。舌にその先を埋めたホチキスの針だ。打ち込まれたその細い金属を反射的に引き抜こうとしたが、舌を貫けず折れ曲がった針の両端が舌の表面寸前で、それを拒んだ。 軽いパニックが万紀子を襲っていた。 まるでその先が鉤状であるかのように、さらに、その鉤の部分で踏ん張り、その場に必死に留まろうとするかのように、ホチキスの針は舌表面の皮膜一枚から離れようとしなかった。 ―いや、最後にそれを引き抜く度胸が万紀子に無かっただけなのかもしれない。―絆創膏の最後の数ミリを剥す事を躊躇う子どものように。 今や万紀子の心臓は舌に移動している。彼女の舌は、ドクンドクンと大きな音をたてて脈打っている。 引き離されるのを拒むその小さな小さな細い金属を取り去るために、今の万紀子には、もう幾ばくかの勇気が必要だった。 「顔じゃ可哀想だと思ってな…見えねぇ所をやったんだ…。ありがたく思えよ!」 そう言って、男は右膝で万紀子の腹を蹴り上げた。 「ぐは!」と万紀子の喉が鈍く重い悲鳴を上げる。 蹴られた腹を押さえるべき万紀子の両手は、未だに口を覆ったままだ。 腹部の痛みと、そこにつづく次の攻撃から身を守ろうと前屈みになった万紀子の頭上に男の肘が打ちつけられた。 「ぅぐ」 悲鳴を堪えるように、まだ口元から離すことが出来ない両手で強く唇を押さえた。眩暈が襲ってきた。足元がふらついた。そこを狙い澄まして、男は万紀子に足払いをかけた。交番の風景が横方向に大きくぶれた。 ―どさ。 床に倒れた万紀子の腰と肩を激しい痛みが襲った。 男は、万紀子の両手を取り、彼女の右手に掛かったままだった手錠のもう一方を素早く持ち、左手に嵌めた。 手錠の左右の輪を繋ぐ鎖は、近くにあった机の脚に通されていた。 「ぁ!」 小さな声が彼女の口元から漏れた。反射的に腕を縮めると、ギギと鈍い音がして机が僅かに動いたが、万紀子の身体も机に引き付けられるように床の上を動いた。万紀子が床を滑った距離の方が、重い机が動いた距離よりも大きかった。 両手を手錠で机の脚に繋がれ横を向いて倒れている万紀子の右肩に男の靴が乗ってきた。その靴底に強い力が静かに加えられる。 「ぅ・ぅう…」 万紀子の苦悶の声も空しく、彼女の肩は男の足によって床に押し付けられ、そして、身体は仰向けにされてしまった。さらに男は、片足を万紀子の右肩に乗せたまま、ゆっくりとしゃがみながら、怯える彼女の顔を覗き込む。 今、万紀子の目の前には、声なく笑う男の顔がある。 -つづく- |
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