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第四回

[07]

「拳銃がさ…」

 ポツリとそう漏らした男は、その台詞につづく言葉を見失ってしまったかのような悲しい顔になった。そして、もう一度、同じ言葉を繰り返した。

「拳銃がさ…拳銃の事がさ」
「拳銃の事が?」

 万紀子は思わず鸚鵡返しにそう尋ねた。

「…拳銃の事が、大好きなんだ。―そういう人間なんだ、僕は」

 万紀子の胸を掴んでいた彼の手が軽く緩んだ。『俺』が『僕』になった。

「だから、あんたの銃には手を出さない」そして、男の顔に自嘲の笑いが浮かんだ。「ガンマニア…そういう人種がいるって、理解できるかい?―なかなか、世間には認められにくい…趣味、だ」

 瞳を大きく見開いて男を見ていた万紀子は、彼の問いに小さく頷いた。
 警察官になってからというもの、世の中に変わった趣味を持つ者がいるとは、上司や同僚から事あるごとに聞かされていた。そして、万紀子の職業柄、概ねそれらは犯罪者の悪癖として語られた。
 収入が充分にある者の万引き、愉快犯の放火、新興宗教への傾倒、自傷を繰り返す自殺マニア、下着の蒐集や盗撮・ストーカー・同性愛…数え上げれば限がなかった。
 だが、問いかけに頷いた万紀子に、彼は首を横に振りながら言った。

「でも、あんたがいくら頷いたって、わからない…。あんたらに…普通と違う者の気持ちはわからない」

 その言葉を聞いた万紀子の喉が、ゴクリと鳴った。

「普通じゃないからわからない。わからないから不安になる。そして、世の中の不安を無くすのが仕事だというのを口実に、普通からはみ出した者を傷つける」

 彼はそう言いながら、万紀子の胸を覆ったブラジャーのカップに手を掛けて静かにずらした。色白の乳房の中央に小さな薄紅色の乳首が顔を出した。その小さな突起を男は親指と人差し指の先で摘んだ。
 ピクリ、と万紀子の身体が小さく震えた。

「銃が好きなやつの中には犯罪に手を出すのも確かにいるさ。本物に手を出したり、エアガンを改造したり、人を撃ったり…」

 乳首を摘んだ彼の指に、次第に力が加わった。

「ぃたっ!」万紀子は小さく叫んだ。
「でもなぁ、そういうのが起きるたびに、こっちは白い目に晒されてきた。今じゃモデルガンなんて規制でがんじがらめだっていうのにな…」男は万紀子の叫びが聞こえないのか、さらに指先で乳首を押し潰しながら話をつづける。「僕だって一度は本物を撃ってみたいさ。でも、耐えてきたんだよ。ルールは守ってきたつもりだ。―そして、それが僕のプライドだった」

 男の指先は、万紀子の乳首を限界まで平たく潰すと、今度は手前に引っ張りはじめた。彼の言葉よりも指先の方が、警察に対する憎しみを雄弁に語っているようだった。

「なのに…あんたらは、そういう事は何にも考えちゃくれなかった!」
「何があったの、一体?あなたに!」

 思わず大声で訊ねていた。―胸の痛みを一瞬でも忘れようと。
 男の指の動きが止まった。だが、指の力が緩んだわけではなかった。万紀子を見ていた彼の目が大きく静かな瞬きを二回した。そして、彼はこう言った。

「―僕は銃刀法違反の前科者になった」
「え?」
「ぜ・ん・か・も・ん・だよ!前科者!―どうだい、前科者にこういう事をされる気分は!」

 男の手が乳首から離れた。だが、その手は万紀子を許したわけではない。男は掌で万紀子の顔を包み込むと、上側から体重を加えてきた。後頭部が床に押し付けられた。ゴリゴリという音が頭の中に響いた。その力に合わせるような強い口調で彼は言った。

「―だからなぁ、ホチキスを使ったんだよ!武器になるはずのないホチキスをな!」

 床に接した後頭部は鈍く重い痛みに襲われ、さらに両方のこめかみには男の指が食い込んでいた。ぼんやりとしはじめた意識の中で、万紀子は股間に男の手を感じた。その手は、万紀子の紺色のズボンの上から彼女の股間を握りしめていた。
 ―ギュッギュッと軋む音が聞こえるかの如く―強く、強く。
 男の握力による性器への刺激は、皮膚からでもなく肉体からでもなく、恥骨を通して万紀子の頭蓋の芯に伝わっている。

「言っただろう!―手前ぇらは、大人しく言う事を聞けって脅し文句を使って、弱い者につけ込むってな!そうやって、俺を前科者にしたんだよ!」

 男の台詞の一人称が『僕』から『俺』に戻った。そして、彼の手は万紀子の股間を離れ、拳銃・警棒そして手錠を装備した帯革を外し、その下にある制服のズボンに通ったベルトを外しはじめた。

「だから、俺も警察の弱いところにつけ込む事にしたんだよ!―わかるか?―え!―わかるか?」

 興奮に上ずった男の声が万紀子に降りかかる。その男の手は万紀子のベルトを解き、前留めのホックとボタンを外した。そして、ジジジジジジという音を微かに響かせながら、彼女のズボンのファスナーを下ろした。

 交番勤務の万紀子は裾の短い活動服にズボンを着用しなくてはならないので、下着のラインが出ないようにロングガードルを履いていた。

 男の手は、万紀子の下半身にあるガードルとその下のショーツをまとめて掴み、ズボンと一緒に、一気に膝の上まで慌しく引き下ろした。
 男の指先が、剥き出しになった万紀子の性器に触れ、そして乱暴にまさぐった。

 その動きは、乾いたままの万紀子の陰唇に苛立つような乱雑さだった。


[08]

「畜生!―なんで、濡れてねぇんだよ!」

 男が叫んだ。―何度も何度も悔しそうに叫んだ。

「畜生!畜生!畜生!」

 そして、そう叫びながら、彼の手は万紀子の陰部を離れ、その握りしめた拳が、彼女の顔のすぐ横で床を激しく叩きはじめた。床を殴る振動が、朦朧とした万紀子の頭にも伝わってきた。―男の、己に向けた慙愧の言葉とともに。

「―ちくしょう!なんでだ!―なんで、勃たねぇんだよ!―こんな時に、なんで、勃たねぇんだよ!」

 万紀子は、ガンガンガンと床に打ちつけられる男の拳の響きとともに、彼の行き場のない怨みが狭い交番の中に濃厚に充満していくのを感じていた。

 そして、その時、それは突然起こった。
 ガチャリと音がして、交番の扉が開いた。

「何やってんだよ!」

 別の男の声がした。
 だが、それは、交番に戻ってきた相勤の男性警官のものではなかった。

「ざけんなよ、てめぇ!」

 新たに現れた男の声も興奮に上ずっていた。
 その声につづいて、ゴンと鈍い音がした。

「―ぐぁ」

 今度は、万紀子を襲っていた男の短い悲鳴。床を殴る拳の音が止むと同時に、万紀子の上半身が重くなった。彼女に覆いかぶさっていた男が倒れこんできのだ。
 倒れた男の向こう側に別の男が立っていた。彼は、短い角材を持っていた。第二の男は、万紀子の上に倒れこんだ男の身体を、靴の先で彼女の上半身から乱暴に引き剥がした。そして、手にした角材を振り上げると倒れたままの男の上に何度も何度も繰り返し叩きつけた。

「ぅあ…ぅぁ…ぅっ」

 角材が振り下ろされる度に倒れたままの男は弱々しく唸るような声を上げていたが、それも次第に小さくなり、そして聞こえなくなった。しかし、交番に現れた男は、沈黙したままの男の上を容赦なく角材で殴りつづけた。
 今、何が起こっているのか、万紀子には判断できなかった。ただ、新たに危険な状況が起きている事だけは感じた。

「―やめて!もう、やめて!」

 反射的にそう大声で叫んだ。
 角材の男の動きが止まった。彼は大きく見開いた目で万紀子を見下ろしていた。幼い顔をしていた。童顔ではなく実際の年齢も若そうだった。万紀子よりもずいぶん年下―高校生くらいに見えた。

「やめてじゃねぇよ!」その少年は、怒りに満ちた表情で万紀子に向かって言った。「助けてやってんじゃねぇか!俺が助けてやってんじゃねぇか!―なんで止めるんだよ!」
「……!」

 万紀子は言葉を失った。
 だが、彼の罵声は止まらない。

「なんだよ!簡単にやられちまって!冗談じゃねぇよ!婦人警官なんだから…だから・だから、こんな奴くらい、一人でもやっつけろよ!一対一だろうが!―なんで、やっつけてくれねぇんだよ!情けねぇ!なんで簡単にやられちまうんだよ!―俺が来なかったら、どうするつもりだったんだよ!―俺があんたの事、見てなかったら…どうなってたと思うんだよ!」

 彼は尋常ではないくらいに興奮していた。顔を紅潮させ万紀子に訴えつづけていた。少年の両目に涙が滲んでいるように見えた。

「もっと強いと思っていたよ、あんたの事!―かっこいいと思っていたよ!―だから…だからずっとずっと見てたのに!何だよ、ちきしょう!」
「オイッ!お前―何をしている!」

 また別の男の声がした。今度の声は万紀子も聞き覚えがあった。
 交番長の中年警官の声だった。


[09]

「―ああいう事があったんだ。次の異動の事も考えてるから、しばらく署で内勤に就くのはどうだい?」

 事件から数日後。ある晴れた日の午後三時。警察署の会議室。
 交番長が万紀子にそう言って、紙コップのホットコーヒーを啜った。
 万紀子は俯いたままだった。―実際のところ、あの事件以来、彼女は代休消化を勧められ交番勤務のシフトから外されていた。
 交番長は閉め切られた部屋の窓を開け、深呼吸をした。
 その深呼吸は重いため息に似ていた。―二人だけでいるには広すぎる会議室と長すぎる沈黙の時間を持て余した重い重いため息に似ていた。
 窓の外には抜けるような青空が広がっているというのに。

「マキちゃんを襲ったホチキスの男なぁ、前科持ちじゃなかったんだよ」空を流れる雲を見ていた交番長は、万紀子を振り返って言った。「ふた月ほど前、職質を受けてな…手荷物検査で…十徳ナイフ…いや―マルチツールなんて言うらしいが、そいつが出てきてな」

 俯いていた万紀子は交番長の方を見た。

「スイス製でさ、正確には、銃刀法には触れないらしいんだが…まぁ、わかるよなぁ、どうなったか」

 万紀子は頷くことなく、じっと上司を見つめていた。

「説諭して、所有権放棄させて、検察不送致。微罪処分で一件落着。検挙数が一件。―ありふれた事案だ」今度は交番長が俯いた。「俺たちにとっちゃぁ、ありふれてんだが、まぁ、ヤツにしてみりゃぁ、前科がついたように思ったんだろうな。―指紋も取るし、身分も確認して記録に残すからなぁ」

 涼しい風が窓から流れ込んできて、万紀子の髪をそっと揺らした。

「それで復讐…」彼女の重い口がやっと開いた。
「マキちゃんに非はないよ。それはヤツも認めてる。そのスイス製のナイフは、彼の宝物だったらしいんだ。それを警察に奪われたのが悔しかったってさ…。そん時の担当に聞くと、ナイフの所有権放棄にずいぶん抵抗したらしい」

 そう言いながら交番長は万紀子に背中を向け、窓の外を見た。

「自分の身を護るために持ってるんだってな。―だけど、護身用だって言い訳は通らないわなぁ…。それで、逮捕をちらつかせて半ば強制的に所有権放棄させたんだけどな…」

 ―大人しく言う事を聞けって脅されて、大切なものを…無理矢理に奪われた。
 万紀子の脳裡に交番での彼の台詞が甦った。
 交番長が万紀子を振り返った。

「でも、今回、わかったんだが、『自分の身を護る』ってぇのは、護身用って意味じゃなく防災用ってコトらしいんだよ」

 そこで、交番長は言葉を止めて「ふぅ」と息を漏らした。

「10年以上前、学生時代、彼は神戸にいたんだ。そして、そん時、阪神淡路大震災が起きた…」
「―!」
「無事だった彼に、故郷の両親が贈ったんだ。サバイバルグッズのつもりだったんだろうな。ビクトリノックスって、名の知れたブランドでさ…。地震の被災者でガンマニアの彼にはピッタリのプレゼントだったと思うよ、俺も…。―それからずっと肌身離さず、お守りみたいに持ち歩いていたらしい。―確かに…ヤツの…宝物…だわなぁ…」

 交番長は数度目のため息を吐いた。今日一番深く重いため息だった。
 万紀子は静かに右手を自分の腰に当てた。交番勤務の際に拳銃を装備している場所だ。だが、今、そこには拳銃はない。

「そして、角材の少年の方な…17歳の高校生。彼をどう処理するかは、今、内部でも少し揉めてるんだ。マキちゃんを助けるにしちゃあ、やりすぎだし、それに…」そこで彼は言葉に詰まった。
「―それに?」

 万紀子が小さく問い返し、交番長が再び口を開く。

「交番へのいたずら電話の件もあるしな…」
「あぁ…」

 それを聞いた万紀子は低い声とともに息を吐き出した。
 最初は自分を襲った男が、無言電話の主だと思っていた。だが、少年に浴びせられた『―ずっとずっと見ていた』という言葉に、彼がただの通りすがりでないだろうと予感した。もしやと思った。その予想が外れてくれる事を祈ってはいたが、そうはいかなかった。

「交番近くのマンションに住んでてな、部屋に高倍率の望遠レンズが付いたカメラがあった。―そいつで、ずっと、こっちを見てたんだとよ」そして吐き捨てるように言った。「17歳っていやぁ他にあるだろうがなぁ。同級生を好きになるとか…。だのに、よりによってなぁ…」

 そして、万紀子を見た。
 彼と彼女の目が合った。
 交番長が急に戸惑った。

「―あ、いや、その…そういう意味じゃないんだよ」
「?」
「いや、だから『よりによって』って言うのは、そういう意味じゃないんだよ…」

 やっと、万紀子にも交番長がうろたえた理由がわかった。彼の当惑の様子を見て、重かった万紀子の胸の中が、一瞬のうちに、ずいぶんと軽くなった。
 少しばかりがさつな口調の中に、時折、不器用な繊細さを見せるこの交番長を、万紀子は上司として好ましく思っていたのだ。
 ―それを今、改めて自覚した。

「―あの…私は、引き続き交番勤務に就く事を希望します」

 万紀子は交番長を真っ直ぐに見つめて言った。

「え?―おい、マキちゃん…」
「大丈夫です」

 今まで俯きがちだった背筋を伸ばして上司に答えた。
 そして、静かな決意とともに思う。

 ―自分も危険な道具を持っている。
 それは拳銃や警棒の事ではない。
 実体のないそれは、警察官という職業が必然的に持っている。
 刃(やいば)を向ける先を誤った時、それは禍々しく鋭い凶器となる。
 扱い方次第で、人の心を刺し、抉り、深い深い傷を負わせる。

 自分の希望が通るかどうかはわからない。
 だが、婦人警官として与えられた特殊な職権が、一歩間違えば恐るべき凶器になりかねないと、身をもって体験した自分がいるべき場所は、やはり交番なのだと思った。

 開いたままの窓から下校する子どもたちの声が聞こえてきた。賑やかで楽しそうなその声を背にして、交番長が万紀子を見ていた。彼は、険しく難しい表情で唇を歪めていた。そのギュッと閉ざされていた口元がやっと緩み、そして開いた。

「わかった」と、彼は頷いた「―じゃぁ、これから、上を説得する作戦を考えなきゃな…」

 会議室の万紀子がはじめて笑った。


-終-

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2007/06/30 脱稿


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