婦人警官 凶器 |
第三回 |
[05] 男の手が万紀子の顎に当てられ、その指が頬を両側から掴んだ。それは万力が締めつけるように、万紀子の柔らかな両頬を圧迫した。 「抜けなかったんだろ、ホチキスの針…。だったら、俺が抜いてやるよ。―だから、口、開けろよ」 そう言って男は万紀子の目を見た。万紀子も彼の目を見ていた。―視線を逸らす事が出来なかった。自分の上に圧し掛かる男の姿は、はじめて彼の姿を交番の入口で見た時よりも大きく、そして威圧的に映っていた。 男は歯を見せて笑った。その歯は黄色く濁っていた。彼の血色を欠いた顔の方がその歯よりも白く見えた。 「ホラ、こいつにはこんな便利なものが付いてる」 そう言いながら、男は、右手の中で器用にホチキスを半回転させた。万紀子の目の前に、今度は、ホチキスの支点側が差し出された。そこには三角形のくさび型をした小さな金具が付いている。 「知ってるだろ…針を抜く時はここを使うんだ」また笑った。「―道具って便利に出来てるよな。そう思わないかい」 彼は嬉しそうに話しつつも、その三角形の金具を万紀子の眼球に向けて近づけてきた。三角形の先端は丸みを帯びてはいるがその角度は鋭角だ。 「そういう機能的な美しさが好きなんだ、俺は…」そう言って笑った後、彼は悔しそうに下唇を噛んだ。そして、つづく彼の台詞には怒気が混じっていた。「―でも、そういうの、あんたらは全然解っちゃぁいないんだよなぁ!」 ―あんたら? 男の言葉に、湧き起こった万紀子の疑問は次の瞬間には中断する。 意図的にそうしたのか、それとも勢い余ってなのか、ホチキス支点側の三角の金属部品の先が万紀子の眼球に微かに触れた。 「あぅっ」と万紀子は小さな悲鳴を上げた。 「あっ」と男も同時に小さな声を上げた。 ギッと机の脚が床を鳴らした。反射的に手で眼を押さえようとした万紀子だったが、机から手錠は抜けなかった。両目を固く閉じていると痛みを感じた方の瞳に涙が滲んできて睫毛を濡らした。 涙が出たのが悔しくなった。 この状況で、涙だけはどうあっても流したくなかった。万紀子は、眼球に異物が接触したために傷を癒そうと涙腺から液体が分泌されただけなのだと、流れる涙に理由をつけて自分を納得させようとしていた。 「ゴメン、わざとじゃないんだ」と、男の呟きが聞こえた。 いや―呟いたのではなく思わず口走ってしまったのだ、と万紀子は感じる。 そして彼女は、その言葉に再び違和感を覚える。その違和感は、万紀子が拳銃を護ろうとした際、彼の態度が柔らかく変化した時に感じたものに似ていた。二度の違和感に、この男は実は気の弱い性格なのではないのか、と万紀子は想像する。そして、彼との接し方が何か見出せれば、この窮地を逃れられるのではないかという思いが脳裡を掠めた。しかし、今の万紀子には、彼にどう対応したものかという妙案までは思い浮かばなかった。 万紀子の視界が急に明るくなった。 上下の瞼が男の指によって開かれていた。痛みに涙が溢れてしまった方の瞼だ。暗かった世界が蛍光灯の色になったが、それも一瞬だった。上下に押し広げられた瞼から露出した眼球は柔らかなものに塞がれ、今度は世界が濃い灰色になった。眼球の表面をぬるりとした軟らかい感触が襲い、万紀子の視界は黒に限りなく近い深いグレイに覆われた。時折、その色彩を欠いた物体の隅に赤い色がチラチラと滲んで見えた。 男の舌だった。 男の舌が傷ついた万紀子の眼球を舐めていた。 舌表面にある彼の唾液は万紀子が滲ませた涙とともに潤滑油となり眼の表面に広がった。男の軟らかい舌の先は、万紀子の瞳を離れては、またすぐに密着する。痛みは引いていた。しかし、背筋に悪寒が湧き起こっていた。不気味で不潔で不快な行為を受け、痛みを忘れていただけだった。 「ゃだ!」 万紀子は、そう叫んで、男の舌から逃れるように顔を横に向けた。 時間が止まった。 男の動きがピタリと止まった。その指先は万紀子の眼を押し開いたままだ。 静寂が訪れた。万紀子も彼から顔を背けたまま、金縛りにあったように動けなくなった。全ての動きが止まった交番を、重苦しい静寂が覆いつくした。 微かに動くものといえば、緩やかに時を刻む時計の秒針くらいのものだったが、この硬直した時間がどれほどつづいているのかは教えてくれなかった。 まだ他に動くものはある。万紀子の瞼だ。それはピクピクと痙攣するように細かく震えていた。しかし、万紀子の瞼が小刻みに震えるのは、眼球を剥き出すように、その瞼に添えられた男の指先が震えていたせいなのかもしれない。 「…ざ」 絞り出すような男の声が重い重い静寂を破った。 「―ざけんな…手前ぇ…」 そして男は、ベッと音をさせて万紀子の頬に唾を吐き掛けた。彼が吐いた生温かい唾液は、万紀子の頬を、その粘着力で重力に逆らいながら静かに伝い降りていく。 「こっちがなぁ…こっちが悪いと思ったから謝ってんじゃねぇか!―それなのに何だよ!手前ぇら、やっぱ、みんな同じなのかよ!」 ―手前ぇら? 万紀子の頭に再び疑問が浮かぶ。―彼が怒りを向けているのは私だけではない…。では、私を含む「手前ぇら」という「集団」とは何か。それはやはり「警察官」の事か? だが、万紀子の思考を男の大声が中断する。 「―そういう態度なら、本気でやってやろうか!」 彼は、握りしめたホチキスの支点側の金具を万紀子の眼球寸前に持ってきた。 「俺を…俺を怒らせるな…大人しく言う事を聞けよ!」三角形をした金具の鋭角の頂点が、男の怒号に合わせて震えながら万紀子を脅す。「舌出せって言われたら出しゃあいいんだよ!」 だが、万紀子を最も怯えさせているのは、男の手にある凶器ではなく、実は彼の激情だ。嵐の波が凪となり、そして再び嵐となる。そんな、起伏が著しいこの男の感情が怖かった。凪の次に訪れる嵐の波は、前の嵐の時よりも激しい。 彼の気持ちを静め、そして再び怒りの感情を湧かせないために、今、自分は何をすべきなのか? その答が、万紀子にはわからなかった。 そして、わからないまま、万紀子は、今、静かに口を開き、舌を出す。 [06] 既に、舌に突き刺さったホチキスの針の感覚は消失していた。 僅かの時間に襲ってきた混乱の大きさが、いつの間にかその痛みを何処かに追いやってしまっていたのだ。だが、細く小さなホチキスの針は、万紀子の舌に未だに刺さったままでいる。 その舌の表面に冷たい何かが触れた。言うまでもなく、針を抜くためにホチキスに付いている三角形の金具だ。 金属特有の無機的な味がした。 万紀子の全身が強張り硬直した。 金具が舌の上でほんの僅かの距離を滑るように動いた。 「ぅあ…」 鋭い痛みを感じた瞬間、万紀子の喉の奥が小さな音をたてた。だが、その痛みは鋭かったが、軽いものだった。そして、それは一瞬で去ってしまった。 あっけなかった。実にあっけなかった。 痛みが身体を稲妻のように貫き断末魔の悲鳴をあげる、といった事もなく、呆けないほど簡単にホチキスの針は万紀子の舌から抜けてしまった。 まるで、注射を打たれた後の子どもの気分だった。 ―痛かったけれど、思ったより大した事はなかった。 舌にホチキスを打たれるという想像すらしていなかった暴力的な事態があまりにも簡単に収束したせいで、万紀子の心の中に張りつめていた糸が緩みそうになった。 実際のところ、万紀子の顔に宿っていた「緊張」は「茫然」とも言うべき表情に取って代わられていた。―が、しかし、危機が去ったわけでは決してない。 「わは。わははははははは…」 男が狂気の笑い声を上げた。 「はは…『俺を怒らせるな。大人しく言う事を聞け』か。ははははははは…」 交番内に響きわたるその笑いに、万紀子は改めて恐怖を自覚する。 「俺もあんたらと同じだな…ははは…『大人しく言う事を聞け』か…わははははははは」そして、彼はこう言った。「―俺の復讐って…こういう事だったのか…はは…はははははは」 それは、高笑いなのに楽しさや嬉しさの感情のない乾いた笑いになっていた。 「―復讐?」万紀子は、思わず笑い続けている男に向かって問い返した。「あなたは、私に何か恨みでもあるの?」 その問いかけは、なぜか男を詰問する口調にはならかなった。逆に、男の悲壮感すら思わせる笑いに同情するような訪ね方になってしまっていた。 目の前にいるのは憎むべき犯罪者だというのに…。 自分の口調が意図せずそうなってしまった事で、万紀子は複雑な思いに包まれた。しかし、万紀子の思いを理解する風もなく彼は高笑いを次第に抑えながら答えた。 「はは…、安心しろよ。あんたに恨みなんてないよ。―はは」 万紀子が思っていた通りの答だった。その答えを得て、万紀子は更に問う。 「じゃあ…警察官が、嫌い…なの?」 その質問に、男の笑いが止まった。笑うのをやめた彼の瞳が、じっと万紀子を見ていた。男の唇が何かを言いたそうに軽く開いたが、そこから言葉は出なかった。 「嫌い、なのね。警察官の事…」万紀子の瞳も彼を見ていた。「―だから、私に、こういう事を…するのね」 苦い唾液の塊が―ゴクリと万紀子の喉を鳴らした。 「警察官に復讐するために…男の警察官じゃなくて…女の私を選んだの?」と、思い切ってさらに問いかけてみた。 半開きの男の口が無言のまま静かに閉じていく。口を閉じながら、彼はゆっくりと下唇を噛んだ。まだ二人は互いの目を凝視したままでいる。 ―ふっ、と男が息を吐いて口を開いた。 「女は…弱いからな」 「…」 「―だから、婦警のあんたを選んだ」 そして、男は唇を歪めて引き攣った笑顔になった。自らを嘲うが如き微笑だった。 「俺も…弱いからな…。だから、あんたの仲間のお巡りに『大人しく言う事を聞け』って脅されて、大切なものを…無理矢理に奪われた…」 彼の目は万紀子の瞳を向いてはいたが、その焦点は、遥か遥か遠くに結ばれているように見えた。 「だから、俺の復讐は、その時にやられた事と同じようにやるって決めたんだ」 彼の片手が万紀子の上着の第一ボタンを外した。 「どういう事?」 男は万紀子に答えず、黙々と彼女の制服の上着のボタンを全て外した。そして、万紀子のネクタイの結び目に手をかけて、やっと男は答えた。 「どういう事って、こういう事だよ。―弱いやつを標的に選んで脅しをかける。そして、そいつの大切なものを奪う。―あんたらが毎日やっているのと同じ事だ」 彼の言葉は具体性のない抽象的なものだった。しかし、万紀子には、かつて彼の身の上に警察官によって齎された何かが、漠然とではあるが解るような気がした。その意味では、彼の言葉が具体的を欠いている事が救いであるとも思えた。 今、制服を脱がされつつある万紀子の心には、大きな疑問が湧いている。 それを男にぶつけてみたかった。だが、それは禁忌の質問でもあった。 ―万紀子は疑問に対する問いかけを飲み込んだ。 万紀子のネクタイをほどいた男は、万紀子のシャツのボタンの上二つを外し、三つ目に取り掛かっていた。彼は、そのボタンを外すのに手間取っているようだった。万紀子が胸元に視線を移すと、男の手が震えているのが見えた。 「―考え直して…今ならまだ罪も軽いから…思い直して、お願い!」必死で彼に訴えた。「あなたがこういう事をする理由があるのはわかったから…、だから、私の手錠を外して…そして、今ここで、自首してちょうだい」 男の手の動きが止まった。そして、手元のボタンから視線を移し、万紀子の方を上目遣いで窺った。彼が舌打ちする「チッ」という音が聞こえた。 次の瞬間、万紀子は息を飲む。 「!」 突然、男は両手に力を込めて、万紀子のシャツの前を握ったまま、勢いよく左右に開いた。ブツブツブツと残りのボタンが全て弾けた。胸を覆った白い下着が蛍光灯の元に晒された。男は右手でブラジャーの上から万紀子の乳房を鷲掴みにして、顔を寄せてきた。 「悪いが、自首なんてしない。―俺は、そう決めて、ここに来た」 「わ・私を…強姦すれば、そうすれば…私の大切なものを奪う事になると思っているの?」 下着を露わにされたせいか、先程よりも強い口調で万紀子は男に言った。それを聞いた彼は落ち着いた様子で口を開いた。 「―いや、思っていない。レイプなんてせずに拳銃を奪って逃げた方が、ずっと簡単で…そして、あんたらは深い傷を負う…と思っている」 万紀子の顔が蒼ざめた。男の言葉は、先刻、脳裡に浮かんだまま封印した禁忌の質問―なぜ、拳銃を奪わないのか、という問いへの答になっていたのだ。 男は、驚愕に大きく開いた万紀子の瞳を覗き込みながら、こう言った。 「だけど、俺は、そこまで落ちぶれちゃいない」 -つづく- |
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