人警 闇
  Scene01
 

  #01 慶子と茜

  「ふぁ…」

 茜が小さな欠伸をした。
 若宮三丁目交番に四人の婦人警官たちが勤務するようになって数ヶ月経った12月初旬の深夜3時。外の風は冷たい。

「日が出るまで仮眠とる?」

 慶子が、腕時計を見て、茜に声を掛ける。
 交番は、シフト表に従って、四人のうち二人が休憩時間を含む48時間の勤務を行う。この日は、慶子と茜が交番勤務の日だった。

「ですねー。ちょっと限界かも。お言葉に甘えちゃいます。えへへ…」

 照れ笑いで、先ほどの欠伸をごまかすように、茜が席から立ち上がる。
 こういう時に遠慮しない茜の性格を、実は、慶子は好ましく思っている。由香と瑞枝は、年長の自分が先に休憩を取るように気を使ってくれる。だが、テンションが上がっている時間を仮眠で無駄にしたくないし、それをやんわりとした口調で彼女らに説明するのも疲れるものだ。「私の事はいいから、疲れた者が先に休みなさい」と、一度くらいは命令口調で言った方がいいのだろうか?―でも、由香はともかく、瑞枝はその程度の事は理解しながらも気を回してくれているのだろうな。そういう所こそ、こちらが気を使ってしまうのだけれども…と、そんな思いを巡らせていると、茜が立ち上がったままこちらを見ている視線に気が付いた。

「ん?茜、どうしたの?」
「シッ。先輩、聞こえません?」

 茜は人差し指を口の前に立て、締め切った交番出入口の方を不安そうに見た。慶子は、茜に促されるように、スチール製サッシの扉に視線を移し耳を澄ませた。
 観音開きの出入口は上半分だけにガラスがあるタイプで、内部からは外が見えるが、外からは内部が見にくいように、ガラスに表裏の偏光率が違うマジックミラータイプのシートが貼ってある。

 ―カリ・カリカリ…

 硬い物を引掻くような小さな音が扉下部から響いていた。

「…猫、かしら?」
「あ!そうですね…猫かしら?」

 慶子の問いかけに、ホッとしたようにそう返した茜がまだ机から動こうとしないので、慶子が出入口へ歩きドアを開けた。ドアの隙間から何かが交番の中に素早く入ってきた。

「やっぱり猫だー!」

 茜は今度は嬉しそうな声を出し、駆け込んできた子猫を抱き上げた。

「わー、冷たい…寒かったでしょう。かわいそうに…」

 一瞬にして陽気になった茜を見て、慶子は微笑んで言った。

「茜、今、猫がドアを引掻く音、かなり怖がってたでしょう」
「え!わ…解かりました?―えへへ、オバケかと思っちゃいました」
「オバケ…?」

 茜の返事にさすがの慶子も素っ頓狂な声を上げた。

「だってー、先輩、聞いたことありません?夏休みに体育倉庫に閉じ込められた女子高生の話」

 それは、お決まりの怪談だった。真夏の密室の暑さと空腹、そして暗闇の恐怖に狂ったように助けを求めるが、二学期が始まるまで発見されなかった女生徒の話だ。死体となって発見された彼女の指の爪は全て剥れ、体育倉庫の壁という壁にはビッシリと爪で引掻いた無数の跡があったという話で終わる。
 慶子も、その話を中学時代に聞いた事があった。「本当にあった出来事」と前置きされて話された記憶がある。

「カリカリって音で、その話を思い出しちゃって…」

 茜は慶子にそう言って、抱き上げた猫の顔を覗き込んで、笑顔のまま「もぅ、お前はー」と叱る素振りを見せた。そしてさらに高く子猫を抱き上げて言った。

「お、メスかぁ。よし、ミーシャだ!お前はミーシャ!」
「ミーシャ?―歌手の?」
「ですです。私、かなり好きなんですよ」

 慶子は「ミーシャ」と聞いて同名の女性ボーカリストを思い浮かべる一方で、別の「ミーシャ」を頭に浮かべていた。「ミーシャ」ってオスの熊じゃなかったかしら…確かモスクワオリンピックのマスコットで…。茜にそう言いかけて止めた。―茜はモスクワオリンピックの頃、まだ産まれてさえいないはずだ。そして別の話題で返した。

「ミーシャねぇ…瑞枝が喜ぶわね」
「え?」
「ん?茜は瑞枝とカラオケ行った事ないんだっけ?」
「ハイ、まだ、ないです」
「彼女の十八番のミーシャ、一度は聴いとくべきよ。すごく上手だから…」

 そう言って、朝、自分が瑞枝と交替する事に思い当たった。
 瑞枝のカラオケに興味津々で「今度連れて行ってもらいますね、絶対」と話す茜に今度は厳しさを加えてピシャリと言った。

「さ、仮眠するならする!眠気で限界だったんでしょう。瑞枝に、交替の時に牛乳とキャットフードでも買ってくるように頼んでおくから。今日は夜食の残りでもあげとくわ」
「あっ!私がやります!睡魔、飛んじゃいました。寒そうだから一緒に寝てあげますねー」

 茜はそう言い残すと、猫のミーシャを抱いたまま、給湯室に入り、コンビニエンスストアで買ったおにぎりとペットボトルのお茶を持って、奥の仮眠用の和室に引っ込んだ。

「ちゃんと寝なさいよ!あなた、明日も交番勤務でしょ!」

 茜の背中に向かって、そう声を掛けた慶子の、眼鏡の奥の瞳は優しく、顔には柔らかな微笑が浮かんでいる。
 



  #02 茜と瑞枝

  「迷い猫なんでしょうかね」

 紙製の皿に入れたミルクをミーシャに与えながら、茜が瑞枝に質問する。

「多分ね」
「ねぇ、ミーシャ。お前の飼い主はどこ?」

 しゃがみ込んで子猫に尋ねる茜の瞳が輝き「あ!そうだ!」と声を出して立ち上がった。茜は制服のポケットから携帯電話を取り出し電源を入れ、カメラのレンズ部分をミーシャに向けた。

「いいですよね、携帯使用。交番の掲示板に迷い猫の貼り紙しましょうよ!」

 カシャ!
 勤務中の私用携帯電話への電源投入に対して、先輩の瑞枝が許可を出す前に、シャッターが切られた事を告げる電子音が鳴った。茜は、瑞枝が「固い事を言わない」のを知っていた。案の定、瑞枝は、カメラ付携帯電話で子猫を撮影する茜を見ながらこう言った。

「後で、画像、私のメアドに送っといて。パソコンの方よ。休みの日にでも、貼り紙、作っとくわ」
「え?瑞枝先輩、そういうの出来るんですか?」

 瑞枝は微笑んで答える。

「昔とった杵柄。私、前の職場、デパートの宣伝部だったのよ。簡単なPOP…いや、貼り紙みたいなの、結構作らされたんだから」
「へぇー、宣伝部…カッコいーなー。デパートっていうのは聞いていたんですけど、元デパガで売場にいたとばかり思ってました」
「人が思うほどカッコよくないわよ。女ばかりの職場だしね、大変よ」

 瑞枝は、そう言ってから、この交番も「女ばかりの職場」だと気付き、自分の失言にハッとした。申し訳なさそうに茜を見ると、彼女は携帯電話のモニターでミーシャを撮影した画像をチェックしながら「ですよねー。でも、警察は男が多い職場だけど、それはそれで大変ですよねー」と何事もなかったように頷いていた。
 瑞枝は「まったくね」と同意をしながら―やれやれ、と息をついた。

 ―深夜。
 瑞枝と茜は、二人がかりで未処理分の書類をまとめていた。ノートパソコンのキーボードを打つ乾いた音が静かな交番の中に響いている。

 カタカタカタ…カタ・カタカタ。

「瑞枝先輩…さっきの話ですけど…前の職場と今の職場…」

 ギク!失言に気付いたかしら?しかも今頃…
 カタカタ・カタ・カタカタカタカタ…

「うん、どした?」

 わざと軽い口調で探りを入れてみる。カタカタ。カタ。

「婦人警官の事をカッコいいと思ってる人もたくさんいますよね。きっと」
「あぁ…うん、かもねー」

 ホッ、そっちか…。カタカタカタカタ。

「やっぱ、うちの職場も、実際は人が思うほどカッコよくないですよねー」
「…だねー」

 カタ…カタカタカタ…。よしよし。カタカタカタ。

「あの…こういう事、瑞枝先輩にしか聞けないんですけど…」

 ん?なんだろう?カタ・カタ・カタカタカタ…

「うん」
「―男の人に…そのぅ、エッチの時、制服持って来てって頼まれた事、あります?」

 わ。まいったな。そういう話か。―カタ・カタカタカタ…。

「あるの?」

 カタカタカタ…。カタ・カタカタカタカタカタ。

「ハイ。結構、しつこく頼まれてるんですよ」

 由香さんや慶子先輩には、こういうの、ちょっと聞けないしなぁ。カタカタ・カタ。瑞枝先輩なら、何か答えてくれるだろうなぁ。

「んー。彼氏、同僚じゃないの?」
「あ、いえ。会社員…というか新聞記者…」
「え?」

 あ、瑞枝先輩には話してなかったっけ?カタカタカタ…カタ。―って、よく考えたら、慶子先輩や由香さんにも話してないわ…。

「この交番の事、本部で記者会見やったじゃないですか。その時に知り合って…紙面に地元の働く女性を特集するコーナーがあるんですって」
「んー。新聞記者ってまずくない?職場的に…」

 え?そうなの?カタカタ・カタ…カタ。

「―女性特集ならいいけどさ。―記事になるネタってそれだけじゃないし。捜査内容とかさ、スクープ的な事、こっちも知る時、出てくるじゃない…。その彼氏の事を疑うわけじゃないんだけどね」

 疑ってる…思いっきり疑ってるよ…先輩。カタカタカタ…カタ・カタ。

「ハァ…」
「ま、茜が気を付ければ、私はOKだとは思うけど」

 え?カタカタ…どっち?

「OKって記者と付き合う事が…ですか?」
「ん?他に何があるのよ」

 あれ…瑞枝先輩、大事なこと忘れてない?カタカタ…カタカタ・カタ。

「あのぅ、制服の事…」
「あ!」

 ほら、忘れてた。カタ・カタカタ…いや、瑞枝先輩の事だから、話を上手く逸らせたつもりなのかな?カタカタ。

「んー、実は、私も頼まれた事、ある」
「ハイ」

 やっぱり!カタカタカタカタカタ…。さすが瑞枝先輩。

「持って行ったわよ、私」
「え!―で?で?で?」

 きたきたきたきたー!カタ・カタカタカタ…カタ。

「制服着て、あとは普通にするとばかり思ってたらさ…」
「は・はい…」

 ゴクリ。カタ…。

「制服でレイプってのがいいんだってさ…。バスローブの紐で縛られた。―最悪」
「えーっ!」

 げーっ!カタカタ。

「ま、この件も、茜が気を付ければ、私はOKだとは思うけど」
「は・はぃ…」

 え、OKなわけ?カタ・カタカタカタ。
 カタ・カタカタカタ…カタ。
 カタカタ…カタ・カタカタカタ。

「引いた?」
「―え?あ、はぁ…ちょっと」

 てか、かなり、だけど。カタカタカタ。

「嘘よ」
「え?」

 やられたー。カタ・カタカタカタ…。やっぱ、瑞枝先輩、一枚上手だわ…カタカタカタ。
 カタ、カタカタカタ…カタ。
 カタカタ…カタカタカタ・カタ。カタ。
 ―ん?でも、待てよ…カタカタカタ。

「茜…」
「ハッ…ハイ!」
「縛るようなプレイにも興味持っちゃダメ!」

 ギク!す・鋭すぎ…カタ・カタカタカタ…カタ。

 カタ・カタ、カタカタ…カタ。カタカタカタカタ…カタ。
 



  #03 瑞枝と慶子

  「新聞記者ねぇー」

 茜の交際相手の件を瑞枝から聞かされた慶子は、眼鏡の向こうで瞳を曇らせた。

「大丈夫だとは思うんですが…一応、慶子さんには報告をと」
「本当に大丈夫だと思う?」
「ああ見えて、しっかりしてると思いますよ、彼女」
「あぁ、それはね、私もそう思ってる」
「相手が相手ですから、注意すべき点に関しては、やんわりとですが、伝えてあります」
「あ、本当?―ありがとう。今、それをどうやって茜に話そうか考えてたから…瑞枝から伝わってるなら助かるわ」
「いえ。自分としては、あとは茜の自己責任だと思うので…。―すみません、無責任な言い方になっちゃって」
「ん。それは気にしなくていい。責任云々は私の領分だから。しばらくは見守るわ…それに…」

 そう言って慶子が送った視線の先で、ミーシャが「ミャア」と小さく鳴いた。

「今、茜は、男より、こっちに夢中みたいだし」

 瑞枝も微笑んで頷きながら、その子猫を見た。

「猫はなかなか居付かないんじゃないですか?犬と違って」
「居付かれると大変よ…男と同じで」
「でも、居ないと寂しい…みたいな?」
「ハハ…そうね…。―ところで」

 慶子が真顔になって瑞枝を見た。

「あなたはどうなの?男性の方。立場上、一応聞いとく。いい機会だし」
「あぁ…改まって聞かれると照れますね…」

 瑞枝は慶子からミーシャに視線を移し、笑って答える。

「今はフリーですよ。―猫ですよ、猫。居付かれなくって…」
「アラ…」
「今度は、犬みたいに忠実な人と付き合ってる時に質問して下さいよ。胸を張ってお答えしますから」

 そう言って瑞枝は慶子を見て微笑んだ。そしてミーシャを抱き上げて話しかけるように言った。

「ホントに猫みたいなタイプにばかり引っかかるんですよね、私。犬タイプには避けられちゃってるのかしら?」
「あなたの方でそういうタイプを避けてるのかもよ。気が付いていないだけでさ」
「ふふっ。ですかねー」

 ミーシャを見たまま答えながら、瑞枝も笑っていた。

 事が起こったのは深夜1時を少し回った頃だった。
 夜食を買いに出た瑞枝が交番に戻り、ドアを開けた時にミーシャがその隙間から外へ出た。

「え?」

 足元を何かが掠めた感覚があっただけで、瑞枝には一瞬なにが起こったのか解からなかった。慶子はちょうど眼鏡を外しレンズを拭いており、瑞枝の小さな声に反応するのが精一杯で、出来事の一切を、まだ把握していない。

「あ、ミーシャが外に…」

 交番隅に段ボール箱でこしらえた「ミーシャの場所」から彼女が居なくなっているのを確認して、瑞枝が声に出して言った。それを聞いた慶子は椅子から立ち上がり、慌てたように眼鏡をかけて「ミーシャの場所」を見た。

「…本当に居付かないんですね、猫」

 そう言う瑞枝の傍らを抜け、慶子はドアを開けて交番前の歩道を見渡した。100メートル程先の交差点の角に小さな影が見えた。慶子は一旦交番に戻り、瑞枝に「ちょっと行って来る」と一言声を掛けた。そして、もう一言付け加えた。

「茜をガッカリさせられないわ」

 口調にほんの少しだけ棘があった。―しまった、と交番を出て行く慶子を無言で見送りながら瑞枝は心の中で思った。―冷たい女だと思われちゃったわ…と。そして、そんな自分に軽いため息をついた。

 開発途中の若宮市街地は混沌としている。目抜き通り沿いには完成した建物と建設中の工事現場が不揃いに並ぶ。都市型マンションの一階の多くはテナントであり、それらの中の幾つかは未だに店が入っていない。その目抜き通りさえ、所々が道路の拡幅工事中だ。

「さ、おいで…」

 慶子は、深夜の無人の歩道を早足で歩きながら声を掛けたが、ミーシャは交差点の角を右へ曲がり、さらに建物二軒分の距離を素早く駆けて、再び止まり慶子の方を見て「にゃぁ」と鳴いた。

「もう!」

 そのミーシャの態度に慶子の口から白い息とともに不満の声が漏れた。それが聞こえたかのように、子猫は右手の建物側に姿を消した。慶子は小走りでミーシャが駆け込んだ建物の前に到着し、猫の行方を目で追った。
 そこは建築途中のマンションで、まだ砂利が敷かれたままのアプローチの向こう側に、装飾前のコンクリート剥き出しの柱に支えられたエントランスゾーンが、ぽっかりと暗黒の口を開けていた。
 鉄パイプで組まれたバリケードにある「立入禁止」の小さな看板を見て、慶子はその工事現場へ入るのをためらったが、腰につけていた懐中電灯を手に取ると、ふたつのバリケードを結んだ黄色と黒の縞模様の細いロープを跨ぎ、建設途中のマンションに向かってその一歩を踏み入れた。

「まずいなぁ…不法侵入じゃない…早いトコ見つけて連れて帰らなきゃ」

 独り言を呟きながら、未完成のロビーに入り、懐中電灯の光を走らせミーシャを探す。円形の光が、エレベータ設置予定場所横の防火扉がまだない階段室を照らした時、小さな影が二階に走るのが見えた。

「勘弁してよ…」

 そう呟いて、階段室まで走り階上を見上げたが、ミーシャは踊り場には居なかった。急いで階段を駆け上がり二階に到着すると、さらに階上で小さく「ミャァ」と音がした。慶子は、そのまま三階へと走った。
 三階に着くと「ミーシャ」と小声で猫の名を呼んだが返事はなかった。エレベータホールを横切ってその先に出ると外気を感じた。左右を眺めると、外部に面した共用通路が左右に伸び、ドアが暗がりにずらりと並んでいる。
 耳を澄ませてみると、遠くから小さな音が聞こえた。夜の空気に消えてしまいそうな小さな小さな音だった。
 足元を懐中電灯で照らしながら、慶子は長く伸びた通路を音がする方へ進んだ。次第にその小さな音の輪郭が鮮明さを増していく。
 音は一枚のドアの内側から響いていた。

 カリ…カリカリ…

 まるでドアを爪で引っ掻くような音だった。


 
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