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「ふぁ…」
茜が小さな欠伸をした。
若宮三丁目交番に四人の婦人警官たちが勤務するようになって数ヶ月経った12月初旬の深夜3時。外の風は冷たい。
「日が出るまで仮眠とる?」
慶子が、腕時計を見て、茜に声を掛ける。
交番は、シフト表に従って、四人のうち二人が休憩時間を含む48時間の勤務を行う。この日は、慶子と茜が交番勤務の日だった。
「ですねー。ちょっと限界かも。お言葉に甘えちゃいます。えへへ…」
照れ笑いで、先ほどの欠伸をごまかすように、茜が席から立ち上がる。
こういう時に遠慮しない茜の性格を、実は、慶子は好ましく思っている。由香と瑞枝は、年長の自分が先に休憩を取るように気を使ってくれる。だが、テンションが上がっている時間を仮眠で無駄にしたくないし、それをやんわりとした口調で彼女らに説明するのも疲れるものだ。「私の事はいいから、疲れた者が先に休みなさい」と、一度くらいは命令口調で言った方がいいのだろうか?―でも、由香はともかく、瑞枝はその程度の事は理解しながらも気を回してくれているのだろうな。そういう所こそ、こちらが気を使ってしまうのだけれども…と、そんな思いを巡らせていると、茜が立ち上がったままこちらを見ている視線に気が付いた。
「ん?茜、どうしたの?」
「シッ。先輩、聞こえません?」
茜は人差し指を口の前に立て、締め切った交番出入口の方を不安そうに見た。慶子は、茜に促されるように、スチール製サッシの扉に視線を移し耳を澄ませた。
観音開きの出入口は上半分だけにガラスがあるタイプで、内部からは外が見えるが、外からは内部が見にくいように、ガラスに表裏の偏光率が違うマジックミラータイプのシートが貼ってある。
―カリ・カリカリ…
硬い物を引掻くような小さな音が扉下部から響いていた。
「…猫、かしら?」
「あ!そうですね…猫かしら?」
慶子の問いかけに、ホッとしたようにそう返した茜がまだ机から動こうとしないので、慶子が出入口へ歩きドアを開けた。ドアの隙間から何かが交番の中に素早く入ってきた。
「やっぱり猫だー!」
茜は今度は嬉しそうな声を出し、駆け込んできた子猫を抱き上げた。
「わー、冷たい…寒かったでしょう。かわいそうに…」
一瞬にして陽気になった茜を見て、慶子は微笑んで言った。
「茜、今、猫がドアを引掻く音、かなり怖がってたでしょう」
「え!わ…解かりました?―えへへ、オバケかと思っちゃいました」
「オバケ…?」
茜の返事にさすがの慶子も素っ頓狂な声を上げた。
「だってー、先輩、聞いたことありません?夏休みに体育倉庫に閉じ込められた女子高生の話」
それは、お決まりの怪談だった。真夏の密室の暑さと空腹、そして暗闇の恐怖に狂ったように助けを求めるが、二学期が始まるまで発見されなかった女生徒の話だ。死体となって発見された彼女の指の爪は全て剥れ、体育倉庫の壁という壁にはビッシリと爪で引掻いた無数の跡があったという話で終わる。
慶子も、その話を中学時代に聞いた事があった。「本当にあった出来事」と前置きされて話された記憶がある。
「カリカリって音で、その話を思い出しちゃって…」
茜は慶子にそう言って、抱き上げた猫の顔を覗き込んで、笑顔のまま「もぅ、お前はー」と叱る素振りを見せた。そしてさらに高く子猫を抱き上げて言った。
「お、メスかぁ。よし、ミーシャだ!お前はミーシャ!」
「ミーシャ?―歌手の?」
「ですです。私、かなり好きなんですよ」
慶子は「ミーシャ」と聞いて同名の女性ボーカリストを思い浮かべる一方で、別の「ミーシャ」を頭に浮かべていた。「ミーシャ」ってオスの熊じゃなかったかしら…確かモスクワオリンピックのマスコットで…。茜にそう言いかけて止めた。―茜はモスクワオリンピックの頃、まだ産まれてさえいないはずだ。そして別の話題で返した。
「ミーシャねぇ…瑞枝が喜ぶわね」
「え?」
「ん?茜は瑞枝とカラオケ行った事ないんだっけ?」
「ハイ、まだ、ないです」
「彼女の十八番のミーシャ、一度は聴いとくべきよ。すごく上手だから…」
そう言って、朝、自分が瑞枝と交替する事に思い当たった。
瑞枝のカラオケに興味津々で「今度連れて行ってもらいますね、絶対」と話す茜に今度は厳しさを加えてピシャリと言った。
「さ、仮眠するならする!眠気で限界だったんでしょう。瑞枝に、交替の時に牛乳とキャットフードでも買ってくるように頼んでおくから。今日は夜食の残りでもあげとくわ」
「あっ!私がやります!睡魔、飛んじゃいました。寒そうだから一緒に寝てあげますねー」
茜はそう言い残すと、猫のミーシャを抱いたまま、給湯室に入り、コンビニエンスストアで買ったおにぎりとペットボトルのお茶を持って、奥の仮眠用の和室に引っ込んだ。
「ちゃんと寝なさいよ!あなた、明日も交番勤務でしょ!」
茜の背中に向かって、そう声を掛けた慶子の、眼鏡の奥の瞳は優しく、顔には柔らかな微笑が浮かんでいる。 |
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