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「まさか…」
慶子の口からその小さな呟きが出たのは、ミーシャがどうやって室内に入ったかの疑問のためではなく、一昨日、茜から聞かされた怪談のイメージを思い起こしたからだ。
背中に軽い悪寒が走った。―きっと、このドアだけが開いてたんだわ、と考え直し、怯えてしまった自分を「ふふっ」と声に出して笑うことで背中の悪寒を振り払った。
ドアノブに手を掛け静かに回してみると、思った通り、鍵は掛かっておらずドアは手前に開いた。
今度はミーシャを逃がすまいと、ゆっくりとドアを開けると、暗い通路のコンクリートの上に、扉の隙間から意外にもうっすらと灯りが漏れてきた。
「ん?」
おかしいな、と思いながら徐々にドアを開いたが、足元にミーシャは居なかった。
その部屋の玄関は狭く、右手に細く廊下が伸びており、手洗いや洗面所、バスルームの入り口が見えた。その廊下の先にある、まだよく見えない部屋を慶子は既に知っているような気がした。玄関と廊下の様子は、殺風景ではあったが、以前どこかで見た事があり、その記憶に懐かしさすら漂ってきた。
慶子は、その懐かしさに惹かれるように廊下の奥へと向かう。
「やっぱり…」
慶子の懐かしさの予感は当たっていた。
数年前、よく使っていたラブホテルの一室だった。
ベッドの上に、ガウンを羽織った男が一人腰掛けて退屈そうにテレビを見ている。彼は、いつも缶ビールを飲みながら、そうやって慶子の長い入浴が終わるのを待っていた。
「車、大丈夫なの?警察官なんだから…」
慶子は、昔のように彼に声を掛けた。
「あぁ…大丈夫。毎回、やってるうちに醒めてるじゃんか」
それは、お決まりの彼と彼女のやり取りだった。「しょうがないわねぇ」と言いながら慶子は彼の横に腰掛け、男の唇に静かに自分の唇を重ねた。軽いキスを繰り返しながら男は言った。
「眼鏡にしたんだな…」
「あ…うん」
「似合うよ」
あぁ、そういえば、私がコンタクトをやめたの知らないんだわ。―なにしろ、眼鏡にしたのは、彼と別れた後だったものね…。
慶子は、自分が眼鏡が似合う女だとは思っていなかったが、彼が「似合う」と言ってくれたのはお世辞にしろ嬉しかった。
繰り返されるキスのインターバルが次第に長さを増した。それに合わせて男が慶子の髪を優しく撫でると、被っていた制帽が床に落ちた。
制帽が落下し床に触れた微かな音が、懐かしい光景の中で不協和音の如く慶子の中に響いた。
「?」
一瞬のうちに、慶子の頭に湧き上がった今起きている出来事への疑問に構わぬように、男は彼女の頭部を強く抱き寄せ、キスをつづけていた。
「ちょっと、何?」
慶子は首を強く振り、唇を塞いだ男の口から逃れて、言った。その問いかけに男は質問で返した。
「なんだ、今日も事件だったんじゃないのか?」
「え?」
それは、慶子の記憶にはない彼の言葉だった。
「事件の後は、昼だろうが夜だろうが、こうやって俺と会ってたじゃないか」
予想しなかった彼の台詞に慶子の心が揺れた。
「どうして、それを…」
「知らないわけないさ。署は違っても同じ会社にいるんだ。簡単にわかるさ」
「…」
動揺して返答に困る彼女の頭を、両手でしっかりと掴み、彼は慶子の目を覗き込んで笑った。男の唇が大きく歪んだ。
「―現場で死体を見た後は、いつも俺と会っていた」
「!」
図星だった。
死体を扱う事件は慶子の気分を重くした。だから、まるで救いを求めるように彼に会った。繰り返し繰り返し、死体に出会うと彼に会った。恋愛の先に行き着いたのは、そんな習慣だった。
男に抱かれる度に心浮かぶ「私にとって彼は何なんだろう」という思いの積み重ねが、最後の最後まで―そして今も彼に説明できないでいる、二人が別れた理由だった。
「お前にとって俺は何なんだ」
慶子の心を覗いたかのように男が言った。だが怒った顔ではなかった。彼は、まだ唇を歪めて笑っていた。
その唇を更に大きく歪め、男は慶子の肩を掴み、ベッドに彼女を押し倒した。
「あ!」
ベッドに仰向けにされ、思わず慶子は声を上げた。しかし、男の表情の変化が、その先に続く慶子の声を止めた。
男の唇が大きく歪んだのは、彼が笑ったせいではなかった。
それは、溶けるように崩れはじめていた。彼の顔面の皮膚全体が、その重さのせいで、下方にずれはじめている。
眼鏡の奥の慶子の瞳は、ゆっくりと変化していく男の顔に釘付けとなり、大きく見開かれていた。目を逸らす事も閉じることも出来ず、異形の何かへと変わってゆく男の顔を、ただただ見つめるだけだった。
慶子の鼻腔に異臭が漂ってきた。
それは季節外れの夏の匂いだ。その匂いを慶子は知っている。―死後、かなりの時間が経過して発見された夏の死体の匂いだった。
男の顔は、人間の顔ではなくなりつつあった。―いや、それは正確には、まだ人間の顔だ。―それは「生きた人間の顔」ではなくなりつつあるだけだった。 |
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