人警 闇
  Scene01
 

  #04 慶子 01

  「まさか…」

 慶子の口からその小さな呟きが出たのは、ミーシャがどうやって室内に入ったかの疑問のためではなく、一昨日、茜から聞かされた怪談のイメージを思い起こしたからだ。
 背中に軽い悪寒が走った。―きっと、このドアだけが開いてたんだわ、と考え直し、怯えてしまった自分を「ふふっ」と声に出して笑うことで背中の悪寒を振り払った。
 ドアノブに手を掛け静かに回してみると、思った通り、鍵は掛かっておらずドアは手前に開いた。
 今度はミーシャを逃がすまいと、ゆっくりとドアを開けると、暗い通路のコンクリートの上に、扉の隙間から意外にもうっすらと灯りが漏れてきた。

「ん?」

 おかしいな、と思いながら徐々にドアを開いたが、足元にミーシャは居なかった。
 その部屋の玄関は狭く、右手に細く廊下が伸びており、手洗いや洗面所、バスルームの入り口が見えた。その廊下の先にある、まだよく見えない部屋を慶子は既に知っているような気がした。玄関と廊下の様子は、殺風景ではあったが、以前どこかで見た事があり、その記憶に懐かしさすら漂ってきた。
 慶子は、その懐かしさに惹かれるように廊下の奥へと向かう。

「やっぱり…」

 慶子の懐かしさの予感は当たっていた。
 数年前、よく使っていたラブホテルの一室だった。
 ベッドの上に、ガウンを羽織った男が一人腰掛けて退屈そうにテレビを見ている。彼は、いつも缶ビールを飲みながら、そうやって慶子の長い入浴が終わるのを待っていた。

「車、大丈夫なの?警察官なんだから…」

 慶子は、昔のように彼に声を掛けた。

「あぁ…大丈夫。毎回、やってるうちに醒めてるじゃんか」

 それは、お決まりの彼と彼女のやり取りだった。「しょうがないわねぇ」と言いながら慶子は彼の横に腰掛け、男の唇に静かに自分の唇を重ねた。軽いキスを繰り返しながら男は言った。

「眼鏡にしたんだな…」
「あ…うん」
「似合うよ」

 あぁ、そういえば、私がコンタクトをやめたの知らないんだわ。―なにしろ、眼鏡にしたのは、彼と別れた後だったものね…。
 慶子は、自分が眼鏡が似合う女だとは思っていなかったが、彼が「似合う」と言ってくれたのはお世辞にしろ嬉しかった。

 繰り返されるキスのインターバルが次第に長さを増した。それに合わせて男が慶子の髪を優しく撫でると、被っていた制帽が床に落ちた。
 制帽が落下し床に触れた微かな音が、懐かしい光景の中で不協和音の如く慶子の中に響いた。

「?」

 一瞬のうちに、慶子の頭に湧き上がった今起きている出来事への疑問に構わぬように、男は彼女の頭部を強く抱き寄せ、キスをつづけていた。

「ちょっと、何?」

 慶子は首を強く振り、唇を塞いだ男の口から逃れて、言った。その問いかけに男は質問で返した。

「なんだ、今日も事件だったんじゃないのか?」
「え?」

 それは、慶子の記憶にはない彼の言葉だった。

「事件の後は、昼だろうが夜だろうが、こうやって俺と会ってたじゃないか」

 予想しなかった彼の台詞に慶子の心が揺れた。

「どうして、それを…」
「知らないわけないさ。署は違っても同じ会社にいるんだ。簡単にわかるさ」
「…」

 動揺して返答に困る彼女の頭を、両手でしっかりと掴み、彼は慶子の目を覗き込んで笑った。男の唇が大きく歪んだ。

「―現場で死体を見た後は、いつも俺と会っていた」
「!」

 図星だった。
 死体を扱う事件は慶子の気分を重くした。だから、まるで救いを求めるように彼に会った。繰り返し繰り返し、死体に出会うと彼に会った。恋愛の先に行き着いたのは、そんな習慣だった。
 男に抱かれる度に心浮かぶ「私にとって彼は何なんだろう」という思いの積み重ねが、最後の最後まで―そして今も彼に説明できないでいる、二人が別れた理由だった。

「お前にとって俺は何なんだ」

 慶子の心を覗いたかのように男が言った。だが怒った顔ではなかった。彼は、まだ唇を歪めて笑っていた。
 その唇を更に大きく歪め、男は慶子の肩を掴み、ベッドに彼女を押し倒した。

「あ!」

 ベッドに仰向けにされ、思わず慶子は声を上げた。しかし、男の表情の変化が、その先に続く慶子の声を止めた。
 男の唇が大きく歪んだのは、彼が笑ったせいではなかった。
 それは、溶けるように崩れはじめていた。彼の顔面の皮膚全体が、その重さのせいで、下方にずれはじめている。
 眼鏡の奥の慶子の瞳は、ゆっくりと変化していく男の顔に釘付けとなり、大きく見開かれていた。目を逸らす事も閉じることも出来ず、異形の何かへと変わってゆく男の顔を、ただただ見つめるだけだった。

 慶子の鼻腔に異臭が漂ってきた。
 それは季節外れの夏の匂いだ。その匂いを慶子は知っている。―死後、かなりの時間が経過して発見された夏の死体の匂いだった。
 男の顔は、人間の顔ではなくなりつつあった。―いや、それは正確には、まだ人間の顔だ。―それは「生きた人間の顔」ではなくなりつつあるだけだった。
 



  #05 慶子 02

  「ひっ!」

 軽い悲鳴を上げ、慶子は男の胸を押し、彼を突き飛ばした。男の胸は昔のように厚くはなく、そして固くもなかった。掌に感じたのは、ぐにゃりとした柔らかな感触だった。―それは死体の感触だ。皮膚が骨格との密着を止め、まるでゼリーのように不安定な状態にある、あの忌まわしい腐乱死体の脆い感触だった。
 その手触りが慶子の顔を蒼白にした。

 慶子に突き飛ばされた、今まで男であった「それ」は、仰け反るようにしてベッドから床へと落ちた。慶子はこの場から逃れようと上半身を起こしたが、余りの驚愕に腰を上げる事が出来ない。そのままベッドの上を後退したが、背中は、無情にも壁に突き当たった。
 手がベッドに備え付けられた室内照明の調光スイッチに触れていた。慌てて全ての照明をオフにした。

 闇が訪れた。

 ―だが部屋は真の闇ではない。
 テレビ画面と冷蔵庫横に設置してある小型の自動販売機が光源になっていた。テレビは青白いだけの画面をチラチラと瞬かせながら発光している。
 薄暗くなった部屋には、エアコンの低く静かな唸りと慶子の荒い息だけしか聞こえない。

 見てはいけない…と思いながらも、慶子の視線は、ベッドから男が落ちた方へと向いてしまう。淡い色のシーツが暗い室内に浮き上がって見える。そのシーツ表面に徐々に皺ができ、陰影を作りはじめた。何者かがその布の一点を掴み強く引張っるように、皺はアルファベットの「V」の形を描いている。だが、慶子の位置からは、シーツの皺がかたどる「V」字の頂点はベッドの向こう側に垂れ落ちて見えない。

 凝固したまま動けない慶子の眼に動くものが映った。ベッドの向こう側から、芋虫のような男の指先が顔を出していた。指先は掌となりシーツの上を這うように進む。動くはずのない腐乱死体の片腕が、ベッドの上を、慶子の方に伸びてきた。それが肘まで見えたところで、その手は動きを止め、ベッドの上のシーツをがっしりと掴んだ。

「ヒィッ…ヒィッ…ヒィッ…」

 息を吸う度に慶子の喉の奥が鳴る。声を出して叫びたいが声が出ない。

 手元に枕があった。慶子は枕を持つと、叩くように何度も男の腐敗した腕の上に振り下ろした。柔らかな枕で腕を叩き続けながら、硬い物を探さなければと思い、その時になってはじめて腰に警棒があることに気がついた。
 枕をベッドの向こうに投げ、腰の左側に装備した警棒を取ろうとしたが、焦りのせいか留め具のボタンが固く、なかなか外れない。
 パチリと音がして、やっと留め具が外れた時、男のもう一本の腕が、ベッドの向こう側から、垂直に聳えて現れた。慶子はその腕を警棒で打とうとしたが、距離がありすぎた。伸縮式の警棒を長く伸ばす余裕すらなかった。
 宙に真っ直ぐに伸びた腕もベッドの上へ倒れるように着地し、もう片方の腕と同じくシーツを掴む。そして、ベッドの向こう側から男の上半身が徐々に姿を現した。まるで、ベッド上の二本の腕の力だけで這い上がろうとしているようだった。男の掌は、ベッドのマットを強く押し、その部分が深く窪みはじめる。「く」の字形だった腕はジャッキのように伸びながら、静かにゆっくりと男の身体を持ち上げていた。
 警棒を手にしたものの為す術のない慶子の目に、その「人の形をした物」は、テレビが放つ灯りを背に、黒い影となって映った。彼女は、右手に持った警棒を「その物」に向かって投げつけようとした…が、できなかった。

 青白い逆光に浮かび上がったシルエットには、昔の彼の面影があった。

 両腕を支えにしてベッドの向こう側から上半身を現した「彼」の顔は、慶子の方を向き、微かにゆっくりと下から上に動いた。まるで、慶子の全身を、爪先から頭部へと、ジックリと観察するかのように…。そして、その首の動きが最後に静止した時、慶子は、暗がりに浮かんだ黒い影と目が合ったような気がした。

 ドサリ!

 ベッドの上に音を立て、その上半身が慶子の方に倒れこんだ。部屋の空気が揺れ、腐臭が強くなった。
 その動く死体は、腕の力だけでは身体の重さを支えきれなかったように見えた。だが逆に、腕の力で全身を前に乗り出すようにして慶子に近付いたのかもしれなかった。―現に、うつ伏せの男の頭部は慶子の足の爪先から僅かの距離にあった。
 その頭部に手元の警棒を打ち付けるべきかどうか、慶子は判断しかねている。迷う慶子の足首に、ピチャッという音と共に冷たい何かが当たった。そこを見るまでもなく、自分の足首に何が起こったのかは、瞬間的に解かった。
 ―真夏の腐乱死体と化した男の手が、ベッドの隅に身を寄せる慶子の足首を握っていた。
 叫ぶ間もなく、突然の落下感が慶子を襲う。彼女の足首は強い力で引張られていた。体勢を崩し「あ!」と小さな声を出した慶子を引き寄せると同時に、死体の彼は半身を起こした。ベッドに引き倒され、仰向けになった慶子の顔の先には、天井を背景にした男の上半身があった。

 引きずり倒された事が、やっときっかけになった。―慶子は短いままの警棒をその死体の頭部めがけて無我夢中で振り上げた。

 パシン!と軽い音がした。

 男の顔の前には彼の掌があった。警棒はその掌に当たっていた。慶子が感じた手ごたえは、相手を打ち付けたものではなく、もっと恐ろしい手ごたえだった。それは、警棒の先を、男の手に掴まれてしまった手ごたえだ。警棒を引き戻そうとしても返ってこない。それどころか、男は警棒の先を持ったまま、それをゆっくりと引き寄せた。警棒の持ち手を握ったままの慶子の腕がピンと伸びる。さらに男の手が警棒を捻りはじめる。慶子の手首が、その動きに沿って捻られていく。
 警棒を握る親指が―そして人差し指が―中指が…順番にほどけていった。
 その異形の男は、慶子から奪った警棒を後方へ放り投げた。ボトと、カーペットに警棒が落ちる鈍い音が聞こえた。
 そして、彼女に覆い被さるその生きた死体の肩が上下に何度か繰り返し揺れた。同時に「グッグッグ」と地の底から響くような重く低い音が聞こえた。
 まるで笑っているかのようだった。

「あぁ…」

 ため息のような声が慶子の口から洩れた。それは警棒を奪われ落胆した声ではない。慶子の腿の内側に生温かい液体が拡がりはじめていた。

 慶子は失禁していた。
 



  #06 慶子 03

  「これは…お前が望んでいた事だ…」

 その異形の者は、慶子から奪った警棒を床に落とし、彼女の顔に腐敗した頭部をゆっくりと近づけながら喋りはじめた。唸るようなその声は、耳からではなく、頭の芯へと、直接、聞こえるように響いた。
 鼻を突く腐臭が強烈に匂い、柔らかい物が慶子の唇に触れた。

「ぅ!」

 男と慶子の唇が触れ合っていた。
 口の中に直接流れ込んでくる強い悪臭の向こうから、懐かしい匂いが漂ってきた。ビールと煙草が混じった匂いだ。かつての彼のキスの匂いだった。
 唇の感触も死体のものというよりは、彼のくちづけの感触に近かった。記憶にある動き、記憶にある力で、死体の唇は慶子の唇と舌を吸う。

 驚愕に固まり、されるがままの慶子の頭の中が真っ白になる度に、その空白を埋めるかのように、記憶の中の「思い出」が僅かずつ滲み出る。

 死体の舌は慶子の唇を愛撫し、彼女の口の中へと侵入し、舌に絡んだ。
 そして、―昔のままなら…次は…と、慶子が思ったその通りになった。
 キスを繰り返す「彼」は、右手で慶子の制服の内側に右手を入れ、シャツの上から乳房を掴み、ゆっくりと揉みはじめた。かつてはホテルの部屋で裸の胸をそうされたが、今は、着衣のままだ。そして、今は、その相手が禍々しい死体だ。
 でも、違っているのはそれくらいのものだ。そんな思いが、慶子の脳裡を掠めた。

 ―慶子は彼の前戯が好きだった。

 彼が乳房を掴んだ掌に力を加えると、ちょうど中指と人差し指で挟まれた乳首が、指の節に挟まれ刺激される。

「うぅん…」

 今、シャツと下着を通してとはいえ、以前と変わらぬ位置で男の掌は動いていた。慶子の口から小さな吐息が洩れはじめると、舌を使ったフレンチキスが、短く軽いくちづけの繰り返しに変わる。その全ての動きが、慶子の記憶の中にある昔の彼のベッドでのプロセスを、そのままなぞっているかのようだった。

 男は右手で乳房を揉みながら、左手でスカートの裾を捲り上げるようにして太腿を撫で、失禁の尿に濡れたストッキングとショーツ越しに、慶子の性器をまさぐった。排尿によって湿った部分を触られる気恥ずかしさが、ふと浮かぶ。―だが、耳たぶへの、昔どおりの心地よいキスが、そんな思いもどこか遠くに消してしまった。
 男は、慶子の下半身を指で刺激しながら、胸にあった右手を上着のボタンに移し、それを外す。さらに、シャツの襟元のボタンを残し、第二ボタン、第三ボタンと裾のボタンまで順に外した。

 かつて彼女を抱いた時と全く変わらぬ動きに懐かしさが漂う。先ほどまでの、彼女の怯えは片隅に追いやられ、不思議にも安心感が心を満たし拡がっていた。

 慶子の恐怖に怯える激しい息遣いは、今、穏やかに回復していたものの、その呼吸には、男の前戯に反応する乱れが新たに加わっていた。
 男の手が促すように慶子の内股を押すと、以前その度にそうしてきた様に、慶子は両足の力を抜き、股を開いた。スカートが腰まで捲くれ上がり、下着が露わになる。胸元のシャツもはだけ、白い下着が慶子の形の整った胸を隠しているだけだった。

 慶子には、その「物体」が次にどのような行動に出るか、もう全て解かっていた。そして、男の前戯は、その通りに進行した。
 愛した者と結ばれつつある幸福感があった。

 遂に、彼の右手は、スカートのウエストを内側からくぐり、ストッキングとショーツの上部をまとめて掴み、ゆっくりと脱がそうとしている。左手ではブラジャーのカップの内側に指を入れ乳首を摘んでいた。キスは既に止み、男の歯はもう一方の乳首を軽く噛んでいる。
 慶子の乳首は固く勃起し、ヴァギナは既にしっとりと湿っている。今、彼女は、死体と交わっている感覚よりも、昔の彼とそうしていた感覚に身を任せていた。
 強烈な腐臭すらも、彼の体臭に思えた。

「お前は…いつの間にか…」

 舌で乳房に刺激を与えていた男が再び喋った。

「男と寝たくなった時…」

 男の指が、中の状態を確かめるように慶子の性器の内側に侵入し、軽く前後に動き、そして回転した。

「死体が出る事件が起きることを…」

 指が静かに抜かれ、別の物が慶子の性器の入り口に当たった。

「心の底で望むようになった」

 死体の男根が慶子の内側に深く挿入された。

「…ぃやっ、ち・違う!」

 今度、声を出したのは慶子だった。
 男が慶子に言った指摘は当たっていた。当たっていたからこそ、声に出して強く否定したかった。
 だが、男は慶子の下半身を激しく突きながら、彼女の心を抉るように話し続ける。

「男に抱かれたい時には、死体を思い…」
「ちがうちがうちがう」
「死体を見れば、男を思った」
「そんな事を…言わないで!」

 慶子は必死に首を横に振った。しかし、男の言葉に容赦はない。

「そんなお前は、こうして死体に抱かれるのが、一番お似合いだ…」

 嬲られながらも、肉体を貫く刺激の繰り返しからは逃れる術がなかった。慶子は、そんな自分を恨めしいと感じる。そして、頂上へと導かれながら思う。

 ―彼の言う事は間違いじゃない。今、言葉にされるまで、そんな事は一度も意識した事はなかった。だが、彼の言う通りだ。

「もう、そんな風にいじめないで…」

 慶子は、無意識のうちに心の奥底に隠蔽してきた知ってはならない自分自身と直面していた。

 それは心の中にある闇だった。

 裂けた傷口から膿が流れ出すように、漆黒が自分の中に拡がるのを感じながら、慶子は、今、死体の男根を心地よく思い、頂点に向かう自分に納得していた。
 慶子の襞と襞の間を、先端から根元までのストロークで擦り続ける男性器は、熱を帯びていた。だが、男のペニスの温度を上昇させていたのは、性交の快楽とは違う別の何かだ。

 慶子の鼻に腐臭とは異なる新しい匂いが漂ってきた。物が焦げる匂いだった。それまでベットリと湿っていた男の感触が次第に乾燥しはじめ、プスプスという小さな音が男の肉体から洩れてきた。
 慶子の眼に映った光景はフィルムのコマ落し映像のようだった。

 彼女は、次第に熱を帯びていく性器結合部の快感に包まれながら、それを見た。

 男の表面の数箇所から白い煙が立ちのぼりはじめ、そこに小さな黒い点ができ、それは瞬く間に焼け焦げた黒い炭となって、彼の全身に拡がっていった。
 ―腐乱死体が焼死体に姿を変えていく。
 表皮が燃え尽きるようにハイスピードで無くなると、その下を走る無数の血管がラインを描き、焼け爛れた黒い肉体に、美しいほど鮮やかに浮き上がった。

 挿入されたペニスの発熱が、慶子の肉体を内側から火照らせた。それは、文字通り「身体の芯が燃える」ような感覚だった。

 ―だが、慶子が絶頂に至る寸前に、全ては終わった。

 完全に炭化した男の肉体はポロポロと崩れ落ち、細かい黒い煤が宙に舞った。所々にのぞいていた白骨化した部分さえも灰のように散った。
 それに加えて、室内の風景までもが細かい粒となって消滅していくように見えはじめ、慶子はその光景に軽い眩暈を感じた。
 眩暈に倒れそうになり身体を支えるように両足を踏ん張った時、遠く背後から声が聞こえた。

「よかったですね、遠くまで逃げなくて」

 瑞枝の声だった。
 



  #07 慶子 04

  「え?」

 慶子は足がもつれて、その場に尻餅をついた。
 気がつけば、歩道の上にいた。100メートルほど先の交番から瑞枝が駆け寄ってきていた。

「ふふふふ。ダメよ、ミーシャ!そんなにじゃれついたら…。慶子さん、あなたの尻尾を踏まないようにしてて転んじゃったじゃない」

 瑞枝は笑ってそう言いながら、歩道に座り込んだ慶子に手を差し出した。見ると足首にミーシャがじゃれていた。
 瑞枝に手を引かれ立ち上がった慶子ではあったが、今、何が起こっているのか理解できなかった。交差点の右側に視線を走らせ、―ミーシャはあそこまで逃げたはずだ、と建築中のマンションのことを思った。

「ぁ!」

 小さな声が出た。自分の交番近くの地理を間違うはずはない。あの場所には、建築中のマンションなどは存在しない。その事を確かめるために、その場所まで行く必要すらなかった。

「―わ・私、そんなに長い時間、じゃれてたかしら?」

 混乱をごまかすように、慶子は、先ほど自分があげた小さな声に不思議そうな顔をしている瑞枝に訊ねてみた。

「何、言っているんですか。慶子さんが追いついて、ほんの2・3秒じゃないですか?追いかけてたらミーシャが足元にいきなり寄って来たから、慶子さん、よける様に転んじゃって…」

 答えながら、瑞枝は尻餅をつくという「慶子らしからぬ」出来事を思い出したのか、クスクスと小さく笑った。

「ぅ、うん、あぁ…そうね」

 曖昧な笑いで返す慶子に、ミーシャを抱き上げた瑞枝が首を傾げて尋ねた。

「どうかしたんですか?」

 慶子は、スカートの尻についた埃を払った。そうしながら、ふと思い立ち、スカートに失禁の湿った感触が一切ない事を確かめ、ホッとしながら瑞枝の問いに答えた。

「ん?―いやね、バランスがとれずに尻餅をつく瞬間までがね、すごくすごく長い時間に思えたのよ…」
「あー、スローモーションになりました?なんだか解かりますよ、それ」

 慶子のその答に瑞枝が納得したように笑う。―慶子も笑って「うんうん、不思議ね」と頷いた。

「―本当に不思議に思える事って起きるものなのね」


  Scene01<おわり>
 


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OPENING introduction


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