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「由香は瑞枝と同期でしょ。彼女の事、少し訊いていい?」
夜も更けてきた頃、慶子にそう質問され、「はい」と頷いて返事をした由香だったが、内心では少し困惑していた。慶子の机の上にはB6サイズの小さなノートが広げられていた。そのノートは慶子が肌身離さず持ち歩いてる物で、事件内容の詳細を書き込んでいるのも見た事があった。
そのノートが必要な事を訊かれるのだろうか。
「あなたたち、拝命して三年じゃない。その間に瑞枝がどんな男性と交際してたのかなって事なんだけど…」
その質問を聞いて、由香の困惑はさらに増し、それが表情に出た。そんな由香の顔を見て慶子が笑って言った。
「あ、そういう深刻な話じゃないから…安心して。―とはいえ下世話な話でもないんだけどね。生活調査ってトコかな?―わかるでしょ、そういう職場だっていうのは」
「はぁ…」
慶子の笑顔に由香はホッとする。―そのためのノートだったんだ。
「昨日、一緒の勤務だったから本人に直接訊いたんだけどね、フリーですって、はぐらかされちゃったみたいでさ」
「あぁ。―でも、それは本当だと思いますよ。少なくとも、今つき合ってる人がいるとは聞いていないです」
「へぇ。―じゃ、申し訳なかったかな、疑っちゃったみたいで」
「慶子さんは、瑞枝に彼氏がいるって思ってたんですか」
「ん。いやいや、そういう訳じゃなくって―ちょっと、掴みにくいトコあるじゃない、彼女」
「え?―そうですか?」
意外そうに問い返した由香の顔を見た慶子は「あ!由香は瑞枝の事を、掴み所がないとは思っていなかったんだ」と心の中だけで動揺する。そして、動揺を隠したまま、話題を変えた。ただ、新しい話題も、慶子の目的のひとつではあった。
「で、由香はどうなの?―男性」
「え?」
突然、自分に向けられた質問に、今度は由香が動揺した。
「ん。由香もフリー?」
「あ、ハイ。…です」
すまなさそうに返事をする由香が、慶子には可愛らしく思えた。
「別に男性と付き合ってないのは悪いことじゃないんだから、そんなに元気のない返事をしないでよ。訊いた私が悪者みたいじゃない」
冗談めかしてそう言ったが、その言葉にも由香は「すみません」と謝りの言葉で返した。
「―ん?今は、そういうのあまり興味ないんだ、由香は」
「あ、ハイ…いえ…」
「?」
と、由香のリアクションに疑問符を浮かべて「彼女に男性の話は鬼門だったかな」と、慶子は少し後悔した。
「興味がないって言うより、苦手って言うか…」
「あぁ、そっちか。―ん?じゃ、今、片思い―とか?」
「あ、いえ…ハイ…」
「?」
慶子の後悔が、少し膨らんだ。
「うふふ、そういう煮え切らない返事をしてるうちは、本格的な片思いじゃないのよ」
「―ですかね」
膨らみつづける後悔を笑いでごまかすように言うと、由香はため息をつくように答えた。慶子の後悔は膨らみを増すばかりだ。
「あ、ゴメンゴメン…もう、調査じゃないから。無理して答えなくていい。ゴメン、由香。これこそ下世話な興味だわ…」
「いぇ。すみませんでした」
「いや、ま、謝らなくていいわよ。―すぐ謝っちゃうの由香の悪い癖よ」
「すみません」
「ホラ、また!いつも言ってるじゃない。自分が悪くない時は謝っちゃダメよ」
「あ、ハイ。気をつけます…」
「―ん。よしっ、スイッチ切換えよう。コーヒー淹れるわ」
慶子はそう言って席から立ち上がった。慶子が勤務の日のコーヒーは、必ず彼女が淹れることになっていた。それが若宮三丁目交番の「彼女たちの規則」のひとつだった。
瑞枝や茜と組む夜にコーヒーを飲みながら「慶子さんの淹れ方と私たちの淹れ方とどこが違うのだろう」と話題になることも時々ある。それほど慶子がドリップするコーヒーは旨かった。
―よかった、と由香は思い、表情が柔らかくなった。「慶子のコーヒー」が格別なせいで「慶子とコーヒーを飲む時間」が、また格別なのだった。
給湯室に向かう慶子が「ミーシャーの場所」の横を通ったので、子猫は目覚め、眠そうに顔を上げた。だが、すぐに興味なさそうな様子で再び眠りに就いた。この交番では、ミーシャだけが、慶子のコーヒーに興味がない唯一の存在だった。
給湯室で湯を沸かしながら、慶子は携帯電話でメールを打った。
送信>こんな時間にゴメン。久しぶり。元気?起きてる?
受信>どうした?なにかあったか?
送信>元気かなって
受信>携帯のメール苦手なんで長くていいから用件一度で送信してくれ
送信>元気かなって、それだけ。深夜にゴメン。おやすみ
次に慶子の携帯電話が振動したのはメール受信ではなく電話での着信だった。
「一体なんだよ」
懐かしい声だった。久しぶりに聞く声だ。―いや、この声は昨夜も聞いた。しかし昨夜の声は幻の声だ。
「ごめんなさい。急に元気かなって確かめたくなったの…ホント、それだけ…」
「はぁ?―らしくないこと言うなよ。何があった?」
「ん…。―ねぇ、気を悪くしないで…実はね…」
「うん」
「―悪い夢を見てね…それに、あなたが出てきたの」
「あぁー?―それこそ、らしくねぇなぁ」
電話の向こうの声が苦笑した。
「だから、元気な事だけが知りたくて…ごめん。切るわ」
「ん、慶子…機会があったら言おうと思ってたんだけど」
「なに?」
電話の声が微笑んだまま話す。
「眼鏡にしたんだな」
「え!」
「―知らないわけないさ。署は違っても同じ会社にいるんだ。簡単にわかるさ」
「!」
背筋に電流が走った。彼の言葉に驚き、急いで給湯室を出た。
交番の明るい蛍光灯の下で、机に向かっていた由香が、慶子の慌てぶりに驚き、キョトンとした顔でこちらを見ていた。足元の段ボール箱の中でミーシャも驚いたように目を覚まし「ミヤァ」と不機嫌そうに一声鳴いて、また眠りに戻った。
「おいおい。そんなに驚いた声を出すなよ。交番お披露目のニュースの時にテレビで見たんだよ」
耳元の電話から声が聞こえた。そして、声はつづけて言った。
「俺、前の方がいいと思うな。お前に眼鏡はちょっとなぁ…」
―灯りに満ちた室内にいる由香に、―そして彼の話の内容に、慶子は、自分が今、現実の中にいるという事を確信して胸を撫で下ろした。
「うん。ありがとう」
電話の向こうの彼に感謝の言葉が出た。「似合わない」と言われた方が嬉しいのだと、今はじめてわかった。
「今、交番なの。―休憩中。そろそろ切らなきゃ」
「あぁ、そうなのか。―今度、飯でも食いながら、ゆっくり話そうや」
「―ん。それは無し…かな。昔に戻ったらお互い困るでしょう」
その答を聞いて男の声が笑った。
「ははっ。そういうトコは相変わらずシッカリしてんだなぁ…安心した」
「じゃ、遅くにゴメン」
「―仕事、気をつけてな。じゃぁ」
電話を切った。
給湯室でケトルが鳴り沸騰を知らせた。「あ、いけない」と呟いて、慶子は給湯室に戻った。
淹れたてのコーヒーを飲みながら「気になったでしょう」と慶子の方から電話の相手だった男性の話を切り出した。―あなたたちの事だけ訊いていたんじゃ、仕事とはいえ、ちょっと後ろめたいものね、と。
数年前に別れた彼―今は別の署の刑事課に勤務する男性の事を話す慶子は、由香の目には無邪気に映った。慶子が自分にそんな姿を見せるというのは意外だったが、短いコーヒータイムは、そのせいで実に楽しかった。
さらに付け加えれば、彼との電話を切った後に慶子が淹れたコーヒーは、なぜかいつもに増して香りもよく、一段と美味だったのだ。
明け方の仮眠室。
48時間の当番が終わり自分の部屋に戻るのを待ちきれずに、慶子は、由香に気付かれぬよう声を押し殺して、自慰をした。 |
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