人警 闇
  Scene02
 

  #01 慶子と由香

  「由香は瑞枝と同期でしょ。彼女の事、少し訊いていい?」

 夜も更けてきた頃、慶子にそう質問され、「はい」と頷いて返事をした由香だったが、内心では少し困惑していた。慶子の机の上にはB6サイズの小さなノートが広げられていた。そのノートは慶子が肌身離さず持ち歩いてる物で、事件内容の詳細を書き込んでいるのも見た事があった。
 そのノートが必要な事を訊かれるのだろうか。

「あなたたち、拝命して三年じゃない。その間に瑞枝がどんな男性と交際してたのかなって事なんだけど…」

 その質問を聞いて、由香の困惑はさらに増し、それが表情に出た。そんな由香の顔を見て慶子が笑って言った。

「あ、そういう深刻な話じゃないから…安心して。―とはいえ下世話な話でもないんだけどね。生活調査ってトコかな?―わかるでしょ、そういう職場だっていうのは」
「はぁ…」

 慶子の笑顔に由香はホッとする。―そのためのノートだったんだ。

「昨日、一緒の勤務だったから本人に直接訊いたんだけどね、フリーですって、はぐらかされちゃったみたいでさ」
「あぁ。―でも、それは本当だと思いますよ。少なくとも、今つき合ってる人がいるとは聞いていないです」
「へぇ。―じゃ、申し訳なかったかな、疑っちゃったみたいで」
「慶子さんは、瑞枝に彼氏がいるって思ってたんですか」
「ん。いやいや、そういう訳じゃなくって―ちょっと、掴みにくいトコあるじゃない、彼女」
「え?―そうですか?」

 意外そうに問い返した由香の顔を見た慶子は「あ!由香は瑞枝の事を、掴み所がないとは思っていなかったんだ」と心の中だけで動揺する。そして、動揺を隠したまま、話題を変えた。ただ、新しい話題も、慶子の目的のひとつではあった。

「で、由香はどうなの?―男性」
「え?」

 突然、自分に向けられた質問に、今度は由香が動揺した。

「ん。由香もフリー?」
「あ、ハイ。…です」

 すまなさそうに返事をする由香が、慶子には可愛らしく思えた。

「別に男性と付き合ってないのは悪いことじゃないんだから、そんなに元気のない返事をしないでよ。訊いた私が悪者みたいじゃない」

 冗談めかしてそう言ったが、その言葉にも由香は「すみません」と謝りの言葉で返した。

「―ん?今は、そういうのあまり興味ないんだ、由香は」
「あ、ハイ…いえ…」
「?」

 と、由香のリアクションに疑問符を浮かべて「彼女に男性の話は鬼門だったかな」と、慶子は少し後悔した。

「興味がないって言うより、苦手って言うか…」
「あぁ、そっちか。―ん?じゃ、今、片思い―とか?」
「あ、いえ…ハイ…」
「?」

 慶子の後悔が、少し膨らんだ。

「うふふ、そういう煮え切らない返事をしてるうちは、本格的な片思いじゃないのよ」
「―ですかね」

 膨らみつづける後悔を笑いでごまかすように言うと、由香はため息をつくように答えた。慶子の後悔は膨らみを増すばかりだ。

「あ、ゴメンゴメン…もう、調査じゃないから。無理して答えなくていい。ゴメン、由香。これこそ下世話な興味だわ…」
「いぇ。すみませんでした」
「いや、ま、謝らなくていいわよ。―すぐ謝っちゃうの由香の悪い癖よ」
「すみません」
「ホラ、また!いつも言ってるじゃない。自分が悪くない時は謝っちゃダメよ」
「あ、ハイ。気をつけます…」
「―ん。よしっ、スイッチ切換えよう。コーヒー淹れるわ」

 慶子はそう言って席から立ち上がった。慶子が勤務の日のコーヒーは、必ず彼女が淹れることになっていた。それが若宮三丁目交番の「彼女たちの規則」のひとつだった。
 瑞枝や茜と組む夜にコーヒーを飲みながら「慶子さんの淹れ方と私たちの淹れ方とどこが違うのだろう」と話題になることも時々ある。それほど慶子がドリップするコーヒーは旨かった。
 ―よかった、と由香は思い、表情が柔らかくなった。「慶子のコーヒー」が格別なせいで「慶子とコーヒーを飲む時間」が、また格別なのだった。
 給湯室に向かう慶子が「ミーシャーの場所」の横を通ったので、子猫は目覚め、眠そうに顔を上げた。だが、すぐに興味なさそうな様子で再び眠りに就いた。この交番では、ミーシャだけが、慶子のコーヒーに興味がない唯一の存在だった。

 給湯室で湯を沸かしながら、慶子は携帯電話でメールを打った。

 送信>こんな時間にゴメン。久しぶり。元気?起きてる?
 受信>どうした?なにかあったか?
 送信>元気かなって
 受信>携帯のメール苦手なんで長くていいから用件一度で送信してくれ
 送信>元気かなって、それだけ。深夜にゴメン。おやすみ

 次に慶子の携帯電話が振動したのはメール受信ではなく電話での着信だった。

「一体なんだよ」

 懐かしい声だった。久しぶりに聞く声だ。―いや、この声は昨夜も聞いた。しかし昨夜の声は幻の声だ。

「ごめんなさい。急に元気かなって確かめたくなったの…ホント、それだけ…」
「はぁ?―らしくないこと言うなよ。何があった?」
「ん…。―ねぇ、気を悪くしないで…実はね…」
「うん」
「―悪い夢を見てね…それに、あなたが出てきたの」
「あぁー?―それこそ、らしくねぇなぁ」

 電話の向こうの声が苦笑した。

「だから、元気な事だけが知りたくて…ごめん。切るわ」
「ん、慶子…機会があったら言おうと思ってたんだけど」
「なに?」

 電話の声が微笑んだまま話す。

「眼鏡にしたんだな」
「え!」
「―知らないわけないさ。署は違っても同じ会社にいるんだ。簡単にわかるさ」
「!」

 背筋に電流が走った。彼の言葉に驚き、急いで給湯室を出た。
 交番の明るい蛍光灯の下で、机に向かっていた由香が、慶子の慌てぶりに驚き、キョトンとした顔でこちらを見ていた。足元の段ボール箱の中でミーシャも驚いたように目を覚まし「ミヤァ」と不機嫌そうに一声鳴いて、また眠りに戻った。

「おいおい。そんなに驚いた声を出すなよ。交番お披露目のニュースの時にテレビで見たんだよ」

 耳元の電話から声が聞こえた。そして、声はつづけて言った。

「俺、前の方がいいと思うな。お前に眼鏡はちょっとなぁ…」

 ―灯りに満ちた室内にいる由香に、―そして彼の話の内容に、慶子は、自分が今、現実の中にいるという事を確信して胸を撫で下ろした。

「うん。ありがとう」

 電話の向こうの彼に感謝の言葉が出た。「似合わない」と言われた方が嬉しいのだと、今はじめてわかった。

「今、交番なの。―休憩中。そろそろ切らなきゃ」
「あぁ、そうなのか。―今度、飯でも食いながら、ゆっくり話そうや」
「―ん。それは無し…かな。昔に戻ったらお互い困るでしょう」

 その答を聞いて男の声が笑った。

「ははっ。そういうトコは相変わらずシッカリしてんだなぁ…安心した」
「じゃ、遅くにゴメン」
「―仕事、気をつけてな。じゃぁ」

 電話を切った。
 給湯室でケトルが鳴り沸騰を知らせた。「あ、いけない」と呟いて、慶子は給湯室に戻った。

 淹れたてのコーヒーを飲みながら「気になったでしょう」と慶子の方から電話の相手だった男性の話を切り出した。―あなたたちの事だけ訊いていたんじゃ、仕事とはいえ、ちょっと後ろめたいものね、と。
 数年前に別れた彼―今は別の署の刑事課に勤務する男性の事を話す慶子は、由香の目には無邪気に映った。慶子が自分にそんな姿を見せるというのは意外だったが、短いコーヒータイムは、そのせいで実に楽しかった。
 さらに付け加えれば、彼との電話を切った後に慶子が淹れたコーヒーは、なぜかいつもに増して香りもよく、一段と美味だったのだ。

 明け方の仮眠室。
 48時間の当番が終わり自分の部屋に戻るのを待ちきれずに、慶子は、由香に気付かれぬよう声を押し殺して、自慰をした。
 



  #02 由香と瑞枝

  「私に彼氏がいるかもって、そういう感じで訊かれたの?」
「うん。慶子さんは―そういう訳で訊いたんじゃないって否定してたけど…」
「参ったなぁ」
「あ、でも、慶子さん、疑ったみたいで悪かったって、ちゃんと言ってたから」
「いや、慶子さんに参ってるんじゃなくってさ…」
「?」
「由香も私が彼氏アリって風に見える?」
「え?そんなの解かんないなぁ。―でも、いないんでしょう」
「どうして、そう言えるの?」
「だって、瑞枝、前の彼と付き合いはじめた時、すぐ教えてくれたじゃない」
「そりゃぁ…ね」
「別れた夜も電話してきてくれたし…」
「あ、うん、そうね…でも、あの電話の事は忘れていいのよ…」
「忘れられないよ。普段の瑞枝と全然違ってたしさ」
「う。ま・まぁ、ちょっと酔ってたからね」
「瑞枝の話しぶりで、失恋ってこんなに悲しいものなんだって、その時、思ったんだ…」
「う。まぁ、あ・あの時はね…」
「それだけ好きだったんだなーって、少し羨ましかったりもしたんだよ」
「まぁまぁ、そ・その話はいいから…」
「あ、ゴメン。思い出させちゃった?」
「う…まぁ色々と…。そんな事より、さっきの話。彼氏の事」
「うん」
「私が由香に教えてないから、いないって思うの?」
「え?いるの?」
「―だから、そういう風に見えるのかなって心配になっただけ」
「心配?―恋してるって見られるのは綺麗で輝いてるって事じゃないの?」
「そんな事ないわよ。由香は付き合ってる人いないけど可愛いよ」
「えー」
「パッと見の雰囲気よ。雰囲気」
「綺麗って言われてるみたいで羨ましいけどなぁ」
「逆よ、逆」
「え?」
「男の人が私を見た時にさ…って事」
「ん?ん?んー?」
「こいつ男いるんだなーって思われたら、ハンディじゃない」
「ハ…ハンディって、競争じゃないんだから…」
「いやいや。私、最近、妻帯者から怪しい誘いばかりでさ…不倫要員って感じなのよ」
「ぇえー!」
「うーん。独身から声が掛からないのは、私の雰囲気が問題なのか…28って年齢のせいなのか…」
「そういうのとは違うんじゃないのかなー。たまたま、じゃないの?」
「由香はさー、可愛いうえに彼氏いるって雰囲気じゃないからさ、結構、声が掛かるんじゃない?そっちの方が羨ましいわよ」
「なんかピンと来ないなぁ」
「でも、なかなか浮いた話にならないわよね。同期として―っていうより友達として応援してるんだけどな」
「うん、ありがとう。でも、なんだかさー、上手く行かないんだ」
「上手く行かない?」
「うん」
「今、いい話になりそうな事が何かあるの?」
「て言うかさ、彼氏くらい欲しいなって思う事は思うんだけどさ…」
「うんうん」
「そういうので、あの人いいなーとか思った時にさ…」
「うんうんうん」
「欲しい欲しいって気持ちがさ、いいなーって気持ちになっちゃってるんじゃないかって…」
「んー」
「そういうので選ぶのって、相手にも失礼でしょう」
「考えすぎよー、それは」
「そうかなー。それでいつも躊躇っちゃう」
「いいなって思ってる人がいるの?」
「うーん。いないわけじゃないけど…」
「え!誰よ?誰?私も知ってる人?」
「…う・うん」
「東署?」
「―うん」
「地域課?」
「ぅん…まぁ」
「誰よ?」
「…は・早坂さん…なんだけど」
「あー、駅前交番の。年は由香の一個上だっけ?近いじゃん!」
「でもね…」
「え?問題ありなの?―真面目でいい人そうじゃない。由香に似合うと思うよ」
「あのさ、うちの課の男の人、私の事、由香ちゃん、由香ちゃんって、ちゃん付けで呼ぶじゃない」
「うんうん。由香と茜はちゃん付けだねー」
「後輩たちだって、由香さんって、名前にさん付けだよね」
「だねー」
「でも、早坂さん、茜はちゃん付けで親しそうに呼ぶんだけど…私には苗字にさん付けなのよ」
「ふんふん」
「私と話す時だけ落ち着かないみたいだし…」
「ふんふんふん」
「なんだか他人行儀って言うかさ…」
「ん?」
「きっと私みたいなの全然タイプじゃないんだって…そう思う」
「へ?」
「避けられちゃってるのかも…私」
「ち・ち・ち・ちがーう!」
「は?」
「ちがうちがうちがーう!ぜんっぜんちがーう!」
「???」
「ちょっと、由香!いいから、私の話を聞きなさい!」

 こうして今日も若宮三丁目交番の夜は更ける。
 瑞枝が由香に、一方的にそして延々と話しつづける様子を見ながら、ミーシャが退屈そうに、鳴き声にもならない小さな欠伸を漏らす。
 



  #03 瑞枝と茜

  「わぁー!瑞枝先輩すごーい!」

 瑞枝の作った迷い猫の貼り紙を見て茜がはしゃいだ声を上げた。

「言ったでしょう。昔とった杵柄…または、能ある鷹は爪を隠す」
「このミーシャ、ホントに私が撮ったやつですか?」
「そうよ。ちょっと画像ソフトでいじったのよ」
「へぇー。結構よくなるモンですね」

 瑞枝は片腕を折り、もう片方の掌でその腕を叩いてみせた。

「ココよ、ココ」
「ふーむ」
「―なんてね。大したことないわよ。誤魔化し方で上手く見えるだけ…」
「またまた、ご謙遜を」
「ううん。茜がその道のプロなら、私の小手先のテクニックなんて、すぐ化けの皮が剥れちゃうって」

 茜は貼り紙を裏返し蛍光灯に透かして見た。

「そんなもんですかー?うーん、私には解からないなー」
「透かして解かるわけないって!」
「本当のプロは、もっと凄いって事ですかー」
「そうね。―茜も若いんだから、本当の婦警のプロを目指しなさい、ね」

 そして、茜の横顔を見ながら続けて言った。

「―誤魔化しばかり上手くなっちゃ…ダメよ」

 瑞枝の視線の先の茜は「ハイ!」と返事をしながら、まだ貼り紙を透かし見ていた。―と、突然、茜が瑞枝の方に振り向いた。

「そうだ!」
「え?なに?いきなり」
「私の写真も綺麗になります?」
「は?」
「三倍くらい美人に」
「なに言ってるの、普通にそのままでイケてるじゃない」
「だーかーらー、普通以上の美人に…」
「また、よからぬ事、考えてるでしょ。―この間の制服みたいに」
「う!」
「やっぱり…碌な事、考えてなかったわね…」
「うぐぐぐ」
「図星か…」

 その時、茜が思い出したように瑞枝に言った。

「―あ、そうそう、そう言えば…その制服なんですけど…」
「ん?」

 茜は二人しかいないはずの交番の中で辺りを伺い、声を急に小さく潜めた。

「ちょっと耳を…。実はですね…」
「茜…まさか…」
「持って行ったんですよ、私…」
「うそ!」
「シーッ!先輩、声が大きいですってば」

 ふたりは互いの額を寄せ合い、ヒソヒソと話しはじめた。

「ゴメンゴメン…。で?」
「あのですね…マジやばかったんですよ」
「や・やばかった?」
「ですです…私も普通にはならないだろうなって少しは覚悟してたんですけど…」

 ゴクリと瑞枝の喉が鳴った。

「彼、変態でした…」
「…へんたい?」
「レイプっぽいどころじゃないですよ」
「な・何があったの?」
「思い出すのも、ヤダ…」

 茜は斜め下に視線を落とし、吐き捨てるように言った。

「婦警の制服で怒られるのがいいんだって…ハイヒール履かされて、顔を踏めって…」
「え!」

 茜は俯いていた顔を上げて、瑞枝を見た。そして言った。

「…先輩―引きました?」
「えっ?」
「ぷっ…くくくくく」
「あー!あーかーねーっ!」
「仕返しでーす!」
「もぅ、油断も隙もないんだから…」
「えっへっへっへっへ…」

 茜の嘘に苦笑しながら瑞枝はあることに気が付いた。

「ん?―彼、新聞記者って言ったわよね」
「あっ、ハイ」
「地元の働く女性を紹介するコーナーがあるとか…」
「ですです」

 瑞枝がチラリとミーシャを見た。

「交番で預かってる迷い猫って、地方面くらいなら取り上げてくれそうな気が…」
「あっ!それいい考えかも!」
「うち婦警交番だからさ、書き方で、ほのぼのニュースにもなりそうじゃない」
「はいはい。ですよねー」
「掲示板に貼り紙するより効果あると思うわよ」
「ミーシャの飼い主、見つかりますかね」
「意外と早く見つかるかも…」
「ん…」

 茜の声色がトーンダウンした。

「飼い主が見つかると…ミーシャ、交番からいなくなっちゃうのか…」

 茜はミーシャの場所に近寄り、しゃがみ込んで子猫の大きな瞳を見た。

「―でも、お前も、お父さんやお母さんの所がいいよね…」

 その茜の姿を見た瑞枝は、以前、慶子に聞かされた話を思い出した。

 茜は結婚したら婦人警官を辞めると言った。慶子がその理由を訊くと、両親が幼い頃に離婚したので私は子育てをシッカリやるんだ、と笑って答えたらしい。

「―実は警察官になったのも、中学の頃、長いこと会えないでいる父の居場所が解かるかなって、考えはじめたのがきっかけなんですよ。そんな事、いくら警察官でも出来るわけがないのに…。私ってホント子どもっぽいでしょう…えへへ。―ホラ、この間の記者会見。父がテレビ見るかもなぁって、張り切ってメイクしてたら、由香さんに叱られちゃいました…えへへ…」

 慶子を通して、その茜の発言を聞かされた時、父親が未だに鬱陶しい存在である瑞枝は、自分を僅かに恥じた。私が父を煙たく感じはじめたのは中学の頃だったな…。私は中学以来、ずっと父親を嫌ってきたというのに、その年頃の茜は父親に会いたくて仕方がなかったんだ…。そう考えると、自分の方が、茜よりずっとずっと子どもっぽいと思った。―だが、それでも自分の父親を見直す気にはなれなかった。
 ミーシャの前に屈み込んだ茜が、携帯電話を取り出し、見つめていた。

「彼に相談してみようかな…」

 ポツリと独り言のように呟いた茜に瑞枝は言った。

「止めときなさい。勤務中の私用電話はダメよ…」

 ―その夜、時計の針が0時を回ると風が強くなった。閉めきった交番の中にも風の音が聞こえてきた。風は時折カタカタと窓ガラスを振るわせる。
 ミーシャはその音がする度に不安そうな様子で「にゃぁ」と小さく鳴いた。

 ガラガラガラと何かが風に飛ばされ、交番前を転がっていく音がした。

「あー、すごい風」

 その音を聞いた茜が立ち上がった。制帽を被り、掌で帽子の天辺を押さえながらドアを開け外を見た。冷気が交番に流れ込んだ。
 交番前の歩道を、空き缶用ゴミ箱の蓋が、強風に飛ばされ通り過ぎていた。

「道路に出ちゃうと危ないなぁ…ちょっと行って来ます」

 茜は交番を出た。
 瑞枝は何かが気になり、茜を追うように席を立ち、交番の出入口に向かった。表を見ると、既に数十メートルほど先を小走りに駆ける茜の後姿が見えた。
 茜は転がるプラスティックの蓋に追い着き、前屈みでそれを止めようと手を伸ばしたところだった。

 瑞枝の目には、ゴミ箱の蓋をその手に捕らえた茜がバランスを崩して転びそうになる光景が映った。

 だが、茜の目に映る風景は違っていた。
 ゴミ箱の蓋は手が届く寸前で、風に煽られ更に前に進んだ。

 茜はそれを追いかける。

 ―蓋を追う茜の姿は瑞枝の目には映っていない。
 瑞枝の目には、数日前、ミーシャを追った慶子がバランスを崩して尻餅をつく寸前の姿が、今まさに転びそうになっている茜の姿とダブっていた。


 
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