人警 闇
  Scene03
 

  #01 茜と由香

  「ミーシャのことを新聞にねぇ…」
「はい。由香さんはどう思います?」

 昨日、瑞枝が思い付いたアイディアについて、茜は由香に尋ねてみた。今、ふたりは茜が淹れた苦めのコーヒーを飲んでいる。由香は、寝ているミーシャにそっと視線を向けた。

「悪くはないと思うけど、そう都合よく取材してくれるものなのかしら」
「そりゃもう!任せてくださ・ぃ…」

 自分の交際相手が新聞記者である事を由香には伏せていたので、茜の言葉は語尾で失速した。

「任せてって、茜、何か伝手でもあるわけ?」
「あ、いや、その…なんていうんですか…ちょっとした知り合いが新聞社に…」
「へぇー」

 由香は、茜のうやむやな返答にもあっさりと納得し、感心しはじめた。

「すごいね、茜、マスコミに知り合いがいるなんて」
「あ・いぇ、その…大した知り合いでもないから…てへへ」
「いや、すごい事だと思うよ、それは」

 持ち上げられている雰囲気が茜にとっては、くすぐったくもあり、そして、申し訳なくもあった。―由香さん、買いかぶりすぎですよ、と。
 なにしろ、瑞枝に新聞記者との交際を話した時には、付き合い方を考えるように、やんわりと釘を刺されているのだ。
 茜の笑みは苦笑いと照れ笑いの間を往復する。由香は、そんな茜の表情を理解しないまま屈託のない笑顔のままで言った。

「新聞社の知り合いって、どんな人?」
「え?あ、ぅ・はぃ…そのぅ」

 茜は言いよどみ、由香の笑顔に対して―罪がないって事もひとつの罪だわ、と思いながら、必死で頭の中で「よい回答」を探した。だが、そう簡単に上手い答が見つかるはずもなく、結局は開き直った。

「いや、実はですね、ほら…交番の発表記者会見の時に知り合ったんですよ」
「あらあら…」

 ―知り合いを作るのがなんて早いのかしら、と由香の目が丸くなる。

「由香さん、興味あります?マスコミ関係」
「?」

 茜はマグカップを持ったまま、椅子ごと由香のそばに移動し、肘で彼女を突付きながら、歯を見せて笑った。

「にひひひ…合コンですよ、合コン!記者仲間の間では、由香さん、この交番の一番人気らしいですよ」
「はぁあ?」

 由香の声が裏返った。

「あら?嬉しくないんですか?」
「―ん、いや、嬉しいとか嬉しくないとかっていう問題じゃなくってさ…」

 茜は、そんな由香の反応に―こういう話題に戸惑う辺りが、男に対する人気の高さの秘密なのかぁ…と思いを巡らせながら熱いコーヒーを口に含む。

「んー、合コン…かー。悪いけど、今は興味ないなぁ」

 そして、その返事を聞いた茜は、由香には既に交際している男性がいるのだ、と早合点した。

「あ、由香さん、今、付き合ってる人いるんですね。―でも、彼氏いたって合コンぐらいだったらOKなんじゃないんですか?」
「いやいや、そうじゃないのよ」
「ん?彼、そういうの厳しいんですか?」
「いや、だから、そういうのじゃなくって…」

 そんな由香の反応は、茜の誤解をさらに深く進行させる。―由香さんは、好きな人をとても愛しているから、彼に対して申し訳なく思ってる。だから、私の誘いに興味がないって言うんだ…。そして、再び、由香が記者たちの間で一番人気だという理由を垣間見た気がした。―こういう所が男はいいんだろうなぁ…私だってそう思うよ、まったく。

「ところで、由香さんの彼ってどんな人なんですか?」
「だからそうじゃないって言ってるじゃない。今、私、付き合ってる人なんていないってば…」
「え!ありゃ?す、すみません。今は興味がないって言うから、私、てっきり…」

 そう言って茜は不思議そうに首を傾げた。由香も同じように首を傾げて茜に言う。

「合コンに興味がないって、そんなに変かしら」
「んー、いやまぁそのう…今は異性より仕事、ですか?」
「やだなぁ、私だって男性に興味ないわけじゃないわよ」

 今度は別の「勘違い」が茜に生まれる。―それは、ちょっぴり哀しい勘違い、だ。

「え。―じゃ、やっぱ、相手が新聞記者っていうのがよくないんですか?」
「ん?」
「瑞枝先輩に新聞記者と付き合ってるって話をしたら、職業的にまずいかもって言われちゃって…」

 交際相手の職業が恋愛の障壁になるとは考えた事もなかった由香は、茜にそう言われて困惑した。マグカップに視線を落とした茜の表情が、とても寂しそうに見えた。

「んー、まぁ、瑞枝が言いたい意味も解からないでもないけど、キチンと付き合ってれば相手の職業が何であれ差し支えないと思うよ」

 そして、茜を慰め、そして励ますつもりで、こう付け加えた。

「ローマの休日って映画あったじゃない。ヘップバーンの王女様が身分を隠して新聞記者と恋に落ちるお話。―見てない?」

 ―ん、あれ?こういう話、いつかどこかであったよなぁ?いつだっけなぁ…どこでだっけなぁ。

「んー、題名は知ってるんですけど見たことないんですよ、その映画。―で、最後に二人は結ばれるんですか?」
「んぐっ」
 
 返事に詰まり、コーヒーが喉に引っかかった。

「ン…ゴホゴホ…ん、いや、職業や身分なんて恋愛には関係ないって…ゴホゴホ…そ・そういうお話…ケホンケホン」
「大丈夫ですか、由香さん」
「ん、大丈夫大丈夫、ケホケホ…ラストが知りたかったら機会がある時に見るといいわよ…ケホ」

 そして、由香はむせながらも、茜に誘いを断った理由を話すことにした。

「さっきの話、興味がないって言ったのは、実は、心の中に、今、気になってる男性がいるからなのよ。ただの片思いなんだけどね…」
「!」

 茜は、そういう事だったのか、と驚きながらも、由香の性格を考えながら納得し、またもや「一番人気の秘密」を思いつつ―ハイハイ、どーせ私にはそーゆーのは無理ですよ、と心の中で交際相手の新聞記者に毒づいた。
 そして、茜は、そんな由香が密かに、そして健気に思いを寄せる相手の男性が気になりはじめた。

「えー、誰なんですか?私も知ってる人ですか?」

 急に瞳を輝かせながら、瑞枝と同じ質問を訊いてきた茜に―あ、しまった!話した相手が悪かったか、と由香は少しだけ後悔した。

「内緒」
「えー、教えてくださいよー」
「ダメ」
「どうしてですかー」
「だって茜に教えたら、明日には署内中の噂になってそうだもん」
「ひどーい、由香さん、私の事をそういう風に思っていたんだぁ!」

 茜は両手で顔を覆って俯いた。

「うん、思ってるよ。―何、うそ泣きしてるの?」
「ぐっ!」

 由香の反応に、これ以上質問してもきっと無駄だと思い、茜は自信に満ちた表情を浮かべ大きく胸を張って話しはじめた。

「ん、わかりました。これ以上は聞きません。そのかわり、由香さんに、片思いに効くいいおまじない教えます」
「?」
「片思いの人が夢に出てくるおまじない。興味ありません?効くんですよ」
「…へぇ、そういうのがあるの?―でも、ほんとうに効くのかなぁ?」
「これが効くんですって!高校時代にすっごく流行ったんですよ!騙されたと思って、私のやる通りにやってみて下さいよ」
「うんうん」
「まずですね、両腕を水平に真っ直ぐ上げるんです。前にならえ、みたいに」

 と、茜は両腕を上げた。由香は半信半疑でそれに従った。

「そして、掌を前に向けて、指に力を入れて思いっきり伸ばして…」
「こう?」
「ですです…そして、眼を閉じて相手の男性の事を考えて下さい」

 由香は頷いて茜の言う通り、駅前交番の早坂の姿を頭の中に思い描いた。
 一昨日、瑞枝に早坂の事を打ち明けたからなのか、由香は、彼に対する気持ちが以前にも増して、よりいっそう大きく膨れたように感じていた。彼の事を思い浮かべるだけで幸福感と、そして切なさがあった。

「それでですね…好きな男性の名前を小声で三回呟くんですよ」
「うん…」
「では、どうぞ」
「…早坂さん・早坂さん・早坂さん」
「あ!早坂さんなんだ!」
「え?」

 目を開けた由香の前に茜の悪戯っぽい笑顔があった。

「えっへっへっ」
「あー、あかねーっ!」

 耳までもが真っ赤に染まっているのが自分でわかった。恥ずかしさを隠すように由香は頬を膨らませて席から立ち上がった。

「もういい!仮眠する!ごちそうさま!片付けもよろしく!」

 そして、コーヒーカップを残したまま仮眠室へと引っ込んだ。

「あー、由香さん、ごめんなさい!そういうつもりじゃなかったんです」

 茜は由香の背中にそう声を掛けたが、振り返ってもらえなかった。

「まいったなぁ」

 給湯室でコーヒーカップを洗いながら茜は大きなため息をついた。ため息の理由は由香を怒らせた事だけではなかった。―茜は、由香が羨ましいとも思っていた。

 もしも、おまじないの話を試された時、私は一体、誰の名前を三回呟くのだろう?たったひとりだけ夢の中で逢えるとしたら、私は一体、誰の名前を呟くのだろう?

 ―今、付き合ってる新聞記者?―むかし付き合った彼の中の誰か?

 いや、きっと、多分、どちらも違う。そこまで大切に思える人なんて、誰の名前も思い浮かばないや…。―私には、夢の中で逢いたくなるほど好きな人っていないんだなぁ…。

 ―由香さんは、いいな…
 
 ふと昨夜の幻が頭に浮かんだ。
 …お父さん、お父さん、お父さん。
 そう三回、独り言で呟き、そして、そんな自分に苦笑した。

「さっきは怒ってゴメン」

 数時間後、仮眠室から出てきた由香は先ず茜に謝った。

「あ、いえ、私こそ、すみませんでした…」

 そして、照れくさそうに笑いながら言った。

「ありがと。茜」
「はい?」
「本当に早坂さんの夢、見れちゃった…」
 



  #02 由香と慶子

  「あぁ、茜の彼氏が新聞記者だっていう話は初耳じゃぁないわよ」
「ご存知だったんですか」

 その問いに、慶子はなるべくあっさりと聞こえるよう気を配りながら言った。

「ん、まぁ、小耳に挟んでるって程度だけれどね…」

 昨日、茜本人から聞いたのか、それとも瑞枝との勤務の日に聞いたのか。こんな時、由香は「知らないのは私だけだった」という表情になる。兎に角、自分がその話を瑞枝から聞いたという事は黙っていた方がよさそうだ、と慶子は考えた。

「ホラ、こういう立場だと、色々と知っておかないと…でしょ」

 そう言って軽い笑いで誤魔化す事にした。

「茜自身の事なんだから、由香が心配する事じゃないわよ」
「ん。いや、そういう意味で言ったんじゃないんです」

 由香は、慶子の口から恋愛相手に関する注意事項を聞きたくなかった。笑いながら「好きな相手が誰だろうが関係ないじゃない」と言い放つ慶子であってほしかったが、現実にはそうはならないだろうという予感があった。だから、単刀直入に本題を切り出した。

「ミーシャの事を、新聞で取り上げてもらうと飼い主が早く見つかるんじゃないかって…。瑞枝のアイディアらしいですけど」
「あぁ、なるほどねぇ。―婦警交番の迷い猫か」

 慶子は慶子で、由香に対して茜の交際相手についての深い話をする事は避けたいと思っていたので、話題が別の方向に移ってホッとしていた。しかも、後輩たちがそのような考えを思いつき、数日間の交代勤務を通じて最後に自分に伝わって来た事が実に嬉しかった。そして、そのアイディアは下からの提案として潰してはいけない、と上に立つ者として思った。

「課長に話して、本部の広報から茜の彼の新聞社に話を正式に回してもらうようにしようか」
「ん…いぇ。あの、私は…」

 だが意外にも、由香の反応は鈍く、慶子は拍子抜けした。

「あれ?由香はその考えに賛成じゃないの?」
「はい。…言いにくいんですけど」

 由香は、慶子から視線を外し「ミーシャの場所」をチラリと見た。

「飼い主が見つかるっていうのも良し悪しかなって思うんです」

 子猫を見ながら話した由香の様子が慶子には引っ掛かった。

「―ん、まさかミーシャが交番からいなくなると寂しくなるから…ってわけでもないでしょう」
「ええ…もちろんです」

 由香はミーシャの方を向いたまま慶子を見ずに頷いた。そして、ポツリポツリと話しはじめた。

「私がまだ警察学校の頃の話なんですけど…」
「うん」
「―研修が旭ヶ丘署だったんです」
「あぁ、そうだったの。あそこは大変だったでしょう」
「あ、いぇ。いろいろと勉強になりました」

 その返事に慶子は微笑で応えた。

「うん、そうね。あそこは、確かに…勉強に、なる」
「夜…今日みたいに寒い夜でした」

 由香は、いまだ慶子の眼を見ず、ミーシャから、窓の外―冬の夜の暗闇に視線を移した。

「家出した女子中学生が保護されてきた事があって…」
「うん」
「みんな忙しくて、私がその子と一緒にいたんです。ふたりきりで…保護者が署に来るまで」

 由香は寒々しい窓の外に目を向けたまま話し続ける。

「私ったら、その時、彼女に家出の理由を聞いてばかりで…」

 ミーシャが「にゃぁ」と小さく鳴いた。由香の視線がまたミーシャの方に移った。それが慶子には、俯いたように映った。

「当然、理由を聞いても、彼女、黙ったままで…。ダメですね、私。もっと気の利いた事、話せばよかったのに…」
「ん、いや、誰だって家出の理由を聞くわよ…」

 由香は、瞳を上げてやっと慶子の方を見た。

「いや、もっと…自分の事を彼女に話せばよかったなって…警察学校一年生で今は研修を頑張ってるんだぞ…とか」

 慶子は、その話を聞いて、フォローに回った自分が少し情けなくなり、由香の顔を見ながら笑顔で言った。

「―うん、そうね。その通りだね。その方が、いい」

 慶子を見た由香は小さな作り笑いで頷き、再び視線を下に向ける。

「すごく気まずかったんです…あの時間は…。彼女の帰りたくないって気持ちだけは伝わってきてたから、なおさら…」

 慶子は、由香の話に口を挟まず相槌だけを打つ事にした。

「―彼女とふたりでいた時は長かった…時間がすごく長く長く感じたんです。でも…」
「うん」
「保護者が来て、その子を連れて帰る時…私を見る彼女の目が…何かを訴えているみたいに思えて…」

 由香は一度、ため息をついた。

「―彼女、何かを言いたそうだったんですよ…私に」
「うん」
「それを思うと、家出した彼女とふたりだけの時間が、今度は逆に、すごく短い時間だったように感じられて…。何かもっと他の事も私は出来たんじゃないのかって…」

 掛時計の秒針の音が交番の中に響いている。

「彼女を帰した後になって…もしかしたら、親の虐待から逃げてきた家出だったのかもって、最悪の可能性まで想像しちゃって…もう、心配で心配で、上の人に言ったら…」

 それを聞いた慶子は由香から視線を外した。―だが、由香の話は続く。

「保護者に引き渡した時点で家出の件は終わってるんだって、軽く言われちゃって」

 ―あぁ、と慶子は表情に出さずに心の中だけで深く息をついた。
 由香は「ミーシャの場所」に近寄り、腰を落としてしゃがみ、子猫を抱きかかえた。

「―だから、この子が一番してほしい事をやってあげられたらいいなぁって…私は…そう思うんです」

 慶子の耳に、ごぉ、と交番の外の風の音が聞こえた。その風の音を遮りたいかのように慶子は口を開いた。

「由香の言いたい事は、私にはよく解かる…でもね」
「はい」
「何もやらないよりは、やった方がいい。―特に私たちの仕事は、ね」
「え?じゃぁ、慶子さんはミーシャの事を新聞に?」
「うん。広報に掛け合ってみるよ。―物事は転がしてみなくちゃ、はじまらない。なにしろ、私たちには、ミーシャの言葉はわからないんだからね」

 由香が悲しい目で慶子を見つめている。慶子は静かに微笑みを作った。

「何にもしないまま後悔するのは、よくない。―かつての由香も、そう思ったはずだよ」
「でも…」
「飼い主が現れてミーシャが帰りたそうだったら、私たちは喜べばいいじゃない。そして―」

 慶子は一旦深呼吸した。

「ミーシャが帰りたくなさそうだったら、私は、絶対にミーシャを渡さない」
「え?」
「法律、勉強してる?」
「はい?」
「動物愛護に関する法律も、確か、あるはずだよ」
「あ!」
「勉強しておきなさい。いざという時、後悔しないように。―私が言ってる意味、わかるわよね」

 慶子の言葉を聞いた由香の顔に赤みがさした。

「ハイ!ありがとうございます!」

 ―ん、いや、まいったな…私もよくその法律の詳細までは知らないのよ、と勢いに任せて後輩に啖呵を切ってしまった慶子はそう思っていた。―たぶん大丈夫だとは思うんだけどなぁ。
 でもね、何はともあれ、転がしてみなくちゃ一切はじまらない。―そう慶子は思う。今まで、何かにぶつかるたびに、何度もそう思ってきた。

 やってみなくちゃ、はじまらない。―警察官の仕事というものは。
 



  #03 慶子と茜

  「あ、慶子先輩にも伝わっていたんですか」

 自分が新聞記者と交際している件を話題にされて、一昨日、由香さんの彼氏の名前を聞き出してしまったお返しに報告されちゃったのかな、と平静を装いつつ茜は思う。―だが、慶子の返事はその予想とは別だった。

「瑞枝から聞いたんだけどさ…」

 ―あ、瑞枝先輩から、か。

 実のところ、昨日、相勤の由香から聞いた、とは言わないでおいた方がよさそうね、というのが慶子の判断でもあった。

「わかってるとは思うけど、私からも釘を刺しとくわ。公私はわきまえなさいね」
「ハイ!」

 ―と返事はしたものの、まぁ、この場合は、マスコミ関連の知人に対しては守秘義務の遵守は一層デリケートにね、って意味に受取って間違いはないよな。―例の制服プレイ禁止が公私の分別って意味ではないよな。…瑞枝先輩もそこまで伝えてはいないよな。―てか、さすがに慶子先輩にどちらの意味か確かめる事は出来ないよな。そこまで聞き返すのはヤブヘビってぇやつだよな。

「ミーシャの迷い猫取材の件も聞いたわ。上に掛け合ってみようと思ってる」
「あ、はい」

 そっか、そういう話だったのか―と茜は安心した表情になる。

「ミーシャも元の家に早く戻れた方が、きっと幸せだと思います」
「そうね。―そうよね、きっと」

 昨夜の由香の話が記憶を掠めたが、茜の「家庭の事情」を思い、慶子は素直に肯定した。

「彼、どこの新聞社?」
「え?」
「本部の広報から話を回してもらおうと思ってさ…。交際してる相手が相手なだけに、いつかは上に伝えなきゃいけないと思うけど、今回は、茜の彼とは言わないでおくから」
「あ、ハイ」

 茜は、一瞬のためらいの後、慶子を信頼して彼の勤める新聞社の名を明かした。慶子はB6サイズのノートにそれを書きとめながら言った。

「上に報告した時点で、茜も課長あたりに呼ばれて、色々言われるかもだけどさ…」

 パタリ、と音を立てて、慶子はノートを閉じた。

「上手くやりなよ、ね」
「はい?」
「―いや、今後、茜の後輩がさ、困らないようにって事さ…」
「?」
「茜が、この件で何かやらかしちゃうと、その後、多分、他の婦警が困る事になると思うんだ…だから、さ」

 そう言って、慶子は自分のこれまでを回想した。
 新人婦警が数ヶ月で辞めた…同僚の婦警が現場で泣いた…。そんな出来事がある度に聞かされた―やっぱり女は…という台詞が頭の中にこだまする。その声は一人の男の声ではなく何人もの男の声だ。そんな声に押しつぶされそうになりながらも、やっとここまでやって来た。

「こういう話、組織のためって思っちゃうと重くて息苦しくなるからさ…ね」

 微笑んだ。

「苦しくなったら、可愛い未来の後輩たちのためだと思って、自重してちょうだい」

 微笑が苦笑いになった。

「―ゴメン、こんな言い方で…」

 そして、苦笑いの後に深いため息がやって来た。その表情を見た茜は、慶子の悩みの種が自分にある事に居心地の悪さを感じる。

「ん、いや、大丈夫です、先輩。上手くやりますから安心して下さい」

 茜は笑いながら慶子に言う。

「そういう状況になったら、私、別れちゃいますから。…えへへ」

 そして、笑ったまま付け加えた。

「今の彼は、言いにくいんですが…その程度、なんです。―いわゆる、今どきの…ってやつです、私は…」

 今どきの女の子だね、と言われる事に慣れてはいたが、こういう形で、自分で言葉にして肯定するとは思っていなかった。
 しかし、慶子の返事は茜にとって意外だった。なにしろ慶子は笑いながら頷いたのだ。

「あはは、わかるわかる…そういう事かぁ。でも、―今どきでもないわよ。そんなこと言ったら、この年で結婚に踏み切れていない私も『今どき』よ。うふふ」
「?」
「私も『その程度』ばかりだったって事よ…」
「はぁ…」

 慶子の言葉に、茜は曖昧に同調しながら、思わず率直な疑問を口にしてしまう。

「―慶子先輩、大恋愛って無かったんですか?」
「え?」

 少し驚いた表情になった慶子を見て―あ、しまった、この質問はまずかったかな、と後悔が頭の隅をかすめた。だが、尋ねてしまったものは仕方がない。
 ―覆水盆に返らず。こぼれたミルクはグラスに戻らない。

「ん。いや、実はですね、昨日の事なんですけど、由香さんと…」

 茜は、由香の片思いの相手を知りたくて、出まかせのまじないで彼女を引っ掛けた事を慶子に話した。

「―そうやって、由香さんの片思いが早坂さんだって聞き出しちゃったんですけど…」
「えぇー!」

 大げさな慶子のリアクションに茜は慌てた。―しまった!「早坂さんの話」の方が盆に返らずじゃん!

「あっ!ゆゆゆ・由香さんに、早坂さんの事、私から聞いたって言っちゃぁダメですよ…ていうか、その事を慶子先輩が知ってる事自体がまずいです、あわわわわ」

 だが、もちろん慶子が驚いた原因は由香の片思いの相手が判ったことではない。由香に対してデリケートに接する事を基本にしていた慶子は茜に対して驚いていた。―なんて、大胆な!と。

「ゆ・由香、怒らなかった?」
「―ん、少し。でも、たまたま仮眠の時に早坂さんの夢を見たみたいでラッキーでした。えへへ…」

 ―茜…あんたって人は、もう…、と慶子は半ば呆れながらも、その「ラッキー」に安堵した。そしてホッとして落ち着くと、由香と早坂のふたりを同時に想像して微笑ましくなった。

「―でも、早坂君っていうのが、由香らしいわね。今まで気がつかなかったけど、似合うわよねー、あのふたりだったら」
「ですよね、ですよね!―だって、早坂さん、私の事、茜ちゃんって呼ぶくせに、由香さんと話す時は『峰山さん』なんですよ。うぷぷ」
「あはははは、そう言えばそうよねぇ。あはは…気がつかなかった、あははははは」

 慶子は、由香には申し訳ないとは思いながらも、茜の指摘に、こぼれる笑いを抑えきれなかった。そうやって笑いつづける慶子に茜は先ほどの疑問のつづきを訊ねてみた。―この雰囲気なら、訊いてもいいかも、と。

「―そのぅ…そういうおなじないの話をされたら、慶子先輩は誰の名前を三回呟きます?そこまで…夢の中でまで、逢いたい男性っています?」
「え?」

 慶子はそう問われて、笑いから我に返った。そして、例の刑事の事を思った。だが、全てを話したくなかったのでジョークの口調で答える事にした。

「失礼ねぇ。そういう話のふたつやみっつ、当然あるわよ」

 そして、茜が由香を引っ掛けたという、両手を前に突き出し、掌を広げて指先に力を込めるというまじないのポーズをとった。

「三回といわず百回くらい名前を呟いて、その男の事を話してあげようか?―でもね、長くてクドくなるわよう…」

 意地悪く笑って答えた慶子の顔を見て、茜は笑いながら言った。

「てへへへ、それは、今度、プライベートの時にゆっくり聞かせてくださいよ…給料日の後くらいに。―アルコールも交えながら…えへへへへ」
「あははは。―そうね、いい店、見つくろっとくわ」

 慶子も笑顔で答えた。その笑顔はもちろん、茜の「察しのよさ」に対して向けられた笑顔だった。
 



  #04 茜と瑞枝

  「この間の茜との勤務の数日前…慶子さんと一緒の勤務の日にね…」
「ハイ」
「慶子さんも交差点の手前で、茜と同じように転んだのよ。―茜が転んだ同じ場所でね」
「はい?」

 瑞枝は思い切って疑念をストレートにぶつけた。いつもに増して真剣な瑞枝の様子に圧倒されたのか、普段は饒舌な茜が、今日は聞き役に回っている。

「あの時、茜が気を失ってたって言ったけど…」
「はい」
「そんな事、なかったのよ…」
「え?」
「ゴミ箱の蓋を追っ掛けて…転んだ。そして、私が近付いたら…」

 瑞枝は一瞬言葉を切って、つづきを話す事をためらったが、事実をきちんと話そうと、今朝、心に決めて出勤したではないかと、自分で自分を説得した。

「近付いたらね…茜は私に向かって、お父さんって言ったのよ」
「えぇっ!」
「ゴメン。茜は元彼の事なんて一言も言わなかったのよ…あの時。お父さん―なんて言ったから、私、なんて言っていいのかわからなくなって…それで、元彼の夢でも見たのって…言っちゃったの」
「…」
「そしたら、茜、驚いちゃって…。でも、私も驚いたのよ、茜の反応にさ」

 茜は返す言葉を失っている。

「転んだ時に何があったの?」
「あ、いや、その…」

 返答に困った茜の様子を見て、瑞枝の心に罪悪感が拡がる。茜を問い詰めるつもりは微塵もないのだ。

「―ん、実はね、こんな事を聞くのはね…茜と慶子さんが同じ場所で転んじゃった。―それを、たまたま私が見た。ふたりとも転んだ後の様子が変だったから、引っかかる…。―それだけの事なんだけれどね」
「…はぃ」

 瑞枝の目には、茜が何かを考え込んでいるように見える。『あの時』の事を話そうか話すまいか、と迷っているように見える。

「慶子さんの時はさ…入り口の隙間からミーシャが外に逃げちゃってね…」

 とりあえず、慶子さんの時の話題に逃げよう…いや、―逃げる、というのは正確じゃないな…こちらの持ちネタを小出しにしながら、茜の様子を観察しようか…。

「それを追いかけた慶子さんは、交差点の所まで行って、ミーシャが足元にじゃれて…それで転んじゃった…って、その時、私はそう思った…」
「はぁ…」
「でもね」
「はい…」
「―慶子さんも、転んで私が駆け寄るまでのほんの2・3秒をさ、かなり長い時間に感じてたみたいな雰囲気だったんだよね…」
「…」

 茜はまだ何かを考え込んでいる。

「―んで、この間の茜の件もあったからさ」
「はぃ」
「昨日、由香にその事を話した。―茜も慶子さんもさ、転んだ次の日は、由香と一緒の勤務だったからさ…、いつもと変わった様子がなかったのか聞いてみたのよ…」

 神妙な面持ちで話を聞く茜に、瑞枝は軽い笑顔を作って話しつづけた。

「昨日は色々あったけど、茜は普段と変わらなかったってさ。―でもね」
「でも?」
「慶子さんは普段と少し違っていたって…」
「え?」

 瑞枝の表情からいつの間にか笑みは消え、真顔に戻っていた。

「慶子さんは由香に、むかし付き合っていた男性の話をしたらしいのよ」
「えぇー」

 今まで静かに瑞枝の話しを聞いていた茜から大きな声が上がり、ミーシャが大きな瞳をさらに大きくしてふたりの方を見た。
 いつもの茜ならば、その声の原因は、慶子が話した男性への興味だろう。もしかすると、慶子らしくない意外な言動への興味かもしれない。だが、茜の反応の原因はそのどちらでもない、と瑞枝は思う。

「茜が転んだ時も、私が―元彼の夢でも見たのって訊ねたら、茜、慌てたわよね」
「―ハイ」
「本当にあの時、夢を見たの?むかし付き合ってた彼氏の夢を…」
「はい…見ました」

 茜は、わずかな躊躇の後、小さく頷いて、夢の内容を瑞枝に話してきかせた。

「―そして、それが父だと思って振り返った時に、夢から醒めました」
「…そう。そういう事だったの」
「不思議な話ですね…。慶子先輩も転ぶわずかの時間に、むかしの彼の夢を見たんでしょうかね」
「―多分、きっと、ね。明日、慶子さんと勤務が一緒だから、確かめてみるわね。…ちょい質問しにくい話題ではあるけど」

 雰囲気を変えようと、瑞枝は無理矢理の笑顔を作る。その笑顔を見た茜は、緊張が解けたのか、いつもの表情に戻って呟いた。

「―ん、待てよ」
「どうしたの?」
「―という事はですよ」
「茜、あなた、また妙な事を思いついたでしょう」

 茜の顔は瑞枝がよく知っている「そういう時の表情」になっていた。

「てへへ…。瑞枝先輩がその場所で転んだら、元彼の夢、見るんですかね…転んでるほんの数秒の間に…」
「!」

 悪戯っぽく笑って言った茜の指摘に、瑞枝は驚きながら納得し、そして興味を持った。

「そうね。そういう事になるわね」
「え?―先輩、冗談ですよ、冗談」
「―試す価値、あると思わない?」

 ちょっと先輩、何、冗談を真に受けてるんですか…と止める茜を交番に残し、瑞枝は外に出た。慌てて茜は後を追う。瑞枝は早足で「例の場所」に向かっている。
 目的の場所にたどり着き、―茜、よく見ていなさいよ、と言おうとして瑞枝は交番を振り返った。

「あら?」

 交番を出た茜が瑞枝の方に向かっていた。向かってはいたが止まっていた。立ち止まっていたのではない。瑞枝を呼び戻そうと右手を前に出して駆け寄る姿勢のままで、止まっていた。まるでストップモーションのように静止していた。

「まさか…」

 ―まさか、既に私は「夢の中」にいるのか?今、静止した茜の目には、私が転びはじめる瞬間が映っているのか?
 もう「それ」は、はじまっているのか?

「その通り」

 瑞枝の背後で、聞き覚えのある、かつて付き合っていた男の声がした。


 
  >>NEXT>>  



OPENING introduction


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