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「ミーシャのことを新聞にねぇ…」
「はい。由香さんはどう思います?」
昨日、瑞枝が思い付いたアイディアについて、茜は由香に尋ねてみた。今、ふたりは茜が淹れた苦めのコーヒーを飲んでいる。由香は、寝ているミーシャにそっと視線を向けた。
「悪くはないと思うけど、そう都合よく取材してくれるものなのかしら」
「そりゃもう!任せてくださ・ぃ…」
自分の交際相手が新聞記者である事を由香には伏せていたので、茜の言葉は語尾で失速した。
「任せてって、茜、何か伝手でもあるわけ?」
「あ、いや、その…なんていうんですか…ちょっとした知り合いが新聞社に…」
「へぇー」
由香は、茜のうやむやな返答にもあっさりと納得し、感心しはじめた。
「すごいね、茜、マスコミに知り合いがいるなんて」
「あ・いぇ、その…大した知り合いでもないから…てへへ」
「いや、すごい事だと思うよ、それは」
持ち上げられている雰囲気が茜にとっては、くすぐったくもあり、そして、申し訳なくもあった。―由香さん、買いかぶりすぎですよ、と。
なにしろ、瑞枝に新聞記者との交際を話した時には、付き合い方を考えるように、やんわりと釘を刺されているのだ。
茜の笑みは苦笑いと照れ笑いの間を往復する。由香は、そんな茜の表情を理解しないまま屈託のない笑顔のままで言った。
「新聞社の知り合いって、どんな人?」
「え?あ、ぅ・はぃ…そのぅ」
茜は言いよどみ、由香の笑顔に対して―罪がないって事もひとつの罪だわ、と思いながら、必死で頭の中で「よい回答」を探した。だが、そう簡単に上手い答が見つかるはずもなく、結局は開き直った。
「いや、実はですね、ほら…交番の発表記者会見の時に知り合ったんですよ」
「あらあら…」
―知り合いを作るのがなんて早いのかしら、と由香の目が丸くなる。
「由香さん、興味あります?マスコミ関係」
「?」
茜はマグカップを持ったまま、椅子ごと由香のそばに移動し、肘で彼女を突付きながら、歯を見せて笑った。
「にひひひ…合コンですよ、合コン!記者仲間の間では、由香さん、この交番の一番人気らしいですよ」
「はぁあ?」
由香の声が裏返った。
「あら?嬉しくないんですか?」
「―ん、いや、嬉しいとか嬉しくないとかっていう問題じゃなくってさ…」
茜は、そんな由香の反応に―こういう話題に戸惑う辺りが、男に対する人気の高さの秘密なのかぁ…と思いを巡らせながら熱いコーヒーを口に含む。
「んー、合コン…かー。悪いけど、今は興味ないなぁ」
そして、その返事を聞いた茜は、由香には既に交際している男性がいるのだ、と早合点した。
「あ、由香さん、今、付き合ってる人いるんですね。―でも、彼氏いたって合コンぐらいだったらOKなんじゃないんですか?」
「いやいや、そうじゃないのよ」
「ん?彼、そういうの厳しいんですか?」
「いや、だから、そういうのじゃなくって…」
そんな由香の反応は、茜の誤解をさらに深く進行させる。―由香さんは、好きな人をとても愛しているから、彼に対して申し訳なく思ってる。だから、私の誘いに興味がないって言うんだ…。そして、再び、由香が記者たちの間で一番人気だという理由を垣間見た気がした。―こういう所が男はいいんだろうなぁ…私だってそう思うよ、まったく。
「ところで、由香さんの彼ってどんな人なんですか?」
「だからそうじゃないって言ってるじゃない。今、私、付き合ってる人なんていないってば…」
「え!ありゃ?す、すみません。今は興味がないって言うから、私、てっきり…」
そう言って茜は不思議そうに首を傾げた。由香も同じように首を傾げて茜に言う。
「合コンに興味がないって、そんなに変かしら」
「んー、いやまぁそのう…今は異性より仕事、ですか?」
「やだなぁ、私だって男性に興味ないわけじゃないわよ」
今度は別の「勘違い」が茜に生まれる。―それは、ちょっぴり哀しい勘違い、だ。
「え。―じゃ、やっぱ、相手が新聞記者っていうのがよくないんですか?」
「ん?」
「瑞枝先輩に新聞記者と付き合ってるって話をしたら、職業的にまずいかもって言われちゃって…」
交際相手の職業が恋愛の障壁になるとは考えた事もなかった由香は、茜にそう言われて困惑した。マグカップに視線を落とした茜の表情が、とても寂しそうに見えた。
「んー、まぁ、瑞枝が言いたい意味も解からないでもないけど、キチンと付き合ってれば相手の職業が何であれ差し支えないと思うよ」
そして、茜を慰め、そして励ますつもりで、こう付け加えた。
「ローマの休日って映画あったじゃない。ヘップバーンの王女様が身分を隠して新聞記者と恋に落ちるお話。―見てない?」
―ん、あれ?こういう話、いつかどこかであったよなぁ?いつだっけなぁ…どこでだっけなぁ。
「んー、題名は知ってるんですけど見たことないんですよ、その映画。―で、最後に二人は結ばれるんですか?」
「んぐっ」
返事に詰まり、コーヒーが喉に引っかかった。
「ン…ゴホゴホ…ん、いや、職業や身分なんて恋愛には関係ないって…ゴホゴホ…そ・そういうお話…ケホンケホン」
「大丈夫ですか、由香さん」
「ん、大丈夫大丈夫、ケホケホ…ラストが知りたかったら機会がある時に見るといいわよ…ケホ」
そして、由香はむせながらも、茜に誘いを断った理由を話すことにした。
「さっきの話、興味がないって言ったのは、実は、心の中に、今、気になってる男性がいるからなのよ。ただの片思いなんだけどね…」
「!」
茜は、そういう事だったのか、と驚きながらも、由香の性格を考えながら納得し、またもや「一番人気の秘密」を思いつつ―ハイハイ、どーせ私にはそーゆーのは無理ですよ、と心の中で交際相手の新聞記者に毒づいた。
そして、茜は、そんな由香が密かに、そして健気に思いを寄せる相手の男性が気になりはじめた。
「えー、誰なんですか?私も知ってる人ですか?」
急に瞳を輝かせながら、瑞枝と同じ質問を訊いてきた茜に―あ、しまった!話した相手が悪かったか、と由香は少しだけ後悔した。
「内緒」
「えー、教えてくださいよー」
「ダメ」
「どうしてですかー」
「だって茜に教えたら、明日には署内中の噂になってそうだもん」
「ひどーい、由香さん、私の事をそういう風に思っていたんだぁ!」
茜は両手で顔を覆って俯いた。
「うん、思ってるよ。―何、うそ泣きしてるの?」
「ぐっ!」
由香の反応に、これ以上質問してもきっと無駄だと思い、茜は自信に満ちた表情を浮かべ大きく胸を張って話しはじめた。
「ん、わかりました。これ以上は聞きません。そのかわり、由香さんに、片思いに効くいいおまじない教えます」
「?」
「片思いの人が夢に出てくるおまじない。興味ありません?効くんですよ」
「…へぇ、そういうのがあるの?―でも、ほんとうに効くのかなぁ?」
「これが効くんですって!高校時代にすっごく流行ったんですよ!騙されたと思って、私のやる通りにやってみて下さいよ」
「うんうん」
「まずですね、両腕を水平に真っ直ぐ上げるんです。前にならえ、みたいに」
と、茜は両腕を上げた。由香は半信半疑でそれに従った。
「そして、掌を前に向けて、指に力を入れて思いっきり伸ばして…」
「こう?」
「ですです…そして、眼を閉じて相手の男性の事を考えて下さい」
由香は頷いて茜の言う通り、駅前交番の早坂の姿を頭の中に思い描いた。
一昨日、瑞枝に早坂の事を打ち明けたからなのか、由香は、彼に対する気持ちが以前にも増して、よりいっそう大きく膨れたように感じていた。彼の事を思い浮かべるだけで幸福感と、そして切なさがあった。
「それでですね…好きな男性の名前を小声で三回呟くんですよ」
「うん…」
「では、どうぞ」
「…早坂さん・早坂さん・早坂さん」
「あ!早坂さんなんだ!」
「え?」
目を開けた由香の前に茜の悪戯っぽい笑顔があった。
「えっへっへっ」
「あー、あかねーっ!」
耳までもが真っ赤に染まっているのが自分でわかった。恥ずかしさを隠すように由香は頬を膨らませて席から立ち上がった。
「もういい!仮眠する!ごちそうさま!片付けもよろしく!」
そして、コーヒーカップを残したまま仮眠室へと引っ込んだ。
「あー、由香さん、ごめんなさい!そういうつもりじゃなかったんです」
茜は由香の背中にそう声を掛けたが、振り返ってもらえなかった。
「まいったなぁ」
給湯室でコーヒーカップを洗いながら茜は大きなため息をついた。ため息の理由は由香を怒らせた事だけではなかった。―茜は、由香が羨ましいとも思っていた。
もしも、おまじないの話を試された時、私は一体、誰の名前を三回呟くのだろう?たったひとりだけ夢の中で逢えるとしたら、私は一体、誰の名前を呟くのだろう?
―今、付き合ってる新聞記者?―むかし付き合った彼の中の誰か?
いや、きっと、多分、どちらも違う。そこまで大切に思える人なんて、誰の名前も思い浮かばないや…。―私には、夢の中で逢いたくなるほど好きな人っていないんだなぁ…。
―由香さんは、いいな…
ふと昨夜の幻が頭に浮かんだ。
…お父さん、お父さん、お父さん。
そう三回、独り言で呟き、そして、そんな自分に苦笑した。
「さっきは怒ってゴメン」
数時間後、仮眠室から出てきた由香は先ず茜に謝った。
「あ、いえ、私こそ、すみませんでした…」
そして、照れくさそうに笑いながら言った。
「ありがと。茜」
「はい?」
「本当に早坂さんの夢、見れちゃった…」
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