人警 闇
  Scene04
 

  #01 瑞枝と慶子

  「―と、いう訳なんです」

 瑞枝が慶子に語り続けた長い告白が終わった。最後に瑞枝は「はぁ」とひとつ深いため息をついて、やっと手元のマグカップに口を付けた。冷めてしまったコーヒーは、さすがの慶子が淹れたものとはいえ、ほんの少し胃に重かった。
 慶子は、交番先約100メートルの歩道上で瑞枝と茜に起こった出来事を、最初は目を丸くして、そして、その後は、丸くなった瞳を点のようにして聞いていたが、次第にその内容を自分の幻視とダブらせながら、いつもの慶子の眼に戻り、時には軽く頷き、話に静かに耳を傾けつづけた。
 告白を聞き終えた慶子は「―そう…そうだったの」と、そこまで言ったものの「―実はね」という言葉がつづかなかった。その台詞につづく自分の話をどう語ったものか、見当がつかないでいた。
 重い空気に息が詰まった。その詰まってしまった息を、大きなため息にして吐き出した。「ふぅ」という音が思っていたより大きく交番内に響いたように聞こえ、詫びるように、ひと言「ゴメン」と瑞枝に言った。
 そんな慶子の様子に瑞枝が返す。

「あの…詳細までは無理に聞きません…私も、言いたくない部分は言っていませんから…。ただ…私が知りたいのは…その…あの時の慶子さんも…その…」

 そう慶子に問いかけて、瑞枝は言いよどんだ。言葉を慎重に選んでいるのだな、と慶子は察する。ポーカーフェイスの瑞枝の態度が、私にそこまで悟らせてしまうというのは珍しのではないか―と思う。
 そんな思いが慶子の背中を押した。

「うん。その通りだよ。私も、あの時、確かに…夢を…見た」

 そう言って、天井を仰ぎ見た。いつもの天井だった。だが、白いと思っていたはずの蛍光灯が、今夜はやや黄味を帯びて彼女の目に映った。その黄味がかった灯りを見ながら、大きく深呼吸をした…深呼吸のつもりだったが、それはやはり、大きなため息のようにも思えた。深呼吸のようなため息なのか、ため息のような深呼吸なのか、わからぬままに慶子は瑞枝に話した。

「私が見たのは…昔の彼に抱かれながら…それが…死体に変わって…その死体に抱かれる…。そんな…夢、よ」

 俯いた。

「…やっぱり」

 視線を下に向けた慶子を見ながら、瑞枝が小さな声で呟く。そして瑞枝は壁を見た。その壁は例の交差点の方向にある壁だった。

「あそこには…まるで怪談のようですけど…悪夢を見せる何かがあるんですかね」

 瑞枝はそう言って、背中にぶるりと小さな震えを感じた。
 その手のものは信じない瑞枝だったが、さすがに自分の周りに不思議な出来事が重なるというのは一種の「恐怖」だった。
 背中の震えが瑞枝の首筋を這い上がり、頭をじんと痺れさせる。その悪寒を振り払おうと、無理矢理、笑顔を作って、やはり交差点側の壁面を見つめている慶子に言った。

「こういう経験を実際にしてしまうと、何かあるって思いますよね…。こう言っては何ですけど、こっちは駅裏ですからね」
「えっ?!」

 壁を見たまま黙っていた慶子が、小さく叫んで、瑞枝を見た。
 瑞枝の言葉を聞いた慶子の脳裡に響いたのは、上司の東署地域課々長の声だった。

 ―君ら、エキウラって言葉は禁句だからな。住民には使うなよ。特に北口商店街の連中にはな。まぁ…アレだ、アレ。「エキウラ」は、差別用語みたいなモンだ。若宮三丁目は「駅北」だ、エキキタ。

 そして、慶子は、連鎖反応のように、別の言葉を回想する。

 ―でも、エキウラだもんねぇ。

 母の声だった。さらに回想の中で、時間が少しだけ遡る。母親と見ているテレビ画面のコマーシャル。「美しく青きドナウ」の調べに美声の男性ナレーション。

 ―今、若宮駅北口に魅惑の暮らしがスタートする。羨望の駅前生活。ルネサンス・ノース・ワカミヤ。近日、モデルルームオープン!

 今から15年ほど前、昭和が平成に変わって数年後の記憶だった。過剰なまでの付加価値を武器にしたマンションが、その価格帯で「億ション」と呼ばれていた頃の記憶だ。
 当時、大学受験を控えた慶子にとって「ルネサンス・ノース・ワカミヤ」は憧れの住まいだった。慶子は勉強の合間に一人暮らしを夢想した。東京の大学を受験するというのに、なぜか「ルネサンス・ノース・ワカミヤ」を思いながら、その広すぎる間取りに好みの家具を並べて悦に入った。手軽だが素敵な気分転換だった。
 高校三年生の慶子にとって、現実からは遠い遠い夢の暮らしが夢想の中にあった。

 そんな馬鹿な!―と若宮三丁目交番の慶子は思う。
 そのマンションは、過去の記憶の中にしか存在しないはずだ。

 県と市が音頭を取り大手ゼネコンが肩入れした若宮駅北口整備事業が、いわゆる「バブル崩壊」で中断すると同時に、マンションも完成する事なく計画半ばで頓挫してしまった。若宮駅北口の整備計画は、自治体から「若宮平成ルネサンス構想」と名付けられており、その名称の一部をお墨付きのように冠とした高級マンションが建設途中で放棄された姿は「バブルの象徴」として、当時の新聞の地方面を賑わせた。

 ―まさかまさかまさか。
 幻視の中でミーシャが逃げ込んだ建造中マンションのイメージが甦った。

 その疑念を確かめようと、慶子はスチールラックに駆け寄る。彼女の指先はラックに収められた何十冊というバインダの背表紙を隅からなぞった。―そして、その指先が一冊のバインダで止まった。

 その背表紙には「若宮三丁目交番管轄地域図(旧)」のラベルがある。

 交番には、稀に、かつての記憶を頼りに地理案内を求める者が訪れる。―この近くに、時計屋さんがあったはずなんだけどねぇ…探してみたんだけれど、見つからなくってねぇ…。
 そんな時に、取り出す地図だ。若宮三丁目交番開設以来、各年度ごとの周辺地図がファイルされているバインダだ。

 ―その時計店は3年前に引っ越したみたいですよ。移転先は残念ながらここでは解かりかねるのですが…。

 そう返答するための地図だった。移転先が実際に解からない時もある。「個人情報保護法」施行後は、解からないと答えなくてはならない場合も、数多く、ある。

 慶子は1990年代初頭のファイルをめくり、交番前の歩道に当たる場所を指先で探す。当時の交番前の道路は、今より狭く、その分、区画整理前の居住地域が現在の歩道上にある。
 既に慶子の顔は蒼ざめている。
 そんな慶子の顔色には気付かず、瑞枝が背後から地図を覗き込んだ。

「―さすが、慶子さん。その地図には気がつきませんでした。あそこには、昔、お墓でも?」

 そう言って、瑞枝は、慶子の指先に視線を移した。

「えっ?!」

 小さな叫び声が、今度は瑞枝の口から漏れた。その声に慶子は驚き、振り向く。

「ルネサンス・ノース・ワカミヤ…」

 瑞枝は、慶子に向かってではなく、独り言のように、そう呟いた。半開きになった唇が色彩を失っていた。唇だけではない。瑞枝の顔も白くなっていた。
 尋常ではないその様子に、慶子は震える声を落ち着かせながら訊ねる。

「み・瑞枝…あなた、このマンションの事、知っているの?」

 瑞枝の顔が蒼白のまま、静かに頷く。

「知っているも何も…。わ・私たちの家族…当時のバブルで…父の仕事が上手くいっていて…。そ・そこに引っ越すはずだったんです。」

 その瞳は、慶子の指先…地図の上にある「ルネサンス・ノース・ワカミヤ(建設中)」の文字の上に固定されている。
 



  #02 慶子と由香

  「若宮新都心構想で、交番の周りも再開発が進んでるけどさ、今から15年位前、バブルの頃のこの辺ってどんなだったか知ってる?」

 慶子は由香に注意深くそう話しかける。当時、小学生だった由香が―しかも実家が市外にある彼女が、まさか「ルネサンス・ノース・ワカミヤ」を知るはずがない、と思いながら。

「その頃って、私、小学生ですから…んー、あまり記憶にないですね…」

 案の定、由香は小さく首を傾げながらそう答え、その返事に、慶子は心の中でホッと胸を撫で下ろした。
 自分が夢の中で見た…いや、見せられた、幻の舞台となった建造中のマンション…それは、バブル崩壊の象徴としてローカルニュースで繰り返し報道された「ルネサンス・ノース・ワカミヤ」のシルエットだった。そして、かつてのそのマンションの建設予定地で、自分が…茜が、そして瑞枝が幻視を体験した。
 さらに、瑞枝も「ルネサンス」を知っていた。
 ―当時の瑞枝たち…羽田家の引越し計画は、バブル崩壊で父親のビジネスが失速したため、マンション完成が頓挫する前に流れてしまった、と昨夜の瑞枝は、まるで自分の恥を告白するかのように話した。

 年齢的に、由香や茜の記憶の中に「ルネサンス・ノース・ワカミヤ」があるとも思えない。しかし、もしも彼女たちにも「ルネサンス」に関わった思い出があるのなら、そのマンションは、この交番に勤める4人の婦警にとっての共通の記憶だ。

 そう思案しながら由香を見ると、彼女はいまだに慶子の質問に首を傾げたまま小学生時代の記憶を探っているようだった。そんな由香の様子に、慶子の胸が少しだけ騒いだ。

「ミャァ…」

 ミーシャが一声鳴いて、慶子の胸騒ぎを中断させた。
 だが、子猫に視線を移した慶子に、昨夜の瑞枝が語った別の台詞が浮かんだ。

 ―ミーシャが化け猫かもしれない、とも思っていたんですよ。

 それを聞いた慶子は、まさかと思う半面で、その可能性も否定できないでいた。
 幻視の理由としては「誕生する事なく最期を迎えたマンションの怨念」よりは「猫の仕業」と考えた方が「わかりやすい」と思った。
 逃げ出したミーシャを追って、非現実の世界に誘い込まれた慶子だからこそ、特にそう思えるのかもしれなかった。
 だが、子猫の丸い可愛らしい瞳を見ると、そんな「邪推」も慶子の中で瞬間的に打ち消される。

「お腹すいた?」

 と、由香が話しかけたので「え?」と慶子は反射的に声を出した。

「いやだ、慶子さん。ミーシャに言ったんですよ、ミーシャに」

 由香が笑った。そして、笑顔を曇られた。

「今日の慶子さん、心ここにあらずって感じですよ…。―何かあったんですか?」
「―ん?いや、ゴメン。大丈夫…なんでもない」
「具合でも悪いんじゃないですか?」
「ちょっと考え事をしていただけだから…心配ないよ」

 慶子らしからぬ態度に由香は少々居心地の悪さを感じた。それは、慶子に対してだけではなく、様々な局面で、他人にも持ってしまう居心地の悪さだ。そして、その感覚を感じる度に、その原因は相手にではなく自分自身にあるのだ、と由香は思う。
 自分に対してそういう態度になってしまった相手は、きっと、こう思っているのだ。

 ―まだ、由香には話さない方がいい。

 少し悲しいけれど、今の私じゃぁ、仕方ないのかなぁ。人の目には、ちょっと頼りなく映ってしまうっていうのは、私が一番知っている事だもの…。大切な事をすぐに相談してもらえるように頑張らなきゃ…。

「夜食、買ってきますね…ミーシャの分も一緒に…慶子さんは何がいいですか?」

 由香はそう言った。
 自分の不甲斐なさに直面しそうなこの場から離れ、少しの時間だけ一人になりたかった。―だが、その瞬間に慶子の顔色が変わった。そして、慶子は慌てて言った。

「あ、待って、由香!夜食は私が買ってくるから…由香はここで待ってて」

 そして、狼狽を隠すかのように作り笑いでこう付け加えた。

「ちょっと、今日は自分の好きなものを物色したい気分なのよ」

 そう言った慶子だったが、白々しい笑顔になってしまったな、という自覚があった。ロッカーから出したブルゾンを制服の上に羽織りながら、余裕を失ってしまった自分に心の中で舌打ちをし、慶子はそそくさと交番を後にした。

 12月の夜。
 キンと張り詰めた空気の寒空の下、コンビニエンスストアに向かう途中で例の歩道上に差しかかり、慶子は立ち止まる。

 ―何も起こらなかった。

 自分たちが転んでしまった場所の敷石を靴の先で何度か蹴るように踏んだ。

 ―しかし、やはり何も起こらなかった。

「私たちの中で…由香は…由香だけは、まだ幻を、見ていないですよ」

 昨夜の瑞枝はそう言った。

 確かに今日までの様子を見る限りでは、まだ由香は幻視を体験していないようだ。
 慶子は交番を振り返る。―まるで、交番の中にいる由香を見つめるかのように振り返る。建物の中にいる由香を思う慶子の心に、さらに瑞枝の声が聞こえる。

「―私たちが見た幻は…自分自身の…嫌な面…ネガティブな…負のイメージだと思うんです。普段は意識しない…心の奥底にある自分自身の…なんと言うんでしょうか…」

 瑞枝は、幻視を表現する言葉を考えるように俯いた。そして、下を見たまま言った。

「闇」

 瑞枝の視線は下を向いたままだ。

「心の中の闇…」

 慶子の立つ場所から100メートルほど先、軒先に丸いランプを赤く灯した若宮三丁目交番がある。その建物を凝視する慶子の心の中に、昨夜の瑞枝の声は響きつづける。

「―由香が…もしも由香が、そんな心の闇を見せられてしまったら…」

 ―ゴクリ。
 それに続いた瑞枝の言葉を思い出し、交番先100メートルの歩道上で慶子は生唾を呑む。
 
「―由香は…壊れちゃいますよ」

 もはや慶子の目には、交番は威厳も何もない単なる小さな小さな四角い建物としてしか映らない。
 



  #03 由香と瑞枝

  「最近の慶子さんって…少し、変わったって思わない?」

 と、由香に話しかけられた瑞枝の背中に冷や汗が滲んだ。
 慶子は幻視の翌日、由香との勤務だった。さらに、昨日は「ルネサンス・ノース・ワカミヤ」に動揺した直後の由香との勤務だった。さすがにお人好しの由香とはいえ、慶子の態度の変化に全く気がつかないわけではなかろうと、瑞枝自身も若干の不安を抱えながら今日の勤務に就いた。

「昨日の慶子さん、何か仕事以外の考え事で頭の中がいっぱいって感じだったのよ」
「え?そうなの?確かにそれは慶子さんらしくないわねぇ」

 そう返事をしながらも瑞枝は思う。―そりゃそうだ。交番勤務の4人の婦警のうち3人が不可思議な体験をさせられているのだ。そして、4人目の由香には悪夢の幻視を体験させてはいけないと、自分も慶子も強く思っている。由香に対する慶子の不自然な態度ももっともだ。昨夜の慶子は由香に何らかの疑念を抱かせてしまったのだろうか。
 もしかすると、今、この場で由香から幻視について何か問われるかもしれないと、瑞枝は覚悟した。
 だが、瑞枝の想像に反して、由香は嬉々とした笑顔になっていた。

「前に、慶子さんが突然、むかし付き合っていた男性の話をしたって言ったじゃない」
「あ。う・うん…そうだったね」

 瑞枝は心の中の動揺を隠しつつ返事をした。―あれ?なぜ心配の種である由香が、こんなに嬉しそうに慶子の態度の変化を話すのだろう。
 そう思う瑞枝に、さらに由香はニッコリと笑う。

「ねぇ、何かあるって思わない?」

 ―あ、そうか!と、瑞枝はやっと由香の勘違いに気付き、さらにその勘違いに安堵する。

「あー、そうねそうねそうね…何かあるのかしらねー」

 由香に相槌を打ちながら無理矢理、笑った。

「もしかして…結婚…とかかなぁ?」
「あ・はは…うん…そう、かもね」

 ―だよな、と瑞枝は思う。
 あの場所、あの悪夢の話を知らなかったら、そっちの方向に考えるのが自然かもね。素直な性格の由香なら尚更だわ。ここは話を合わせとくか。

「結婚、とまでは解からないけど…その男性の事、慶子さん、気になっているのかもね」
「だよねー。上手く行くといいよね」

 ―はぁー、もう。こっちがあなたの事、どれだけ心配してるか知らないで…まったく呑気だなぁ―あなたも悪夢を見せられるかもしれないっていうのに…と、そこまで思って瑞枝はハッとする。
 3人が見た悪夢には共通点があった。―それは…昔、交際した男性に抱かれる場面からはじまる、という事だ。
 その事を思い出しながら、瑞枝は由香を見た。

 ―由香、処女のはずだよな…。

 では、処女の由香が見る悪夢の導入部とは一体何なのか?
 そう思い、瑞枝は由香と知り合ってからの3年間を回想する。

 同期の婦警たちと異性の話題になった時、由香は決まって話題の中心から上手く外れ、傍観者の笑みになって、困ったようにただただ頷いていた。
 ―由香は処女ではないのか、というのは、誰もが気付いてる暗黙の了解だったな…。そして、自然とその手の話題を由香に振るのは仲間内でのタブーになったんだったな。

 ―守ってあげたいってタイプだろ、彼女。

 瑞枝に対して、由香をそう評した男性警察官もいた。

 ―男の俺もそう思うし…その上、女の君にも、そう思わせてしまうタイプさ。だろ?

 皮肉の笑いを浮かべてその男性警官は瑞枝の相槌を促した。瑞枝は彼の言葉に黙って頷くしかなかった。

 ―婦警をつづけようって気ならさ…苦労するかもな。彼女も…そして…周りもね。甘やかしちまうんだ…知らず知らずのうちにさ。

 瑞枝は、その男性警察官に同期の由香を過小評価された気がして悔しかった。当時のその悔しさを思い出した瑞枝は、目の前にいる由香に訊ねる。
 ―早くそういうのから卒業して欲しいな、と思いながら。

「ねぇ、由香。慶子さんはともかくとして、例の早坂サンはどうなのよ?」
「え?―ど・ど・ど・どうって?」

 突然の質問に、由香は頬を赤くしてうろたえた。

「クリスマスも近いんだからさ、何とかしてみればって事よ」
「え・えっ!えー!」
「そういうの由香が苦手なのもわかるけどさ…。彼も不得手そうだから、由香から誘ってみるのもいいんじゃないの」
「うーん…そうかなぁ」
「もぅ!煮え切らない返事だなぁ…。せっかく身近に気になってる男性がいるんじゃない。頑張ってみるのもいいと思うよ」
「…やっぱり瑞枝もそう思う?」

 その言葉を聞いた瑞枝は、由香を「もう一押し」してみようと決めた。こういうのも「守ってあげたい」って感情なのかしら、と思いながら。

「食事に誘うだけでも、やっぱ緊張する?」
「うん…。あのさ…恥ずかしいけど…そういうの…今まで…私、なかったから」

 由香が俯いた。

「そっかー。由香が不安に思う気持ちもわかるけど、あんまり特別に考えすぎないで、ホラ、休みの日に友達と食事に行く、くらいの感覚でさ…私をよく食事に誘ってくれるみたいにさ…ね」
「―う…うん」
「相手が男性だと…そう簡単に行かない、かな?」

 由香の反応を窺いながら自分自身の言葉にフォローを入れてしまい、瑞枝は、これも「甘やかしている」って事かしら、と思う。

「自分からっていうのはさ、私には少しきついかも…。向こうから誘ってもらうとね…嬉しくなってハイって言えそうなんだけど…」

 由香はそう言った後、小さく叫んだ。

「あ!」
「ん?!どうしたの?」

 唐突な由香の声に、瑞枝は少し驚いた。

「思い出したんだ…小さい頃、男の子とふたりきりでデートした事」
「え?」
「でも、あれをデートって言うのかなぁ」
「えー、なになに?そういう事があったの?」

 由香の意外な返事に瑞枝の期待が膨らんだ。

「うん。相手は近所の幼なじみの男の子…カズ君っていう、すっごい腕白小僧でさ。強引に誘われて…断れなくってさ…」

 昔話の思い出に由香がはにかむ。
 ―だが、瑞枝の思いとは裏腹に、その膨らんだ期待は、次に由香が発した言葉で、悪い予感に変わった。

「まだ小学生だったんだけどね、親に内緒で電車に乗って若宮まで出かけたのよ。大冒険だったんだよ」
「わ・若宮に?」

 ―えっ!由香が小学生時代の若宮の話?

「うん。―あのね、昨日、慶子さんに、小学生の頃の若宮の事を訊かれてさ、何か引っかかってたんだけど…あの時の事だったんだぁ…」

 瑞枝の不安に気付かず、由香は、はしゃいだ笑顔のままで話している。

「当時の私たちには電車で若宮に行くだけでも大冒険だったんだけどさ…」
「…う・うん」
「瑞枝は知らないかしら?―工事が中止になったままのマンションがあってさ…その頃、かなり有名だったと思うよ…」

 それを聞いた瑞枝は息を呑んだ。―悪い予感は当たった。顔から血の気が引きはじめている。

「―私たちはね、オバケマンションって言ってたんだけどね…そこを探検しようって忍び込んだのよ。―ね、大冒険でしょう…。懐かしいなぁ…カズ君、今頃、どうしているかしら」
 



  #04 瑞枝と茜

  「ふっふっふ…」

 瑞枝を前に不敵な表情で茜が笑う。

「どうしたのよ、茜…気持ち悪い…」
「ふっふっふ…」

 茜は笑い続けながら制服の内ポケットにゆっくりと左手を差し入れた。

「ジャーン!」

 そう言って、茜は、不敵な笑いを自信たっぷりの笑みに変え、瑞枝の目の前へ内ポケットから出した手を伸ばした。
 茜の手には「家内安全」と毛筆で書かれた御札が握られていた。瑞枝の目が点になった。

「は?―何、それ?」
「へ?『何、それ』じゃないですよ、もぅ!」

 瑞枝の反応に茜は唇を尖らせる。

「昨日の休みに神社まで行って買って来たんですよ!―もっと感心してくださいよぅ!」
「あ…う・うん、いやいや…ゴメンゴメン」
「やっぱ、私たちが悪い夢を見せられたってゆーのは、コレはもー何かあるな、と思ってですね…」

 そう言いながら、茜はキャスター付の椅子を交番の入口に向けて動かしはじめた。

「ああいうのには、もう、こういうので対抗するしかないですよ」

 ―ああいうの…って何なのよ…しかも、こういうのって…御札なの?

 そう言葉に出してツッコミそうになっている瑞枝に目もくれず、交番のドアの前に椅子を据えた茜は、その上に乗った。

「瑞枝先輩、すみませんけど、椅子、押さえててもらえますか」
「あ、う・うん…ゴメン、気がつかなくて…」

 茜のペースになっていた。
 茜は椅子の上で背伸びをし、交番入口上部の壁に御札を置き、椅子から降りながら、瑞枝に向き直った。そして、再び、上着の内ポケットに手を入れた。

「ジャジャーン!」

 そう言って差し出された茜の掌には、透明の球体が5つあった。

「なにそれ?ガラス玉?」
「あー、もぅ!瑞枝先輩、今日は冴えてないなぁ…。水晶玉ですよ、水晶玉!」
「…あ。ま・魔除け?」
「ですですです。―この小さいの3つは私と慶子先輩と瑞枝先輩の分。机の上に置いて下さいね」
「ん?由香のは少し大きいの?」

 茜の掌に残ったふたつの水晶玉は瑞枝たちのものより一回り大きかった。

「ハイ。―由香さん、例の悪夢をまだ見てないっぽいでしょう。だから、少し大きめ」
「で、ふたつあるの?」
「あ・いやいや、もうひとつは、やっぱり悪夢を見ていないっぽいミーシャ用です」

 そう言って茜は「ミーシャの場所」のダンボールの隅にそっと水晶玉を置いた。ミーシャは前足で不思議そうに水晶玉に触り、玩具のように左右に数度コロコロと転がし、それに飽きると、上半身をいっぱいに伸ばして「ふぁぁ」と大きな欠伸をした。

「さ・ら・に!」

 またもや、茜が得意げな表情で瑞枝を見た。

「ま・まだあるの?」

 今度、瑞枝に差し出された茜の指先には水の入った小瓶があった。

「せ…聖水…なんて言うんじゃないでしょうね」
「あ!鋭い鋭い!ですですです。昨日、神社の帰りに教会にも行ったんですよ」

 そんな茜に、瑞枝の頬は思わず緩んだ。

「うーん。…節操ないぞ、と言いたいところだけど…実は、ちょっぴり感心してる。立派な行動力だ…うんうん」
「てへへへ」
「で、それをどうするの?」
「ぃゃ…まぁ、それが問題で…」

 茜の表情が困惑へと変わった。

「明日、由香さんとの勤務だから、隙を見てこの聖水を掛けようと思ってるんですけど…いい方法が思い浮かばなくて」

 それを聞いた瑞枝は頭を抱えた。
 茜に聖水を掛けられてカンカンに怒っている由香の姿が頭に浮かんだ。
 ダメだこりゃ…。

「そりゃ、茜、出来っこないよ。墨汁で由香の体にお経を書くようなもんだわ」
「そうそう…耳まで忘れずシッカリと、って…もー、なんでギャグにしちゃうんですか!」
「いや、ゴメンゴメン…だって、あまりに無理っぽいんだもの…」
「むー、でも、お経のアイディアもいいですよね…お経だから仏教のパワーですよね…」
「おいおい…茜…半分本気かい!」
「半分じゃなくて100パーセントですけど」
「むむむ…」

 ―ま、確かに「ああいうの」には「こういうの」だけれどもなぁ…と、そう考えて瑞枝はピンと閃いた。

「ねぇ、恋愛のおまじないで好きな人と結ばれる水って言ってみたらどうかしら?」

 駅前交番の早坂の事が気になっている今の由香だから上手く引っかかるかも…。

「いや…その手は、この間…う!」
「え?―この間って何?」

 やばい!

「茜…あなた、前に由香に恋のおまじないだって言って何かやったわけ?」
「ぐっ」

 茜を見る瑞枝の瞳が次第に冷たくなっていく。

「ふぅん―そう。で、結局…出まかせがばれて…怒らせたワケね…」
「うぐぐ…瑞枝先輩…鋭すぎ」
「もう、知らない!―聖水の事は、自分で考えなさい!」
「くー。ごめんなさいごめんなさい…謝りますから、瑞枝先輩も考えてくださいよう。親友の由香さんを救うと思って…」
「まったく…あなたってコは…こっちの弱いトコ突いてくるなぁ」

 しかし、よいアイディアも浮かばないままに時は過ぎる。過ぎる時間を持て余し、瑞枝は「例のマンション」の事を、今のうちに茜に確認しておこう、と思った。

「ねぇ、茜、少し気になってる事があるんだけれどね」
「え?はい、何でしょう?」
「茜がさ、まだ幼稚園くらいの頃だと思うんだけどさ…ルネサンス・ノース・ワカミヤってマンションがこの辺に建つ予定だったんだけど…知ってる?」
「ん?」
「慶子さんも、私も、そして由香も、そのマンションの思い出があるのよ…。そしてね…その建設予定地で、私たちは転んで、例の幻を見せられたのよ」
「え?」
「だから…もしかして、茜にもそのマンションの記憶があるのかなって思ってさ」
「ぅぅん…」

 茜は神妙な顔になって考え込んだ。

「茜は小さかったからマンションの名前の記憶はないかもしれないけど、そのマンションはね…」

 そう説明しかけた瑞枝に茜が口を挟んだ。

「知ってますよ。―ルネサンス・ノース・ワカミヤ。名前もハッキリ憶えています。バブル景気ってヤツに乗っかって建てられてた超高級マンションでしょう」
「?!」
「父が、そのマンションの建設現場の作業員でした。小さな土木会社に勤めていたんです。マンション建設も―そして北口整備計画も中止になって…その煽りで…色々と…。で、その直後ですよ、両親が離婚したのは」

 茜の返事に瑞枝は言葉を失った。
 同時に、いまだ鬱陶しく感じる自分の父の顔が浮かんだ。
 自分が父親を嫌いはじめたのは「ルネサンス・ノース・ワカミヤ」への引越し計画が潰れたのがきっかけではなかったか?―いや、そんなことはない。思春期の女子が男親を嫌うという、よくあるアレだ。
 茜の言葉も重かったが、自分の記憶も重かった。

「―そうだったの…ゴメン。辛い思い出だったんだね」
「いえ…謝らないで下さい」

 茜は瑞枝の言葉に首を横に振った。

「父の自慢だったんですよ…すっごいマンションを造ってる事…だから、私、今まで忘れないで、ずっと憶えているんです」

 そう言って、茜は瑞枝に微笑んだ。
 



  #05 茜と由香

  「ぅぅんむ…」

 知らず知らずのうちに喉の奥で唸っていた。

「茜、何を考え込んでるの?」
「ぇ?あ・ぃゃ…。た・大したことじゃありませんから…てへへ」

 由香の指摘に茜は笑いながら首を横に振った。

「そうなの?―何か深刻そうな感じだったよ」
「す・すみません…ちょっと私事を…」

 そう言ってふたつの悩みを誤魔化した。
 ひとつ目は、ルネサンス・ノース・ワカミヤへの疑惑…そして、ふたつ目は、今日、如何にして由香に聖水を掛けるかの方法。
 ―どちらも、由香に対しては、言い出しにくい相談だ。
 特に、マンションへの疑惑については、茜は否定したくてしたくて仕方がなかった。―何しろ父親の誇りだったマンションだ。私たちが災厄の如き幻を見た原因が、そのマンションだなんて…ありえない、と思いたかった。
 私たちの共通点も、あのマンションだけってわけじゃない…きっと…ね・ね・ね…そうですよね由香さん…と、そう思い、さっきまで相談相手にはならないと考えていた由香にすがりたくなった。

「ねぇ、由香さん…私たち…この交番の4人が、皆、共通して持っている体験って、何かあると思います?」

 多分、満足な答は得られないだろうと思いながらも、ついつい由香に訊ねてしまった。

「ん?―交番勤務って以外に?婦人警官って職業以外に?」

 ―へ?
 由香の言葉に茜はハッとする。
 ―そうだ!私たちの共通点って単純じゃん、と今さら思った。「若宮三丁目交番勤務」っていうのも共通点じゃないの!「東署地域課」も共通点だ!「婦警」っていうのも共通点じゃない!
 あぁ!なんで今まで気がつかなかったかなぁ…。

「確かに、プライベートだと共通点は少ないかもしれないけどさ…警察官になりたかった思いとか…警察学校の思い出とかさ…共通点なんて色々あるんじゃないのかな?」
「そ・そうですよね。ですよねですよね」

 由香の答に茜は大きく頷いた。
 自分たち4人の「共通点」が「ルネサンス・ノース・ワカミヤ」だけにしかないのか、と気に病んでいた茜は、今、由香の言葉に救われた。とりわけ「警察学校」という言葉が、自分の幻視のワンシーンと重なり、由香の台詞は、大きな説得力を伴って茜の胸に響いた。
 一方、由香は由香で、茜にそう答えつつ、かつて慶子に話した、研修時代の旭ヶ丘署での出来事を回想していた。―ずっと心から離れずに引きずっていた家出少女の記憶を…。

「私と茜ってさ、そりゃ、性格とか物の見方とかは、当然、違うかもだけど…同じ婦警って職業じゃない…。もちろん、慶子さんも瑞枝もさ。だから…お互い直接には話していない部分でも…似たような体験ってさ、いっぱいあると思うよ」

 茜は嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。マンションへの疑惑を霧散させた由香の言葉は、まるで父親を守ってくれているかのようで、頼もしかった。
 そして茜は悪夢の原因を詮索する事なんて馬鹿馬鹿しいと思いはじめる。
 ―だって、そんなの考えたって私たちには、ホントのトコなんて解かりっこないじゃない…と。

 もしも、悪夢の原因が、マンションの呪いじゃなくて交番の呪いだったら…そして、それが、ここに勤務する私たちを辛い目に遭わせてやろうと幻を見せてるのなら、私たち4人は婦警を辞めるワケ?4人して雁首揃えて「あの課長」に、私たちは交番勤務が出来ませんって泣きを入れるわけ?

 ―アホか!そんなのに負けるものか!

 あの時、警察学校で髪を切られたあの屈辱を私は絶対忘れない。―松井茜と呼ばれず、番号で呼ばれたあの悔しさを私は絶対忘れない。
 ―他にも、もう、あれもこれも!と、茜の脳裡に、この職業に就いてから、今までに体験してきた「ふざけるな!」と思った多くの出来事が浮かんでくる。なぁにが「婦警に交番を任せて大丈夫なのか」だ。―女だと思って馬鹿にして!
 そして、茜は、少し熱くなった自分を抑えながら考える。

 ―大切なのは理屈じゃなくて行動だ。

 舐められないように頑張らなきゃいけないんだ…ん?―そういえば…私がとるべき今日の行動は、由香さんに聖水を掛ける事だったんだよな、と思い返す。
 ふたつ目の悩み―猫の首に鈴…が、再び頭をもたげた。
 鰯の頭も信心から、と昨夜の瑞枝には、結局笑われてしまったが、茜はまだ「聖水」に拘っていた。

 ―もぅ、こうなったら小瓶の中の聖水を有無を言わさず由香さんに掛けてしまおうか…それとも、無理矢理、口をこじ開けてでも飲ませてしまうか…。
 発想がエスカレートしたはずみに妙案が飛び出した。―ん!飲ませる?―そうだ!こっそり飲ませてしまえばいいんだ!

「由香さん、コーヒーでも淹れましょうか…えへへ…」

 時は深夜。3人の悪夢も深夜。―今、聖水を飲ませれば翌朝まで効果は続くはずだ…多分、きっと…ね。

「うん」

 由香が笑顔で頷いて腕時計を見た。―いい時間だものね、と。
 だが、それにつづいた由香の言葉が茜を慌てさせる。

「じゃぁ、その間に、私、コンビニで夜食を買って来るわね。茜は何がいい?」

 ―え!え!え!ちょちょちょ・ちょっと待てーッ!

 茜は心の中で叫んだ。
 深夜に一人で由香を外出させるな…、特にコンビニには買い物へ行かせるな、と昨夜、瑞枝にきつく言われた。交番からコンビニエンスストアへ行くには、例の「交番先100メートルの歩道」を通らなくてはならないのだ。

「わっ・たったっ…」

 そんな茜の狼狽ぶりは、由香に、前回の慶子との勤務を思い出させた。―夜食は私が買ってくるから…由香はここで待っててと、あの夜の慶子も慌てて言った。

 ―何かあるのかしら?と、由香は思う。

 そして、時折、感じてしまう、あの「居心地の悪さ」がやってきた。―まだ、由香には話さない方がいい、と感じてしまう例のアレだ。そして、今回、そう感じた相手が後輩の茜であった事が、由香にはショックだった。
 私に話さない方がいい出来事は、私以外の3人は既に知っているのだ、と。

「ねぇ、茜…」
「ハ・ハイッ!」
「私がコンビニに行くと困る事があるの?」
「あッ!ハイ…いや、イイエ!」
「どっちなのよ」
「いぇ…そのぅ…ちょ・ちょっと待って下さい…」

 どぎまぎしている茜に、由香は言った。

「ふぅん…わかったわ…」

 ―わかった。―隠し事があるのが、よくわかった。
 由香は早足で交番入り口に向かい扉を開けた。

「あ!由香さん、ちょっと!」

 茜にとって最悪の状況だった。由香の背中に向かって大声で呼び止めたが、扉は、ガチャッ!と、茜の鼻先で閉じた。そのドアのガラス越しに見えた由香はコンビニエンスストアの方向へ駆けはじめ、すぐに茜の視界から消えた。

「やばッ!」

 小声で叫んで、茜も交番の扉を開き、表に出て、由香の後姿を追った。
 12月の凍った風が、ごぅ、と茜の頬を打った。
 歩道をコンビニへ…いや、例の場所へと走る由香の後姿に向かって、茜は叫ぶ。

「止まってください、由香さん!―理由を話しますから!」

 由香は、茜の言葉を無視して進んだ。

「止まってぇ!」

 今度は、茜は声を枯らさんばかりに絶叫した。
 由香は、ただならぬ茜の絶叫に驚く。
 そして…交番の方を振り返りながら…スローモーションの如く緩慢な動きで…ゆっくりと転びはじめる。


 
  >>NEXT>>  



OPENING introduction


Scene01 Scene02 Scene03 this page


|   TOP  |   story  |