|
「―と、いう訳なんです」
瑞枝が慶子に語り続けた長い告白が終わった。最後に瑞枝は「はぁ」とひとつ深いため息をついて、やっと手元のマグカップに口を付けた。冷めてしまったコーヒーは、さすがの慶子が淹れたものとはいえ、ほんの少し胃に重かった。
慶子は、交番先約100メートルの歩道上で瑞枝と茜に起こった出来事を、最初は目を丸くして、そして、その後は、丸くなった瞳を点のようにして聞いていたが、次第にその内容を自分の幻視とダブらせながら、いつもの慶子の眼に戻り、時には軽く頷き、話に静かに耳を傾けつづけた。
告白を聞き終えた慶子は「―そう…そうだったの」と、そこまで言ったものの「―実はね」という言葉がつづかなかった。その台詞につづく自分の話をどう語ったものか、見当がつかないでいた。
重い空気に息が詰まった。その詰まってしまった息を、大きなため息にして吐き出した。「ふぅ」という音が思っていたより大きく交番内に響いたように聞こえ、詫びるように、ひと言「ゴメン」と瑞枝に言った。
そんな慶子の様子に瑞枝が返す。
「あの…詳細までは無理に聞きません…私も、言いたくない部分は言っていませんから…。ただ…私が知りたいのは…その…あの時の慶子さんも…その…」
そう慶子に問いかけて、瑞枝は言いよどんだ。言葉を慎重に選んでいるのだな、と慶子は察する。ポーカーフェイスの瑞枝の態度が、私にそこまで悟らせてしまうというのは珍しのではないか―と思う。
そんな思いが慶子の背中を押した。
「うん。その通りだよ。私も、あの時、確かに…夢を…見た」
そう言って、天井を仰ぎ見た。いつもの天井だった。だが、白いと思っていたはずの蛍光灯が、今夜はやや黄味を帯びて彼女の目に映った。その黄味がかった灯りを見ながら、大きく深呼吸をした…深呼吸のつもりだったが、それはやはり、大きなため息のようにも思えた。深呼吸のようなため息なのか、ため息のような深呼吸なのか、わからぬままに慶子は瑞枝に話した。
「私が見たのは…昔の彼に抱かれながら…それが…死体に変わって…その死体に抱かれる…。そんな…夢、よ」
俯いた。
「…やっぱり」
視線を下に向けた慶子を見ながら、瑞枝が小さな声で呟く。そして瑞枝は壁を見た。その壁は例の交差点の方向にある壁だった。
「あそこには…まるで怪談のようですけど…悪夢を見せる何かがあるんですかね」
瑞枝はそう言って、背中にぶるりと小さな震えを感じた。
その手のものは信じない瑞枝だったが、さすがに自分の周りに不思議な出来事が重なるというのは一種の「恐怖」だった。
背中の震えが瑞枝の首筋を這い上がり、頭をじんと痺れさせる。その悪寒を振り払おうと、無理矢理、笑顔を作って、やはり交差点側の壁面を見つめている慶子に言った。
「こういう経験を実際にしてしまうと、何かあるって思いますよね…。こう言っては何ですけど、こっちは駅裏ですからね」
「えっ?!」
壁を見たまま黙っていた慶子が、小さく叫んで、瑞枝を見た。
瑞枝の言葉を聞いた慶子の脳裡に響いたのは、上司の東署地域課々長の声だった。
―君ら、エキウラって言葉は禁句だからな。住民には使うなよ。特に北口商店街の連中にはな。まぁ…アレだ、アレ。「エキウラ」は、差別用語みたいなモンだ。若宮三丁目は「駅北」だ、エキキタ。
そして、慶子は、連鎖反応のように、別の言葉を回想する。
―でも、エキウラだもんねぇ。
母の声だった。さらに回想の中で、時間が少しだけ遡る。母親と見ているテレビ画面のコマーシャル。「美しく青きドナウ」の調べに美声の男性ナレーション。
―今、若宮駅北口に魅惑の暮らしがスタートする。羨望の駅前生活。ルネサンス・ノース・ワカミヤ。近日、モデルルームオープン!
今から15年ほど前、昭和が平成に変わって数年後の記憶だった。過剰なまでの付加価値を武器にしたマンションが、その価格帯で「億ション」と呼ばれていた頃の記憶だ。
当時、大学受験を控えた慶子にとって「ルネサンス・ノース・ワカミヤ」は憧れの住まいだった。慶子は勉強の合間に一人暮らしを夢想した。東京の大学を受験するというのに、なぜか「ルネサンス・ノース・ワカミヤ」を思いながら、その広すぎる間取りに好みの家具を並べて悦に入った。手軽だが素敵な気分転換だった。
高校三年生の慶子にとって、現実からは遠い遠い夢の暮らしが夢想の中にあった。
そんな馬鹿な!―と若宮三丁目交番の慶子は思う。
そのマンションは、過去の記憶の中にしか存在しないはずだ。
県と市が音頭を取り大手ゼネコンが肩入れした若宮駅北口整備事業が、いわゆる「バブル崩壊」で中断すると同時に、マンションも完成する事なく計画半ばで頓挫してしまった。若宮駅北口の整備計画は、自治体から「若宮平成ルネサンス構想」と名付けられており、その名称の一部をお墨付きのように冠とした高級マンションが建設途中で放棄された姿は「バブルの象徴」として、当時の新聞の地方面を賑わせた。
―まさかまさかまさか。
幻視の中でミーシャが逃げ込んだ建造中マンションのイメージが甦った。
その疑念を確かめようと、慶子はスチールラックに駆け寄る。彼女の指先はラックに収められた何十冊というバインダの背表紙を隅からなぞった。―そして、その指先が一冊のバインダで止まった。
その背表紙には「若宮三丁目交番管轄地域図(旧)」のラベルがある。
交番には、稀に、かつての記憶を頼りに地理案内を求める者が訪れる。―この近くに、時計屋さんがあったはずなんだけどねぇ…探してみたんだけれど、見つからなくってねぇ…。
そんな時に、取り出す地図だ。若宮三丁目交番開設以来、各年度ごとの周辺地図がファイルされているバインダだ。
―その時計店は3年前に引っ越したみたいですよ。移転先は残念ながらここでは解かりかねるのですが…。
そう返答するための地図だった。移転先が実際に解からない時もある。「個人情報保護法」施行後は、解からないと答えなくてはならない場合も、数多く、ある。
慶子は1990年代初頭のファイルをめくり、交番前の歩道に当たる場所を指先で探す。当時の交番前の道路は、今より狭く、その分、区画整理前の居住地域が現在の歩道上にある。
既に慶子の顔は蒼ざめている。
そんな慶子の顔色には気付かず、瑞枝が背後から地図を覗き込んだ。
「―さすが、慶子さん。その地図には気がつきませんでした。あそこには、昔、お墓でも?」
そう言って、瑞枝は、慶子の指先に視線を移した。
「えっ?!」
小さな叫び声が、今度は瑞枝の口から漏れた。その声に慶子は驚き、振り向く。
「ルネサンス・ノース・ワカミヤ…」
瑞枝は、慶子に向かってではなく、独り言のように、そう呟いた。半開きになった唇が色彩を失っていた。唇だけではない。瑞枝の顔も白くなっていた。
尋常ではないその様子に、慶子は震える声を落ち着かせながら訊ねる。
「み・瑞枝…あなた、このマンションの事、知っているの?」
瑞枝の顔が蒼白のまま、静かに頷く。
「知っているも何も…。わ・私たちの家族…当時のバブルで…父の仕事が上手くいっていて…。そ・そこに引っ越すはずだったんです。」
その瞳は、慶子の指先…地図の上にある「ルネサンス・ノース・ワカミヤ(建設中)」の文字の上に固定されている。
|
|