人警 闇
  Scene02
 

  #04 茜 01

  「おっとっとっと」

 手に触れる寸前で逃げるように風に加速され転がるゴミ箱の蓋を茜は懸命に追った。いや、正確には風は既に止んでいた。ゴミ箱の蓋が「風に転がるように」前に進んでいるだけだった。だが、自分の周りの風が止んだ事にまだ茜は気が付いていない。彼女の目にはガラガラと音を立てながら転がるプラスティック製の蓋しか見えていなかった。

「あ!やばっ!」

 茜は思わず口走る。
 蓋を追うのに必死なあまり周りを気にしていなかったが、距離感を考えるといつの間にか交番の先にある交差点を渡っていたかもしれない、と気付いたからだ。深夜で無人とはいえ、制服姿で信号のある横断歩道を無意識に渡ってしまうなんて…と思いながら茜は顔を上げて辺りの様子を窺った。 

 だが交差点も信号も周囲には見当たらなかった。今まで追っていたゴミ箱の蓋もいつの間にか消えていた。

 茜の周りには何もなかった。彼女は闇の中にいた。その闇に次第に星のような小さな光が瞬きはじめた。
 光は数を増し、それにつれて明るさも増した。

 目に映る光の点が明るさを増すにつれ、耳には音が聴こえてきた。その音はスピーカーを通して聴こえる音楽だった。
 今、茜は車の助手席に座り、カーステレオから響く果実の名前を持つ女性アーティストのヴォーカルを聴いていた。

 車は傾斜を上っている。地元では街の夜景を見下ろすスポットとして有名な小高い山の頂へとつづく農道だった。
 運転席では男がハンドルを握っている。彼は茜をちらりと見て言った。

「いいじゃん」
「え?」

 なにが「いい」のか咄嗟に理解できず、茜は運転席の男を見た。
 彼は、茜が高校二年の頃に付き合っていた男性だった。年齢は茜の三つ上、高校時代に所属していたサークルのOBで当時は大学二年生だった。
 この頃の彼は運転免許を取ったばかりで、親の車を持ち出しては茜をよくドライブに連れ出してくれた。
 光の粒が広がる夜景の中、列車の窓の灯りがゆっくりと移動しているのが小さく見える。
 彼は眼下に夜景がのぞめる場所に車を止め、そして茜の疑問に答えるように言った。

「いいじゃん、その髪。帽子、取りなよ」

 そう言いながら、男の手は茜の制帽を取り、両手で彼女の小さな顔を左右から包んだ。そして彼は指の間に彼女の髪を絡めた。

「柔らかくていい気持ちだ。色も綺麗じゃん」
「二ヶ月くらい前かな…交番勤務が決まって、その時に思い切って少し染めたの…」

 茜の髪は栗色だった。

「思い切った…って言っても、こんな仕事だからこの程度だけど…」

 そんな言い訳が茜には少し照れくさかった。黙って髪を撫でられる物静かさを埋めるように茜は話し続ける。

「それに…あの頃に比べて、髪、まだまだ短いでしょう。警察学校を出てからずっと伸ばしてるんだけど…。先輩、私の長い髪が好きだったから…今の状態、少し恥ずかしいな」
「―いや…」

 彼が優しい声で言った。

「いいと思うよ、この感じも。短くなったのは確かに残念だけど、手触りも昔と変わらない」
「よかった…。染める時、痛まないかと心配で…」

 何しろ自慢の髪だった。細くて滑らかで艶やかで…ずっと髪には気を遣ってきた。
 その自慢の髪を、彼は指で梳くように撫でながら顔を茜に近づけ、その唇で、話し続けようとする茜の唇を覆った。
 そして彼は茜の背中に左手を回し、その細い身体を自分の方に引き寄せた。茜の髪を愛しそうに触りつづけている右手に次第に力が入り、二人の唇は強く密着した。

 ―ん、結局、今日もこうなっちゃうのか…と、茜は心の中で思う。
 案の定、背中を抱いた男の左手が腰へと下がり、シートから浮いた尻を撫でて通り過ぎ、スカートの生地の上、太腿を擦るように滑って膝頭で止まった。
 ―会えばセックス、なんだよなぁ…。もっと他にないのかしら、私たち。
 そう考えている間に、膝頭の手はスカートの裾をたくし上げ、内腿を触った。彼の指先の動きに戸惑いがあった。
 ―ん?どうしたのかな?あ、ストッキングかしら。あの頃はいつも生足だったからなー。ん?待てよ。ベルトには装備一式あるんだった!手錠や拳銃の事、どう言おうかしら…。
 茜がそう考えているうちに、男の指は茜の太腿の上で逡巡しスカートの中から出た。そして上着のボタンを上から順に外しはじめた。そして上着の前を捲ると、彼の舌が茜の舌を探るように入ってきた。

「ん」

 彼の舌は茜の舌を探し当て、米粒の大きさになったキャンディを舐めつづける子どもの慎重さで愛撫する。男の右手は茜の髪を離れ、助手席のシートとドアの間を探った。ほどなく、カタと小さな音がしてシートの背が後方に倒れた。

「今日はややこしいな」

 倒れたシートに仰向けでいる茜を上から覗きこみながら男が言った。制服の上着の内側に入った彼の左手がベストのボタンと格闘していた。

「足にはパンスト。上着の下にはボタンつきのベスト。―ネクタイまであるじゃん」

 苦笑した男の顔を見て、あ・やっぱり…抱かれたくないって思われちゃった、と茜は直感する。

「そ・そんなつもりじゃ…」

 申し訳なさそうに茜が言うと、彼は茜を抱いていた身体を起こして彼女を見つめた。さっきまでの苦笑いがなくなり、その表情は困惑していた。

「―ん、いや、ゴメン…。僕もそんなつもりで言ったんじゃない…」

 茜から身を離した彼は、運転席のシートに背中を預けた。―カタリ。プラスティックの軽い音がして、茜の横に彼のシートが倒れてきた。ふたり並んで水平になったシートに身を任せていた。茜は男の横顔を見つめたが、彼の視線は車の天井に向けられていた。

 混沌とした思いが茜の頭の中に渦巻く。
 ―ここでは、先輩は20歳で私は17歳じゃないんだわ。私が20歳で先輩が23歳でもないんだわ。先輩も私も20歳なんだわ。同い年になっちゃってるんだわ。
 納得と疑問が交互に現れては消えていった。

 車内には、カーオーディオからの女性ヴォーカルと、そして、気まずい時間が流れていた。
 



  #05 茜 02

  「いつも…エッチじゃぁ、嫌…だよなぁ…」

 彼が遠慮がちに、そっと呟いた。―が、茜はまだ返事に困っていた。
 ―あったりまえじゃん!私だって、たまには夜景を眺めながら、何もしないふたりだけのロマンティックな時間を過ごしたいのよ…と、多分、他の男になら言えた。こういう時に唇を尖らせるお得意の表情を、今の茜は身につけていた。
 しかし、この20歳の彼に対して、茜はなんと言ってよいのか迷っていた。彼の言葉を否定しても肯定しても、相手を傷つけそうな予感しかなかったのだ。
 迷いながら茜はシートを半分だけ起こし、フロントガラスの向こうの星空を見た。

「…星、きれいだよ」

 答を見失った茜は、それを言うのが精一杯だった。
 再び、沈黙の時間が流れはじめた。―これなら、まだ毎回抱かれていた方がいいや、と茜は思う。この空気の重さには耐えられないわ。

「キスして…ぃぃょ」

 茜は語尾を曖昧にしてポツリと彼に言った。

「うん」

 男はそう答えて、ゆっくりと茜に身体を重ねた。そして互いの唇が触れ、軽く優しいキスがつづいた。先程に比べてずいぶんと遠慮がちになってしまったキスを受けながら茜は思う。―そうだわ。先輩のそういう器用じゃない所が、私、好きだったんだわ。
 今、同い年になってしまっている彼が急にうぶに思えた。
 茜は、自分から唇を開いて、誘うように彼の唇を舌で舐めた。ピクリと彼の全身が小さく震えた。
 男は茜に覆い被さる上半身を支えていた右手をシートから彼女の肩へ移した。彼の舌が茜の舌を探した。茜はその舌を上下の唇で軽く挟んで吸った。
 男の手が茜の肩から腕を静かに伝って掌まで降りてきた。ふたりは互いの掌を合わせて握りしめた。男の指先が茜の手の甲を愛しそうに撫でる。唇の中にある彼の舌を、茜の舌が一周した。そして、彼女の舌は彼の口の中に伸び、その先で上の歯茎を裏側から刺激した。
 その時、手の甲の上で円を描くように踊っていた彼の指先がピタリと止まり、彼はキスを止め、ふたりの唇が離れた。

「…」

 男は無言で茜の顔を凝視した。

「…ど・どうしたの?」

 茜は突然の行為の中断に少しの不安を感じ、彼に問いかけた。

「―ん、いや…なんでもない…っていうか…」
「?」
「今までの茜のキスと違うんで、ちょっと驚いた」

 言いにくそうに答えた彼の言葉を聞いて、茜の顔が赤くなった。昔の思い出を振り返っても、この彼とのキスの最中に、先刻のような積極的なキスをした記憶はない。当時17歳の茜にその余裕は、まだなかった。それに比べて今日の私の余裕ったらどうしたことだろう。それは20歳の私の余裕だ。

「ごめんなさい…」

 何人かの過去の恋人たちが思い浮かび、浮気を指摘されたような気分になり、謝罪の言葉が茜の口から出た。
 だが、男は自分が照れた表情になって、微笑んで彼女に言った。

「少し驚いたのは…ちょっと…気持ちよかったからでもあるんだ…。こういうの、上手なキスって言うのかなぁ」
「やだ、先輩…」

 茜はそう言うと、思わず彼を両手で抱き寄せた。彼が可愛らしかった。抱きついた勢いで、茜から彼の唇にキスをした。
 そして茜は男の手を取り、自分の襟元まで持ってくると、彼の指に自分の指を添えてネクタイを緩めた。茜はそうやって男の掌を彼女の乳房の中央に導いた。彼女のもう片方の手は、腰に巻いた装備一式がついたバンドと、さらにその下にあるスカートを留めたベルトを緩め、そしてさらに、スカートのホックを外しファスナーを少しだけ下げた。

「して、いいよ」

 茜がそう言うと、軽い間があって、彼の手がボタンが外れたベストの中に入り、シャツの上から茜の乳房を覆った。掌でその感触をしばらく味わってから、シャツの上からふたつ目のボタンを外し、そこから胸元に手を入れてきた。
 そして、彼はキスをつづけていた唇を離し、その鼻先を茜の髪に埋めた。茜の耳に彼の呼吸が大きく聞こえる。彼の唇が茜の耳に触れた。

「あ…ん…」

 男の唇が茜の耳たぶを挟んだ時、思わず声が漏れた。茜は耳を攻められるのが弱く、前戯の際、そこを刺激されるとスイッチがひとつ入り、身体が微熱を帯びたようになる。「やばい」と思った。―先輩の前で変な声が出ちゃったらどうしよう…ん?あれ?私のキスに驚いたくせに、あの頃の先輩…耳を噛んだりしたかしら?あっ…ダメだって、声出ちゃう。

「ん…耳、だめ…くすぐったい…」

 甘えるような声を出しながら男の唇が耳から離れるように顔を動かした。その顔を男の眼が見つめていた。彼はニコニコと晴れやかな表情で笑っていた。彼の手が茜の髪を優しく撫でた。

「こんなに愛してくれてるのに…あの時、僕の事、思い出してくれなかったんだよな」
「え?」

 彼が放った言葉を茜は瞬時に理解できなかった。―なに?あの時…って―どの時?

「42番…」

 男が穏やかな表情で茜に言った。

「思い出さないかなぁ…42番」

 彼は笑いながら首を傾げた。
 42番という番号に全く記憶が無いわけではなかった。
 それは茜の番号だった。高卒区分での警察官合格者42名の中、女性で苗字がマ行の茜には、最後の番号が与えられていた。
 だが、彼が言っている意味がよく解からなかった。そもそも警察学校に入る一年以上前、高校三年生に進級するのを待たずに、彼と茜は別れていたのだ。
 



  #06 茜 03

  「42番って…どういう事?」

 彼が知らないはずの警察学校時代の番号を、突然口にされて、茜はそう訊ねた。その茜の髪を彼は相変わらず笑顔で撫でつづけている。

「こんなに茜の髪が好きだった僕の事をさ、あの時、どうして思い出してくれなかったのさ?」

 そう話しつづける男の表情はずっと笑顔のままだった―が、声だけが彼のものから次第に別のものの響きに変わっていった。低く太くなったその声に、茜は聞き覚えがあった。
 彼は、茜の前髪を指先で摘んで持ち、笑った表情のまま別人となった声で言った。

「42番!」

 忌まわしい記憶がフラッシュバックする。

 入校式の前日、警察学校の講堂に集められた新人警察官たちが担当教官からチェックを受けていた。

「ハイ!」

 番号を呼ばれた茜は返事をした。低く太い声の男性教官が茜の前髪を指で摘んでいた。

「明日の朝までに切っとけ」
「え?」
「聞こえなかったか?」
「あ、いえ…」
「じゃぁ、返事はハイだろうが!」

 教官が怒鳴る。

「ア…ハイ!」
「売店の横に理髪室があるからな。心配するな、金は取らん!」

 先ほど怒鳴ったばかりの教官は、今度は歯を見せて笑った。

 解散後、理髪室に向かう茜の足は重かった。―入校に備えて短すぎるほど切ったつもりなのに…これ以上切っちゃったら目も当てられないわ。
 理髪室で「目も当てられない」髪型になっていく鏡の中の自分を見ながら涙が出た。
 人がよさそうな中年の男性理容師はそんな茜の様子を見て慰めるように「ヘップバーンがね…」と、美貌のハリウッド女優が劇中でバッサリと髪を切った昔の映画の話をしたが、茜は題名を知っているだけでその映画を見た事がなかった。もちろん、その話が茜の涙を止める事は出来なかった。

「思い出した?」

 先輩の声がした。理髪室の中、中年理容師がいた場所に彼は立っていた。
 いつの間にか茜が座っていた助手席のシートは理髪室の椅子になっている。車のフロントガラスは消え、大きな鏡が目の前にあった。その鏡には「あの時」に少年のような髪型にされてしまった18歳の茜ではなく、栗色の髪が肩の下まで伸びた婦警制服姿の20歳の茜が映っていた。
 彼は背後から椅子ごと茜を抱きすくめ、再び茜の耳に顔を近づけて囁いた。

「あの時の茜は自分の髪の事ばかりを考えて、君の髪が大好きだった僕の事…忘れていたよね」

 男はそう言った。その声は嬉しそうに笑っていた。鏡に映った彼の表情も、茜の肩の上で微笑んでいる。
 茜の胸の前にある男の手の中で何かが光った。彼の左手―いや、それは鏡に映った手だったので、正確には彼の右手―には刃先の長い銀色の鋏が握られていた。
 彼は左手で、茜の肌蹴た上着とベストの内側に手を伸ばし、先ほど車の中で緩めたネクタイを摘み上げた。ネクタイの布地が縦に一筋の影となって、前方の鏡に釘付けだった茜の視線の中央を横切って遮る。
 ザキと鈍い音がして、その直後に金属同士が触れ合う鋭く短いチャキという音が続いた。視界の真ん中を覆っていた影が下方に落下して消え、茜の目の前が再び明るくなった。

「悲しかったな、僕は…」

 男はそう言うと手元のネクタイの切れ端を無造作に投げ捨てた。

「だから今日は…」

 ネクタイを投げた手で男は茜の前髪を束にして掴んだ。

「ずっと僕の事を考えていてくれ…」

 ―ザキ、と再び音がして銀色の光が前髪の束の根元を横切った。

「髪を切られながら…僕の事を思ってくれ」

 男はにっこりと微笑んだまま、そう言った。
 茜は鏡の中で起きた事が信じられなかった。鏡の中の茜も信じられないという表情でこちらを見つめていた。左右に流してやっと頬まで伸びていた前髪が、茜の顔から見事に消え失せていた。
 そこにあるべき前髪は、今、茜の目の前に見えていた。髪の束を握った男の手が、上方から彼女の視界へと降りて来たのだ。その手がゆっくりと開き、それにつれて大切な栗色の毛髪がサラサラと舞い落ちる。
 慌てて椅子から立ち上がろうとしたが、身体が硬直して動かない。全身が鉛のように重かった。

「うそ…」

 そう言おうとして、茜は声が出ないことに気がついた。意識はあるのに身体はピクリとも動いてくれない。それは、まるで金縛りにかかった状態だった。目は見えている。鏡に映った前髪を失った自分の顔が見えている。音も聞こえていた。
 チャカチャカチャカチャカ―鋏の刃先が宙でリズミカルに何度も開閉し空を切っていた。男は鋏を空中で鳴らしながら茜が座った椅子の横に移動し、彼女の右サイドの髪を手に取った。

 ザキ…。
 鋏が更に鳴った。肩を過ぎやっと鎖骨の下まで伸びていた髪の右側が茜の頭から離れ、制服のベストの襟元で止まった。

「!」

 叫びはやはり声にならなかった。瞼も硬直し瞳を閉じる事が出来ない。鏡に映った自分の姿から目を逸らす事すら叶わなかった。
 男は今度は茜の逆側に回りこみ、顔の左横のまだ長い髪をその手に取った。

 ザキッ!

 鋏は無造作に栗色の髪を断ち切る。
 さらに男は茜の背後に回り、彼女の後頭部をヘッドレストから離れるように掌でそっと押した。椅子に貼り付いていた背中が背凭れから離れた。
 その瞬間、茜の金縛りが解けた。急に身体が浮くように軽くなり、その勢いで前のめりになって椅子から転げ落ちる、と茜は思ったが、実際は椅子に座ったまま軽い前傾姿勢になっただけだった。
 突然の解放感にどう動いてよいか狼狽している茜の後頭部の髪を、男が纏めて握った。身体が少しだけ後ろに動いた。茜は反射的に腰を椅子から起こそうとした―が、男は強い力で掴んだ髪を後方に引っ張った。

「やめて!」

 やっと大声が出た。
 だが、容赦なく後ろ髪にも鋏が入れられた。鋏は、ザギザギザギザギと今度は濁った音を立てた。
 茜は鋏が横切る感覚を、切断されていく一本一本の髪の付け根で、痛みとして感じた。
 



  #07 茜 04

  「あなた、誰!こんなの先輩じゃない!」

 茜の叫びに男は何も答えず、無言で後頭部の髪を刈りつづけた。
 鋏の先が合わさる金属音が響くと、茜は頭部を拘束する力から解放された。しかしそれは、幾許かの大切な髪と引き換えられた、茜にとって残酷な解放だった。
 茜は彼の顔を見るために振り返ろうとしたが、それを阻止するように、彼女の額に男の手が当てられた。そして、男の手は刈り残しの長い髪を掬いながら、頭頂部で纏めて握り、持ち上げるようにゆっくりと動いていった。男の腕の上昇はなかなか止まらず、髪を鷲掴みにされたまま全身を吊り上げられ、椅子から茜の腰が浮いた。

「やだ!痛い痛いいたいいたい!」

 激しい痛みを頭の芯に感じながら中腰の姿勢になった時、茜は心の中で舌打ちをした。
 ―しまった!さっきは馬鹿なことをした…と。
 車の中で緩めたベルトも、そして、スカートのホックもファスナーもそのままだったのだ。
 ―何考えてたのよ、私…と、後悔の間もなく、装備の重みでスカートがベルトごと足元にずり落ちた。

 ぐらり、と身体が大きく揺れた。
 男が椅子の後ろ側から茜の横に回りこんできた。彼は、茜の髪を握ったままの腕を、反動をつけるように一度大きく後方に振ってから、彼女の身体を鏡へ叩きつけるように、前方へ大きく振った。
 茜は反射的に鏡に向かって掌を突き出す。冷たい感触とじんとした痛みが掌を走る。茜の顔面は鏡に激突する寸前でなんとか止まった。
 目の前に瞳を大きく見開いた自分がいた。鏡に映った彼女の眼球が、男に掴まれた髪を気にするかのように、ゆっくりと上に向かって動いていった。
 鏡の中の茜が自分の頭頂を凝視している。
 そして、その部分に鋏がザクリと入れられた。

「いやだぁ!やめてぇ!」

 そう叫んだ茜の身体は、髪を切られたせいで支えを失いバランスを崩した。くるぶしに落ちたスカートが脚に絡んだ。茜は床に激しい勢いで倒れこんだが、不思議と痛みは感じず、目の前に散らばった栗色の髪の残骸を見て、身体の内側が熱くなった。足元に落ちたままだった銃のホルスターが目に入り、さらに身体の温度が上昇した。

「このぉ!」

 今の茜には、自分が警察官だという意識はない。
 無惨に髪を切られ、怒りに燃えるただの20歳の女になっていた。火を吹く武器を持つ、ただの20歳の女だった。喧嘩に勝つつもりでホルスターを取り、そのボタンを外した。あとは拳銃を抜き、男に向かって引き金を引けばいい。
 だが、銃を抜く前に男は茜に近寄り、彼女の腹を強く蹴り上げた。

「ぐぁ!」

 床に散らばった栗色の髪の中を茜の身体が転がる。あまりの痛みに、茜は腹を押さえ背中を丸めて蹲った。気が遠くなりそうな自分を押し留めようと、喉の奥から声を絞り出した。

「ぅう…」

 だが、茜のか細い唸り声も長くは続かなかった。彼女の背中がずしりと重くなった。
 男が茜の背中に馬乗りになり、不規則に残った彼女の髪を掴んだ。強い力で髪が引っ張られ、蹲っていた茜の顔が宙へと上がる。そして、彼女の背後でカチリと音がしてモーターの振動音がその耳に届いた。
 その音源に思い当たった茜の顔が蒼白になった。バリカンの音だった。

「な…何!や…やだやだ!」

 叫びは大声にならず、呟きのように茜の顔の前にある空気を揺らすだけだ。
 彼女の耳に、次第にバリカンの音が大きくなって聞こえる。そして、細かく振動する刃先に襟足の髪が触れ、低かったその音色が甲高く変化した。
 バリカンが頭の中央を頭頂部へとゆっくりと移動する。頭皮の上をバリカン先端の金属アタッチメントの冷たい感触が滑っていく。飛び散る髪が首筋を痛痒感が伴う刺激で襲う。
 茜の瞳からは大粒の涙がこぼれていた。悲鳴の代わりに、金魚のようにパクパクと繰り返し開く口元を空気が何度も往復した。
 バリカンの滑走は頭頂部を過ぎ前髪まで回り込むと額の生え際まで来て茜の頭から離れ、モーターの唸り声も止んだ。

 つづいて、喉を絞めるような痛みが茜を襲った。
 男は茜の首の後ろ側で制服の上着とシャツの襟を掴み、彼女を持ち上げはじめた。襟元が締め付けられ息が苦しい。信じられないほどの強い力だった。蹲っていた茜の肩が、そして膝が、床を離れていき、さらに靴の踵までもが離れた。
 茜は、爪先で立つのが精一杯のところまで、襟首を強い力で持ち上げられていた。
 そして無理矢理に立たされた茜の前には鏡がある。

「ぁ…ぁぁ…」

 茜の喉から音は出たが声にならなかった。彼女が鏡に見たのは惨めな女の姿だった。
 下半身を覆った衣類が脱げ落ち、上着とベストは前がはだけ、その下には白いシャツの裾がだらしなく顔を出しストッキング下の淡いブルーのショーツを申し訳程度に隠している。はしたないまでに乱れた服装の上には無惨な髪型になった女の顔が乗っていた。
 醜く乱雑に刈られた髪型だけが惨めに思わせたのではない。こぼれ落ちた涙が顔の表面に幾筋もの跡を残し、そこに長短さまざまな毛髪がこびり付いていた。光り輝くべき瞳は真っ赤に腫上がり焦点すら定まっていない。洟も流れていた。口元は弛緩しきってだらしなく開き、血の気を失いくすんだ色になった唇は小刻みに震えている。

 どん底に堕ちた自分の姿を見せつけられ、胸の中に敗残者の哀しみが込み上げてくる。そして、その感情は堰を切ったように茜の身体を突き動かした。
 手を大きく振り身体を反転させ、首筋にある男の手を必死で振りほどいた。
 ボロボロになった重い身体を、やっとの思いで動かした。最後の力を振り絞り、ふらふらとした足取りで理髪室の出口に向かう。ほんの数メートル先にドアがあった。
 茜は、両手で頭を抱え込んで、よろけるように前に進んでいた。その姿は、髪をこれ以上切られまいと頭を守っているようでもあり、そしてまた、醜く髪を刈られた惨めな姿を見られまいとしているようでもあった。

 逃げる茜の背後に人の気配があった。自分の頭を掴もうと顔の両側に手が伸びてきたのを感じた。出口へのドアは目の前だった。後ろから伸びてきた大きな男の手を視界の隅にちらりと捕らえた。
 茜は身体ごと肩からぶつかるようにして理髪室のドアを開けた。

 視界が真っ白になった。
 後方からやってきた大きな手が、茜の顔を両側から掴んだ。

 ―もうダメだ…

 茜の全身から力が抜けた。
 うなだれた茜の頭を男の大きな手が正面に向けた。眩しいばかりの白い世界に目が慣れてきた。
 目の前には青空があった。
 抜けるような青空を横切って、銀色の鋏の先端が視界に入ってきた。鋏は静かに茜の額へと動いていった。

「じっとして!」

 男の声がした。はじめて聞く声だった。―いや、この声はどこかで…と、そう思った茜の耳に、チャキと軽い音が聞こえた。目の前を細かい髪が数本、落ちていった。
 青空の下には団地が並んでいる。
 遠い遠い記憶の底にある風景だった。不思議と茜は柔らかな安心感に包まれていた。

 私はこうやって、青い空を見ながら髪を切ってもらうのが大好きだったんだ…。
 ずっとずっと幼い頃、私は団地のベランダで髪を切ってもらってたんだ…。
 ―誰に?

「可愛くなるよ、茜」

 背後の男が優しい声で言った。
 茜は思わず振り向いた。

「お父さん…」
「何言ってるの?」

 返事は瑞枝の声だった。
 



  #08 茜 05

  「へ?なんで?」

 振り向いた茜の目の前には、瑞枝がしゃがんでいた。瑞枝は心配そうな顔で茜を見ている。
 夜の歩道に、冷たい風がごうごうと鳴っていた。

「茜、大丈夫?」
「いやだから…なんで…」

 と、そこまで言って、茜は「あっ!」と小さく叫んで両手で頭を覆った。掌に制帽のフェルト地の感触があった。サイドの髪が風に吹かれ、茜の唇になびいてきた。

「あ・髪が…ある…」

 茜の目が点になった。尻に痛みがやってきた。

「あいたたたたた…」

 思わず腰に手をやるとスカートも装備品を吊ったベルトも全てがあった。瑞枝は首を傾げて茜の顔を覗き込むように見ている。彼女は、茜の顔を見ながら、先日の慶子の事を思い出していた。

「―ねぇ、茜。わかってる?」
「へ?」
「あなた、転んだのよ。この蓋、追いかけてきて」
「はい…。ですよね」

 茜は、手元にある缶用のゴミ箱の蓋に目をやって、何かを思い出すようにして答えた。そんな茜の顔は、いつもの彼女と全く違って、ひどく自信なさそうに見えた。
 瑞枝は思い切って、こう切り出した。

「―しばらく気を失ってたのよ」
「ハイ…すみません」

 茜は申し訳なさそうな表情で素直に謝った。瑞枝は当惑した。―気絶なんてするわけないじゃない…ほんの数秒の間じゃないの…と思ったが、茜には言わなかった。
 瑞枝は立ち上がって茜に手を差し伸べた。

「立てる?」
「あ…すみません。大丈夫です…ひとりで」

 そう言って、茜はふらつきながらも立ち上がった。瑞枝は「行こ…」と軽く言って、茜の肩に手をやり交番の方へと促した。交番へ戻りながら、瑞枝は再度、茜に鎌をかけてみた。

「夢でも見た?」
「ん、はい。少し」
「まるで寝ぼけてたみたいだったよ」
「え!やだ!―す・すみません。―で、気を失ってる時、私、瑞枝先輩に何か変な事、言いませんでした?」

 茜に普段の表情が戻り、そう聞いてきた。「まずい事、言わなかったですよね・ね・ね」と。
 瑞枝は困った。駆け寄ったとたん「お父さん…」って言ったのよ、とは、今の茜に対してさすがに口には出来なかった。

「昔の彼氏の夢でも見た?」

 瑞枝は笑顔を作って冗談交じりに言った。さらりと流されると思っていた台詞に、意外にも茜は目を丸くして驚き、慌てた。

「げ!マジですか?!」
「って…本当に元彼の夢を見たの?」
「言いました?私、変な事、言いました?」

 茜の顔が真っ赤になっていた。―あらあら…父親の夢じゃなかったんだ、と瑞枝は思い、少しホッとしていた。

「変な事なんて言わない言わない…安心しなさいって。気絶した事も内緒にしとくから…かっこ悪いでしょう」
「ぜ・絶対ですよ!瑞枝先輩、絶対ですよ!」

 ―この、茜のうろたえぶりはなんだろう?―慶子さんも、転んだ一瞬に夢を見たんだろうか?
 瑞枝の頭の中にいくつもの疑問符が浮かんだ。

 交番に戻った二人をミーシャが「みゃぁ」と迎えた。


  Scene02<おわり>
 


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OPENING introduction


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