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「おっとっとっと」
手に触れる寸前で逃げるように風に加速され転がるゴミ箱の蓋を茜は懸命に追った。いや、正確には風は既に止んでいた。ゴミ箱の蓋が「風に転がるように」前に進んでいるだけだった。だが、自分の周りの風が止んだ事にまだ茜は気が付いていない。彼女の目にはガラガラと音を立てながら転がるプラスティック製の蓋しか見えていなかった。
「あ!やばっ!」
茜は思わず口走る。
蓋を追うのに必死なあまり周りを気にしていなかったが、距離感を考えるといつの間にか交番の先にある交差点を渡っていたかもしれない、と気付いたからだ。深夜で無人とはいえ、制服姿で信号のある横断歩道を無意識に渡ってしまうなんて…と思いながら茜は顔を上げて辺りの様子を窺った。
だが交差点も信号も周囲には見当たらなかった。今まで追っていたゴミ箱の蓋もいつの間にか消えていた。
茜の周りには何もなかった。彼女は闇の中にいた。その闇に次第に星のような小さな光が瞬きはじめた。
光は数を増し、それにつれて明るさも増した。
目に映る光の点が明るさを増すにつれ、耳には音が聴こえてきた。その音はスピーカーを通して聴こえる音楽だった。
今、茜は車の助手席に座り、カーステレオから響く果実の名前を持つ女性アーティストのヴォーカルを聴いていた。
車は傾斜を上っている。地元では街の夜景を見下ろすスポットとして有名な小高い山の頂へとつづく農道だった。
運転席では男がハンドルを握っている。彼は茜をちらりと見て言った。
「いいじゃん」
「え?」
なにが「いい」のか咄嗟に理解できず、茜は運転席の男を見た。
彼は、茜が高校二年の頃に付き合っていた男性だった。年齢は茜の三つ上、高校時代に所属していたサークルのOBで当時は大学二年生だった。
この頃の彼は運転免許を取ったばかりで、親の車を持ち出しては茜をよくドライブに連れ出してくれた。
光の粒が広がる夜景の中、列車の窓の灯りがゆっくりと移動しているのが小さく見える。
彼は眼下に夜景がのぞめる場所に車を止め、そして茜の疑問に答えるように言った。
「いいじゃん、その髪。帽子、取りなよ」
そう言いながら、男の手は茜の制帽を取り、両手で彼女の小さな顔を左右から包んだ。そして彼は指の間に彼女の髪を絡めた。
「柔らかくていい気持ちだ。色も綺麗じゃん」
「二ヶ月くらい前かな…交番勤務が決まって、その時に思い切って少し染めたの…」
茜の髪は栗色だった。
「思い切った…って言っても、こんな仕事だからこの程度だけど…」
そんな言い訳が茜には少し照れくさかった。黙って髪を撫でられる物静かさを埋めるように茜は話し続ける。
「それに…あの頃に比べて、髪、まだまだ短いでしょう。警察学校を出てからずっと伸ばしてるんだけど…。先輩、私の長い髪が好きだったから…今の状態、少し恥ずかしいな」
「―いや…」
彼が優しい声で言った。
「いいと思うよ、この感じも。短くなったのは確かに残念だけど、手触りも昔と変わらない」
「よかった…。染める時、痛まないかと心配で…」
何しろ自慢の髪だった。細くて滑らかで艶やかで…ずっと髪には気を遣ってきた。
その自慢の髪を、彼は指で梳くように撫でながら顔を茜に近づけ、その唇で、話し続けようとする茜の唇を覆った。
そして彼は茜の背中に左手を回し、その細い身体を自分の方に引き寄せた。茜の髪を愛しそうに触りつづけている右手に次第に力が入り、二人の唇は強く密着した。
―ん、結局、今日もこうなっちゃうのか…と、茜は心の中で思う。
案の定、背中を抱いた男の左手が腰へと下がり、シートから浮いた尻を撫でて通り過ぎ、スカートの生地の上、太腿を擦るように滑って膝頭で止まった。
―会えばセックス、なんだよなぁ…。もっと他にないのかしら、私たち。
そう考えている間に、膝頭の手はスカートの裾をたくし上げ、内腿を触った。彼の指先の動きに戸惑いがあった。
―ん?どうしたのかな?あ、ストッキングかしら。あの頃はいつも生足だったからなー。ん?待てよ。ベルトには装備一式あるんだった!手錠や拳銃の事、どう言おうかしら…。
茜がそう考えているうちに、男の指は茜の太腿の上で逡巡しスカートの中から出た。そして上着のボタンを上から順に外しはじめた。そして上着の前を捲ると、彼の舌が茜の舌を探るように入ってきた。
「ん」
彼の舌は茜の舌を探し当て、米粒の大きさになったキャンディを舐めつづける子どもの慎重さで愛撫する。男の右手は茜の髪を離れ、助手席のシートとドアの間を探った。ほどなく、カタと小さな音がしてシートの背が後方に倒れた。
「今日はややこしいな」
倒れたシートに仰向けでいる茜を上から覗きこみながら男が言った。制服の上着の内側に入った彼の左手がベストのボタンと格闘していた。
「足にはパンスト。上着の下にはボタンつきのベスト。―ネクタイまであるじゃん」
苦笑した男の顔を見て、あ・やっぱり…抱かれたくないって思われちゃった、と茜は直感する。
「そ・そんなつもりじゃ…」
申し訳なさそうに茜が言うと、彼は茜を抱いていた身体を起こして彼女を見つめた。さっきまでの苦笑いがなくなり、その表情は困惑していた。
「―ん、いや、ゴメン…。僕もそんなつもりで言ったんじゃない…」
茜から身を離した彼は、運転席のシートに背中を預けた。―カタリ。プラスティックの軽い音がして、茜の横に彼のシートが倒れてきた。ふたり並んで水平になったシートに身を任せていた。茜は男の横顔を見つめたが、彼の視線は車の天井に向けられていた。
混沌とした思いが茜の頭の中に渦巻く。
―ここでは、先輩は20歳で私は17歳じゃないんだわ。私が20歳で先輩が23歳でもないんだわ。先輩も私も20歳なんだわ。同い年になっちゃってるんだわ。
納得と疑問が交互に現れては消えていった。
車内には、カーオーディオからの女性ヴォーカルと、そして、気まずい時間が流れていた。 |
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