人警 闇
  Scene03
 

  #05 瑞枝 01

  「あら―あなただったの…」

 瑞枝は、落ち着け落ち着け…と自分に繰り返し言い聞かせ、静止したままの茜を見たまま、背後に聞こえた男の声に努めて冷静に言葉を返した。そして、心の中の動揺ほど、自分の声が震えていない事に安心した。―大丈夫だ。そう思い、決意とともにゆっくりと振り返った。
 男が笑顔で立っていた。
 警察官になる前、デパート宣伝部時代に交際していた男だった。

「元彼が夢に出るって言うから、誰が出てくるのか期待していたのよ」

 瑞枝も笑顔を作って言った。―むかしのように、余裕の笑顔が作れているかしら。そんな不安が頭を掠めたが、余計な事は考えない方がいいと、不安を打ち消した。

「僕も君の夢に出られて嬉しいと思っているよ。僕を思い出して、わざわざ選んでくれたのか?」

 男の吐く台詞に「騙されるものか」と瑞枝は思う。茜が言っていたではないか。―元彼のようでいて実は相手は元彼じゃない、と。しかも、相手の姿は「あの男」だ…。一癖も二癖もある「あの男」ではないか。
 デパートの宣伝部にいた瑞枝は、広告代理店に勤務している彼と職場で知り合った。彼の所属は営業部だったが、彼自身は、広告の具体的なプランを作る制作部を志望していた。―クリエイティブな仕事がやりたい、というのが彼の口癖だった。そんな彼は、打合せと称して、瑞枝の宣伝部での実務を、残業時間によく手伝ってくれた。

「さっき、見たよ。迷い猫の貼り紙。君が作ったんだろう…うまく出来てるな」

 そう言って、男は、含み笑いのまま交番の掲示板に視線を移した。

「ありがと。デパート時代は、あなたにも色々と教えてもらったから」
「ふふ。あの時は、楽しかったな」
「あら…あなた、昔を懐かしむタイプだったかしら?」

 男の話に瑞枝は突っ込んでみた。彼は彼であって彼ではない―絶対に相手のペースに引きずられてはいけない。
 だが、男の笑顔から余裕の表情は消えない。

「あの時って、昔…じゃないさ、今、だよ」

 微笑んだままの男に言われて、瑞枝は茜の言葉を思い出す。―元彼って昔のままの年齢だったから、夢の中じゃ私のほうが年上になっちゃって、変な感じだったんです。
 レジメンタルのタイに趣味のよさを漂わせる男の姿は、確かに当時のままだった。彼は27歳…茜の時のように、私のほうが年上になっているわ。
 そう思った瑞枝の周りの風景も、いつの間にか、当時の風景になっていた。風景が変わった瞬間を瑞枝は認識できなかった。

 今、瑞枝の目の前に、彼女がよく知っている風景が広がっている。深夜のデパート宣伝部のオフィスだった。―彼とふたりきりで幾晩も過した事のあるあの部屋だった。
 ―チッと瑞枝は心の中だけで舌打ちをする。風景が交番前から変わってしまった。事態は、茜が話した通りに進行している…。
 そして、これから昔の男とセックスをした場所で昔のように抱かれそうになるのか…そのうえ、それが突然、ショッキングな想い出の悪夢に変わるのか…。そんな幻を私も見せられるのか…。だが由香の話からすると、慶子が見たかもしれない夢は悪夢ではなかったようだけれど…と瑞枝は一瞬のうちに様々な考えを巡らせながら、幻の中の室内を観察する。

 夢にしてはよくできていた。

 あの時のように、広いフロアの一部分だけに蛍光灯が点り、そのエリアにふたりはいる。男の背後にある一台だけ電源が投入されたコンピュータはアップル社製のマッキントッシュだ。―マック3号、と呼んでいたっけ。モニターには、ご丁寧にも当時としては古いバージョンの定番デザインソフトが起ち上がっている。新バージョンが使いづらくて、しばらくは敢えてこの5.5ってバージョンを使い続けていたよなぁ。―そして、そのソフト上に開いているファイルも、その当時の催事告知のチラシ原稿だ。

 ―あ、懐かしさに引きずられてはいけない、と思い直し、強がって男に話しかけた。

「ディテールまで完璧ね」
「いや」と、男は微笑んんだまま答えた。「君の記憶が完璧なだけさ。今、君が見ているのは、君自身の記憶だよ」

 そんな一癖ある話し方は相変わらずだな…と瑞枝は思う。私のポーカーフェイスがどこまで通用するのか…。いざとなれば、ブラフを噛まさなくてはいけなくなるかしら。―待てよ…私にそう思わせてしまう相手の性格も『私自身の記憶』なのか?―そうなるとやばいな…彼は常に『一枚上手』だったからな。

「そんなに警戒するなよ」

 瑞枝の心の中を見透かしたように男は言った。

「どうせ『夢』だぜ…『幻』だぜ…。楽しまなくっちゃぁ損じゃないか?」

 そして男は何かを瑞枝に投げた。思わず胸の前でキャッチした物を見て瑞枝は驚いた。それは、交番にあるはずの彼女の制帽だった。―そして、帽子の中には白い手袋があった。
 男は瑞枝を見ながら笑ってつづけた。

「夢から醒めて転んだ君に、後輩の茜クンが『大丈夫ですか』って駆け寄ってくるんだぜ。話のネタを仕込めるように、ここは楽しんでおくべきだと思うぜ…」

 相手のペースに乗るべきか…一瞬考えて、瑞枝も男に笑顔で返す事にした。

「そうね…そういう事なら楽しみましょうか…。あの頃みたいに、ね」

 そして、男に渡された制帽と白手袋を見つめて思った。
 ―確かに彼はコスチュームプレイを好んだ。

 当時の瑞枝は、宣伝部員という立場上、社内各部署の制服を借り受けるのが比較的容易だった。発端は、彼からそそのかされ、広報用の写真撮影に使うと口実を作り、販売員の制服を入手した時だった。
 オフィスのソファで制服を着たまま男に抱かれるのは刺激的だった。その体験に味をしめた二人の行為はエスカレートしていった。

 瑞枝は、機会を見つけては適当な理由を使いデパート内の様々な制服を手に入れた。そんな夜は、決まって彼とともに深夜まで残業した。そして遂には、警備員の目を盗んでは、手に入れた制服を着て深夜のデパートのフロアに出るようになった。

 受付嬢の制服を着た時は、インフォメーションコーナーに入り、性器を触られながら震える声で「いらっしゃいませ」と何度も繰り返した。エレベータガールの制服で真夜中のエレベータに乗り、身体中をまさぐられながら各階のフロア案内を喋らされた。化粧品売場では美容部員の制服を着てパンフレットの商品特徴を客に説明するかのように読み上げながら性交した。リクルートフェアの時期にはセクハラじみた面接プレイをした事もあった。食品売場では…婦人服売場では…と数え上げるとキリがなかった。

 そんな過去を思い出しながら、瑞枝は制帽を被り手袋を着けた。その姿を見ながら男は満足そうに頷く。

「そうでなくっちゃぁな。せっかく、婦人警官の制服姿で僕の前に現れてくれたんだから…」

 男の含み笑いは、いつの間にか、心の底からこぼれ出す嬉しそうな笑みに変わっていた。
 



  #06 瑞枝 02

  「さて、今日は、どんな『設定』でいくつもりかしら?」

 手袋のボタンを留めながら瑞枝は男に向かって余裕の笑顔を消すことなく問いかけた。この余裕を忘れないでいなくては、と瑞枝は思う。―幻の中にこの男が出現し、隠れて楽しんでいたコスチュームプレイをきっかけに『何か』を見せられるはずだ、と瑞枝は思っていた。それに対抗するには、この過去を「後ろめたい行為」だと思ってはいけない。

「婦人警官と犯人…交通違反の逆恨みってやつで苛めてもいいな」

 男も余裕の表情で答える。
 その様子を見て、瑞枝は勝負のワンステップ目を試してみた。

「あら、取り調べって事で、私があなたを苛めるっていうのもアリじゃないかしら?」

 相手が相手なだけに上手く乗ってくるのかと不安はあったが、彼の返答は瑞枝の思惑通りだった。

「おいおい、勘弁してくれよ。―俺が、そっちの方向はダメだっていうのは、君が一番知ってるだろう」
「私の質問に答えなさい!」

 瑞枝は男に大声で言った。

「なんだよ、もう『始まって』るのか?」

 男はその顔に戸惑いを一瞬浮かべたが、それを隠すかのように即座に笑顔に表情を戻した。だが、その笑顔は苦笑いだ。そんな男の様子の変化を観察しながら、さらに尋問を続行する。

「―さぁ、ひとつだけ、私の質問に答えなさい…。」

 そう言われた男の苦笑が、再び余裕の笑顔になった。

「―あぁ、なんだ…。セオリー通りだなぁ…慶子女史の事か」

 ―まだ五分五分なのか…と、男の返答を聞いて瑞枝は思う。慶子が見せられたであろう元彼の夢について彼に訊く事が「セオリー」だというのは瑞枝自身が考えていた事だ。
 茜は茜自身に関わる夢を見た。多分、慶子もそうだろう。そして私も、今、自分自身に関わる幻影の中にいる。
 ―それでは…と瑞枝は考えた。この交番先の歩道上で私たちに一瞬の夢を見せるこの謎の存在…かつて交際していた男の姿となって目の前にいる『この存在』が知っていて、私自身が知らない事を相手はどう答えるのか…。その回答を引き出せれば、何か新しい事実が解かる。
 取調べの際、捜査員には未知の、犯人だけが知り得る事実を自白させれば、それが大きな証拠となる。「秘密の暴露」―警察官のセオリーに則った質問だった。

「答えられるかしら、あなたに」

 挑発的な目を男に向けた。
 瑞枝に見据えられて男は両手を上げて首を横に振った。

「残念ながら答えられない…いや、正確に言うと、解からない…」

 そう言いながらも彼の表情から不敵な笑みは消えない。

「―僕は、君自身の意識の外にある事は見せられない…君とシンクロしている間は、君の事しか解からない。―君の心の中には、慶子女史が見た夢の情報はひとかけらも…ない」

 彼の言葉を聞いて瑞枝は再び心の中で舌を打つ。いまだ薮の中、だ。舌打ちの後、焦ってはいけない…と思い直したが、男は勝ち誇った笑みを浮かべたまま前に一歩踏み出した。一方、瑞枝は、自然と一歩後退する。

「婦警さん、そんなに怯えるなよ。別に捕って食おうというわけじゃない」
「怯えてなんかないっ!誰があなたなんかに!」

 と、言い返して、瑞枝はハッとした。―しまった「プレイの時の会話」のようになっている。彼が私の事を「君」と呼ぶのをやめて「婦警さん」と呼んだ。彼の中でプレイは始まっている…。

「そんなこと言っても、顔色が蒼くなってるぜ…。手も震えてるんじゃないか?大丈夫かい、婦警さん」

 そう言った男の手が瑞枝の右手を強い力で掴んだ。
 瑞枝は、そんな彼に、震える声で言った。

「手を…手を離しなさい。―こ・公務執行妨害で逮捕しますよ」

 瑞枝にそう言われて男は満足そうに微笑みながら、掴んだ彼女の右手をゆっくりと顔の高さまで持ち上げた。

「ふぅん、逮捕だぁ?―やれるもんならやってみろよ」

 そして、不敵に笑った。

「あ、そう」

 今度は瑞枝があっさりと言って、笑った。
 そして、まだ自由な左手でベルトのホルダから手錠を出し、自分の手を掴んだ男の左手に嵌めた。
 ―ガチャリ、という無機質な音が室内に響いた。

「はぁ?」

 男の顔から緊張感が抜けた。その表情を見た瑞枝は勝ち誇った顔になって男に言った。

「―そういうサディスティックなプレイがあなたの好みだったわねぇ…。そういうのに乗らないで、私のペースで今回は行かせてもらうわ」

 瑞枝の行動を意外に思って戸惑ったのか、自分の右手首を掴んでいた男の手の力が緩むのを感じた。掴まれていた手を捻ると簡単に男の手は外れた。瑞枝は素早くその手に手錠を掛けようとしたが、一瞬考えて、辺りを見回した。
 ―椅子しかないか。
 と、手錠を掛ける前に、目をつけた手近の椅子に男の両肩を押すようにして座らせた。そして、彼の背後に回り込むようにして椅子のパイプに手錠を通してから、彼のもう片方の手を拘束する事にした。

 ガチャッ!

 一瞬のうちに立場は逆転した。

「おいおい、興醒めだなぁ…瑞枝ぇ…そりゃぁないぜ。こういうのが苦手だってのは、君が一番知ってるじゃないか。勘弁してくれよ」

 椅子に繋がれ自由を奪われた男は、笑いながらも困った顔でそう言った。
 だが、瑞枝は意を決して、考えた台詞を口にする。

「勘弁してくれよ?―違うでしょう。人に物を頼む時は『勘弁して下さい』でしょう」

 不敵な笑みは、今、瑞枝の顔に宿っている。
 



  #07 瑞枝 03

  「おいおい、あの頃と『逆』をやろうっていうのかい?」
「うふふふ…思ってもみなかったって顔にならないでよ…。私の心の中が読めるって言ったのは、あなたよ」

 言いながら伸縮式の警棒を抜いた。
 ―カシャ!
 そして、それを伸ばした。

「―で、こうも言ったわよね…どうせ、夢だ幻だ…楽しまなくっちゃって。じゃぁ、私に楽しませてよ、ね…」

 言い終えて、瑞枝は、彼に見せつけるように、舌で上唇をゆっくりと舐めた。

「おい、マジで勘弁。―ダメなんだよ、俺は、そっち方面はさ…。頼むよ、あの頃みたく、上手くやろうぜ…。ああいうの、君も嫌いじゃなかったんだろう」

 男はうろたえていた。―思った通りだ。相手が私を知っている分、相手の好みは私だってよく知っている。では、夢の中で相手が苦手な状況を作ったらどうなるのだろう。―よし!勝ってる…と瑞枝は心の中で呟く。
 そして、茜に感謝する。―サンキュー、茜。ハイヒールじゃないけど、このパンプスの爪先をこいつに舐めさせてやるわ。―そういう『プレイ』って方向もあったのよねぇ…この間、茜に言われるまで気がつかなかったわ。
 心の中で後輩に礼を述べながら、自分が作ったシチュエーションを盛り上げるために意識的にテンションを高めて男に言った。

「まだそんな口のきき方をするの?」

 言いながら、片足を男の股間のすぐそば、椅子の座面のクッションに掛けて力を込めて押した。キャスター付きの椅子はガアァと間の抜けた音を立て床の上を滑り、その背を机にぶつけて止まった。

「婦警さん、許してください…でしょう」

 そう言いつつ、瑞枝は自分の『プレイにおける演技』に感心していた。―私もよくやるわよねぇ。―ってゆーか、彼に鍛えられたからなぁ。最初の頃はこういう『プレイ』の演技って、こっ恥ずかしかったもの。―ほぅら、こんなに濡らして、ん?ど・どこがいいんだ?―あぁっ、お・おまんこ…って、アホか!三流、いや四流・五流のエロビデオか。しかも、単なる棒読みか…って感じだったものなぁ。まったく情けない取柄を身につけちゃったものだわ…。
 そう思いながらも、瑞枝は彼とのプレイで身についてしまった演技力を発揮し、右手に持った警棒の先端で左の掌をパシパシと音を立てて叩いた。
 そして、演技に没頭しながら気分が高揚している自分に気がついた。―あら、やってて興奮してきちゃってる?―私ったら、こっち方面の女王様志向ってヤツもあったのかしら…。

 ―ちょっとヤバイかも…。

 ヤバイ、と思ったのは、自分自身にサディスティックな性癖がある、という事に対してではなかった。気分の高揚とともに、肉体も高揚していた。性器の内側がほんの少しばかり濡れてきている感覚があった。―やだ、テンション上げすぎちゃったかしら。たかが演技だっていうのに…と僅かな動揺が瑞枝を襲い、そこにつけ込むように、椅子に拘束された男がニヤリと笑って言った。

「―でも、まぁ、その立派な演技力も役に立ってるんじゃないか?」
「え?」
「君は演じるのが上手い女だからなぁ」

 男の笑みを見て瑞枝は我に返る。―ん、待てよ、ここで我に返るのは正しいのか?確かに、今、我に返った事で「ヤバかった」性器の違和感は消えた。でも、我に返らせたのは、目の前の曲者…この男だ。私はどう振舞うべきか―と迷った瑞枝に男が一喝した。

「ババァ!ごちゃごちゃと難しい事を考えてんじゃねぇよ!」
「!」

 男の言葉が瑞枝を刺した。
 ―ババァ…って、この幻影の中で、私が彼よりも年上になってるから…?―難しい事をって、彼が私にシンクロし辛くなって思わず吐いてしまった言葉?
 ―いや、そうではない。なんだろう、この感覚は?

 ―ババァ…こちゃごちゃと…難しい事を…考えてんじゃねぇよ…。

 それは、瑞枝の記憶の引き出しのどこかにある言葉だ。思い当たる節がある。―でも、いつ?どこで?
 頭の中を検索する瑞枝の気を散らすように男は次の言葉を投げた。

「結局は影で男とやりまくってるって事かぁ?いい加減にしなよ!」

 男の言葉を耳にして再び先ほどの感覚が瑞枝を襲う。
 ―なんだ、これは?記憶のどこかにある言葉だが、思い出せない。自分自身の記憶の中から罵倒された場面を必死に探る。
 ―ちょっと待って、考える時間が欲しい、と思う瑞枝に構わず、男は三つ目の言葉を発した。

「おいおい、私はセックスしません―なんて顔するのは勘弁してよ。その年で処女ですって顔してる方が気持ち悪いんだよ」
「あ!」

 瑞枝の頭の中で、バラバラだった記憶のパズルの断片が急速に完成していった。パズルの完成は瑞枝の顔色を蒼ざめさせる。―そんな事ってあるわけない…と頭の中で否定しようとするが、完成してしまったパズルは瑞枝に重く圧し掛かる。

 男が発した言葉は、過去に自分が非難された言葉ではない。
 ―逆だ。
 それは、私自身の心の声だ。決して口に出される事なく、心の中だけで呟かれた言葉たちだ。そして、その言葉を心の中で呟いた時、目の前にいた相手は…と、そこまで思って瑞枝は大きく首を左右に振った。違う、私はそんな事は思っていない!
 気持ちは大きく動揺していた。

 心の中で罵倒の言葉を向けた相手は、自分と共に交番に勤務する三人の婦警だった。

 慶子に対して「難しく考えるババァ」と、茜に対して「男にだらしがない」と、由香に対して「その年で処女だなんて」と。
 ―それらは、心の中に浮かんだ小さな波紋でしかなかった。その小ささ故に、慶子に対する尊敬・茜に対する親しみ・由香に対する愛しさという其々の思いでカバーされ、瑞枝自身にも意識される事なく忘れられ消滅していた小さな小さな波紋だった。

「どうだい?これがシンクロの力だ」

 椅子に座ったままの男は自信たっぷりに言って笑い、手錠で固定されているはずの後ろに回った両腕を、まるで手品師がそうするように、ゆっくりと左右に広げてみせた。手錠は見事に彼の腕から外れ、その右手に握られていた。
 男は椅子から素早く立ち上がって、呆然としたままの瑞枝に近付き、彼女の片腕を掴んで手錠を掛けた。
 ―ガシャッ!

「あ!」

 その音が瑞枝に再び現状を認識しなおさせた―が、少し遅かった。男は、瑞枝の両手を背中へと回した。―再び、ガシャッと、手錠が嵌められる音が響いた。
 後ろ手に手錠をされた瑞枝の顔に男の顔が近付いてきた。彼の笑みはいまだに消えない。男の顔に始終浮かんでいる笑みが、かつての瑞枝に―彼は私より常に一枚上手だ、と思わせていた原因でもあった。

 私は彼には勝てない、と。
 



  #08 瑞枝 04

  「―交番の仲間たちに対して、そういう思いを心の底に隠していたとは…ひどい女だね、君は…」

 瑞枝の目の前にその不敵な微笑を寄せて、彼は呟く。詰め寄る男から一歩後ずさると、背中が壁にぶつかった。

「えっ!こ・ここは?」

 宣伝部のフロアはもっと広かったはずだ、と瑞枝は周囲を見渡した。
 自分がいる場所は、いつの間にか変化していた。
 ―今、瑞枝はデパートのバックヤードにいた。華やかな売場から「関係者以外立入禁止」の扉を開けると、そこは一転して、ゴミ箱の中のように雑然とした空間になる。黴の匂いが漂う通路には、乱暴にダンボールが詰まれ、裸のままのマネキンが数体、投げやりに置かれている。

「さっきは威勢がよかったな…」

 そう言った男は歯を一瞬だけ見せて笑った。

「で、さっきの威勢はどこに行った?―顔色が悪いぜ…婦警さん」

 その言葉を聞いて壁に追い詰められた瑞枝は思う。―彼の台詞は「プレイ」のモードに入った時の言い方だ。
 手の自由を手錠で奪われた瑞枝は男の股間を蹴り上げようとしたが足が上がらなかった。男の片膝が瑞枝の両脚の間に入り、スカートの生地ごと足を壁に押し付けていた。そして上半身も壁から離れない。息苦しさが瑞枝を襲う。男の左腕が首を強く押さえていた。

「殺しはしないから安心しろよ」

 そういった彼の右手が瑞枝の制服ジャケットの第一ボタンだけを外した。この婦人警官の制服を脱がす気はなさそうだった。思えば、他の制服の時も、そうだった。
 ボタンをひとつだけ外した男の手は、上着の袷からベストの内側へと侵入した。だが、彼の手は瑞枝の乳房を揉みしだくわけでもなく、強く鷲掴みするでもなく、シャツの上から、ただただ丘の稜線を人差し指の先だけで円を描くようになぞるだけだった。
 その円弧はじわじわと次第に半径を小さくしていき、ゆっくりと瑞枝の乳首へと近付き、そこへと到達する。そして、指先の動きは円から静かな上下左右の動きへと変わり、乳首を執拗に攻めはじめた。

「見つけた」

 男が笑顔のまま言った。

「シャツの上からでも、わかる」

 実に嬉しそうな笑顔だった。
 ―ダメだ「ヤツ」のペースだ、と瑞枝は思う。今、どんな台詞を吐こうがプレイに没頭しているこの男を喜ばせる台詞になってしまう。―私はどうしたらよいのだ、と策を考えるが、よいアイディアが思い浮かばない。
 逡巡する瑞枝の瞳を覗き込んで男は言った。

「逆らうなよ。俺に逆らうんじゃないよ。―さっきは俺を責めながら興奮してたろう。わかってるんだぜ、婦警さん」
「え?」
「―濡れちゃって、ヤバイなんて思っただろう。―全部お見通しなんだよ。俺は」

 男の人差し指に親指が添えられ、シャツの上から乳首の位置を掴んだ。二本の指はその先端部を徐々に捻りはじめる。

「ぅ!―ぃたっ」

 と、小さく上がった声も男を興奮させる要素でしかなかった。

「そうだ―いい声だ、婦警さん。そうやって最初から俺の思う通りにさせてりゃぁよかったんだよ…」

 男の顔が瑞枝の顔に接近する。

「小ざかしい事を考えるから、思い出さなくてもいい自分の醜さを見せつけられるんだよ。―思い知っただろう」

 鼻先にある男の口元が息を吹きかけながら話している。そのあたたかさが異様なまでに生々しい。

「さぁ、婦警さん、舌を出せよ」

 そう言って、男は瑞枝の乳首を摘んだ指に力を入れた。

「ぅっ!」
「出せよ!」

 瑞枝の両脚の間にあった男の膝が上昇し、股間に当たった。乳首への刺激が収まり、恥部への刺激が始まった。男の膝頭が細かく振動をはじめ瑞枝の恥骨を震わせた。

「さっき、ここを濡らしてたのはわかってんだよ。また、濡らしてやるから舌を出せっつてんだよ!」

 男の言葉遣いの乱暴さが増してきた。―遊戯だとわかっていた。だが、そのせいで瑞枝は困惑していた。彼の遊戯なら話は簡単だ。私は乗ってやる。だが、この遊戯は「彼に姿を変えた何者かの遊戯」だ。

 ―乗ったらどうなるのか?
 ―乗らなかったらどうなるのか?

 合わせ鏡の中の人影を数えているような眩暈が瑞枝を襲っていた。

「くくく、いいぞ、瑞枝。君みたいな女ははじめてだ」

 男の口調が変わった。「婦警」と呼ばずに「瑞枝」と呼んだ。

 その原因が、不思議にも瑞枝自身にもわかった。
 男の考えが、瑞枝の頭の中に流れ込んできた。―この女は、今のこの状況に興奮している。幻に犯される事に興奮している。だが、男の思考には興奮の感情は感じられなかった。冷静な分析の様子が伝わるだけだった。
 そして、さらに瑞枝を慄然とさせる現象が起こった。瑞枝に逆流する男の考えの中には、彼が読んだ瑞枝の心理も混ざっていたのだ。
 混沌とした思いの中で、自分では言葉に出来ない自分自身の気持ちが、男の心を通して、フィードバックされるが如く、言葉の断片の濁流となって脳裡にこだまする。

 ―なに?―こんなのはじめて。―この人には叶わない。―諦めよう。―ダメよ。―彼じゃない。―彼じゃないのに。―彼じゃないから。―セックスは。―夢。―刺激。―だって。―婦人警官なのに。―それは演技。―愛してるから。―演技の刺激が。―好きなのは。―溺れる。―こういうのも。―だって。―だってじゃなくて。―違う。―私は。―今だけ。―いいの?

 自分自身の言葉の奔流に襲われながらも、男の膝で股間を刺激されながら性器を濡らしてしまった肉体の反応を、瑞枝はハッキリと自覚する。
 そして、ゆっくりと唇の間から舌を出し、目の前にいる幻である男を受け入れようとしながら、彼が先ほど口にした言葉を思い浮かべた。

 ―これがシンクロの力だ。


 
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OPENING introduction


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