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「あら―あなただったの…」
瑞枝は、落ち着け落ち着け…と自分に繰り返し言い聞かせ、静止したままの茜を見たまま、背後に聞こえた男の声に努めて冷静に言葉を返した。そして、心の中の動揺ほど、自分の声が震えていない事に安心した。―大丈夫だ。そう思い、決意とともにゆっくりと振り返った。
男が笑顔で立っていた。
警察官になる前、デパート宣伝部時代に交際していた男だった。
「元彼が夢に出るって言うから、誰が出てくるのか期待していたのよ」
瑞枝も笑顔を作って言った。―むかしのように、余裕の笑顔が作れているかしら。そんな不安が頭を掠めたが、余計な事は考えない方がいいと、不安を打ち消した。
「僕も君の夢に出られて嬉しいと思っているよ。僕を思い出して、わざわざ選んでくれたのか?」
男の吐く台詞に「騙されるものか」と瑞枝は思う。茜が言っていたではないか。―元彼のようでいて実は相手は元彼じゃない、と。しかも、相手の姿は「あの男」だ…。一癖も二癖もある「あの男」ではないか。
デパートの宣伝部にいた瑞枝は、広告代理店に勤務している彼と職場で知り合った。彼の所属は営業部だったが、彼自身は、広告の具体的なプランを作る制作部を志望していた。―クリエイティブな仕事がやりたい、というのが彼の口癖だった。そんな彼は、打合せと称して、瑞枝の宣伝部での実務を、残業時間によく手伝ってくれた。
「さっき、見たよ。迷い猫の貼り紙。君が作ったんだろう…うまく出来てるな」
そう言って、男は、含み笑いのまま交番の掲示板に視線を移した。
「ありがと。デパート時代は、あなたにも色々と教えてもらったから」
「ふふ。あの時は、楽しかったな」
「あら…あなた、昔を懐かしむタイプだったかしら?」
男の話に瑞枝は突っ込んでみた。彼は彼であって彼ではない―絶対に相手のペースに引きずられてはいけない。
だが、男の笑顔から余裕の表情は消えない。
「あの時って、昔…じゃないさ、今、だよ」
微笑んだままの男に言われて、瑞枝は茜の言葉を思い出す。―元彼って昔のままの年齢だったから、夢の中じゃ私のほうが年上になっちゃって、変な感じだったんです。
レジメンタルのタイに趣味のよさを漂わせる男の姿は、確かに当時のままだった。彼は27歳…茜の時のように、私のほうが年上になっているわ。
そう思った瑞枝の周りの風景も、いつの間にか、当時の風景になっていた。風景が変わった瞬間を瑞枝は認識できなかった。
今、瑞枝の目の前に、彼女がよく知っている風景が広がっている。深夜のデパート宣伝部のオフィスだった。―彼とふたりきりで幾晩も過した事のあるあの部屋だった。
―チッと瑞枝は心の中だけで舌打ちをする。風景が交番前から変わってしまった。事態は、茜が話した通りに進行している…。
そして、これから昔の男とセックスをした場所で昔のように抱かれそうになるのか…そのうえ、それが突然、ショッキングな想い出の悪夢に変わるのか…。そんな幻を私も見せられるのか…。だが由香の話からすると、慶子が見たかもしれない夢は悪夢ではなかったようだけれど…と瑞枝は一瞬のうちに様々な考えを巡らせながら、幻の中の室内を観察する。
夢にしてはよくできていた。
あの時のように、広いフロアの一部分だけに蛍光灯が点り、そのエリアにふたりはいる。男の背後にある一台だけ電源が投入されたコンピュータはアップル社製のマッキントッシュだ。―マック3号、と呼んでいたっけ。モニターには、ご丁寧にも当時としては古いバージョンの定番デザインソフトが起ち上がっている。新バージョンが使いづらくて、しばらくは敢えてこの5.5ってバージョンを使い続けていたよなぁ。―そして、そのソフト上に開いているファイルも、その当時の催事告知のチラシ原稿だ。
―あ、懐かしさに引きずられてはいけない、と思い直し、強がって男に話しかけた。
「ディテールまで完璧ね」
「いや」と、男は微笑んんだまま答えた。「君の記憶が完璧なだけさ。今、君が見ているのは、君自身の記憶だよ」
そんな一癖ある話し方は相変わらずだな…と瑞枝は思う。私のポーカーフェイスがどこまで通用するのか…。いざとなれば、ブラフを噛まさなくてはいけなくなるかしら。―待てよ…私にそう思わせてしまう相手の性格も『私自身の記憶』なのか?―そうなるとやばいな…彼は常に『一枚上手』だったからな。
「そんなに警戒するなよ」
瑞枝の心の中を見透かしたように男は言った。
「どうせ『夢』だぜ…『幻』だぜ…。楽しまなくっちゃぁ損じゃないか?」
そして男は何かを瑞枝に投げた。思わず胸の前でキャッチした物を見て瑞枝は驚いた。それは、交番にあるはずの彼女の制帽だった。―そして、帽子の中には白い手袋があった。
男は瑞枝を見ながら笑ってつづけた。
「夢から醒めて転んだ君に、後輩の茜クンが『大丈夫ですか』って駆け寄ってくるんだぜ。話のネタを仕込めるように、ここは楽しんでおくべきだと思うぜ…」
相手のペースに乗るべきか…一瞬考えて、瑞枝も男に笑顔で返す事にした。
「そうね…そういう事なら楽しみましょうか…。あの頃みたいに、ね」
そして、男に渡された制帽と白手袋を見つめて思った。
―確かに彼はコスチュームプレイを好んだ。
当時の瑞枝は、宣伝部員という立場上、社内各部署の制服を借り受けるのが比較的容易だった。発端は、彼からそそのかされ、広報用の写真撮影に使うと口実を作り、販売員の制服を入手した時だった。
オフィスのソファで制服を着たまま男に抱かれるのは刺激的だった。その体験に味をしめた二人の行為はエスカレートしていった。
瑞枝は、機会を見つけては適当な理由を使いデパート内の様々な制服を手に入れた。そんな夜は、決まって彼とともに深夜まで残業した。そして遂には、警備員の目を盗んでは、手に入れた制服を着て深夜のデパートのフロアに出るようになった。
受付嬢の制服を着た時は、インフォメーションコーナーに入り、性器を触られながら震える声で「いらっしゃいませ」と何度も繰り返した。エレベータガールの制服で真夜中のエレベータに乗り、身体中をまさぐられながら各階のフロア案内を喋らされた。化粧品売場では美容部員の制服を着てパンフレットの商品特徴を客に説明するかのように読み上げながら性交した。リクルートフェアの時期にはセクハラじみた面接プレイをした事もあった。食品売場では…婦人服売場では…と数え上げるとキリがなかった。
そんな過去を思い出しながら、瑞枝は制帽を被り手袋を着けた。その姿を見ながら男は満足そうに頷く。
「そうでなくっちゃぁな。せっかく、婦人警官の制服姿で僕の前に現れてくれたんだから…」
男の含み笑いは、いつの間にか、心の底からこぼれ出す嬉しそうな笑みに変わっていた。
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