人警 闇
  Scene04
 

  #06 由香 01

  「あれ?―何?」

 唐突な場面の変化に由香は驚く。
 一瞬にして風景が見えなくなった。目を痛めたのかと思い、何度も瞬きを繰り返した。目を閉じると視界は暗くなり、開くと真っ白だった。

 由香は、今、白い空間にいる。―しかし、彼女自身がそれを理解するには、もうしばらくの時間が必要だ。

 まず、由香は、反射的に何か見えるものを探そうと、左右を見た。やはり、真っ白な世界が遥か遠くまで続いていた。首を振った視界の隅に自分の肩だけが見えた。制服の肩にある金色のボタンがやけに眩しかった。
 次に、由香は下を見た。

「きゃっ!」

 思わず叫び声が口から飛び出した。心臓までもが一緒に飛び出しそうだった。
 足元にも無限の白が広がっていた。眩暈が由香を襲い、全身がグラリと揺れた。
 なにしろ、目に映る白い世界には陰影が無く、下方にずっとずっと白い風景が続いているように見えて「落下する」と思ったのだ。眩暈に数歩よろけて、やっと靴の底が地面に接しているのが―そう、そこに白い地面があるのが解かった。足がもつれそうになりながらも、なんとか踏ん張って転びはしなかった。
 由香が靴底を通して感じたものは、眼を閉じて階段を登り、最後の一段を踏んだ次の一歩が空振りする感覚に似ていた。「あると思った場所にない」のと「ないと思った場所にある」という違いがあるだけだった。
 そして、さらに由香は思い出す。成人式の日、写真スタジオを訪れた時の事を。撮影スタジオ奥の白壁と床の境には角がなく、そこは緩やかな曲線で結ばれていた。そこに照明が当てられ影が無くなり、境界を失った白い壁と床は一体となって、由香に距離感を見失わせたのだった。

 光源不明の白色の空間に私はいる、と由香はやっと自覚した。―では、何故、こんな場所に私はいるのだろう、と思い返して由香は戸惑う。この空間に来る直前の出来事が記憶から欠落していた。

「夢…かな?」

 由香は思った。
 現実感と違和感とのはざ間に漂う感覚は、夢の中でこれは夢だと自覚するあの感覚だった。

「うん。これは夢なんだよ」

 男の声がした。
 はじめて聞く声でありながら知っている者の声にも聞こえた。―いや、知っている者の声でありながらもはじめて聞く声なのかもしれない。
 声のした方向―由香の目の前に、白く輝く塊が現れていた。白い背景の手前にある不定形の塊は、由香の目に、背景よりもさらに白く映っていた。
 今の由香には、なぜか不安も恐怖もない。
 ―悪い夢じゃない…いい夢を見ているんだ、と思った。声の主の得体は知れないが、あたたかい優しさを、由香は全身で…いや、全感覚で感じていた。

 不定形だった白い物体が次第に形を持ちはじめた。それは、ぼんやりとした人の形だ。そして、物体が由香に話をつづける。

「この夢は、君の望み通りになる…そんな、幸福な夢なんだよ」

 その声は、由香の知っている声に似ていた。

「―は・早坂さん?」

 そう言った由香の目の前…不定形の白い塊があった場所で、駅前交番の早坂が制服姿で照れ笑いをしていた。

「…うん、突然出てきて、ゴメン。峰山さんが僕を呼んでくれたのかい?」

 白い空間に立ち、そう言った早坂は、由香を目の前にして焦ったように帽子を取り、手の甲で出てもいない額の汗を拭った。それが、戸惑った時に見せる彼の癖だった。

 あ、本当に早坂さんだ。…だったら、やっぱり。
 ―と由香は思う。やっぱり、これは夢なんだ。
 そして、夢ならば…、と考えた。
 考えた途端に、今まで白かった世界に、淡いブルーの光線が静かに射し込んできた。その青い光は柔らかく二人を包み、ゆっくりと優しく揺らめいた。
 揺らぐ青い光線に包まれながら由香と早坂は静かに降下していた。
 今、早坂は由香の目の前ではなく、隣にいる。

 水族館だった。
 青い光が、天に拡がるガラス張りの水槽から射し込んでいる。由香と早坂のふたりは、トンネル状の水槽の下をくぐるエスカレータに並び、下降していたのだった。
 魚影の群れが、時折ブルーの光線を遮る。
 由香の隣で早坂も目を丸くしていた。

「へぇ…峰山さん、ここに来たかったんだ…」

 そして笑って付け加えた。

「いい所だね」

 早坂の言う通り、このアクアリウムは、由香がもし男性とデートをするならば、連れて行ってもらいたい場所の筆頭だった。
 由香はそっと早坂のほうを窺った。目が合ったらどうしよう、と思いながら。しかし、隣にあったのは、木漏れ日のようなブルーの陽射しを見上げる早坂の横顔だった。目が合わない事にホッとしながらも、それをちょっぴり残念に思う自分がいた。しかし、その残念な思いも、水槽を見上げる早坂の少年のような瞳が帳消しにした。

 幸福感に満ちていた。
 ―夢なら醒めないで、と思った。
 



  #07 由香 02

  「この夢は…醒めないんだよ」

 と、早坂が由香を見て言った。

「え?」

 自分の気持ちを見透かされたようで、由香は当惑した。―その当惑のせいか、ふたりの周りの世界が軽く揺らめいた。
 その揺らぎが周囲の色彩を変えた。青い世界はオレンジ色の世界になっていた。

 鮮やかなオレンジ色の夕焼けだった。陽は遠くビル街の向こうに沈みかけていた。
 由香と早坂は高い高い場所から、その夕陽を見ている。

 夢の舞台は、観覧車のゴンドラの中に移っていた。
 由香と早坂はそのシートに並んで腰掛け、暮れる夕陽に染まる若宮市街地を遠くに眺めていた。そして、二人を乗せたゴンドラは静かに大きな円弧を描きながら、次第にその頂上へ近付きつつあった。

 早坂がポツリと言った。

「ここではないどこか…。昔、小説で読んだ事があるんだ…孤独な主人公が漠然と夢見る憧れの場所」

 そして、由香を見た。

「ここが、その『ここではないどこか』みたいだ」

 微笑んだ。そして、その微笑みは照れ笑いになった。

「ゴメン、峰山さん。変なこと言って」

 そう言う早坂に、由香は俯いて言った。

「いえ、謝らないで下さい。…私も、その小説、学生の頃に読みました」

 そして、早坂を見た。

「私、あの本…」

 早坂の眼をじっと見つめた。

「好きです」
「峰山さん…」

 由香は、彼を見つめたまま言った。

「私だけ…『さん付け』なんですか」

 そう問われた早坂の表情に困惑が浮かんだが、その困惑は、意を決した表情に変わった。
 ―ゴクリ、と小さく早坂の喉が鳴る音が聞こえた。

「由香…ちゃん」

 嬉しかった。
 ―ありがとう、と言おうとした由香の唇に早坂の唇が触れた。そして、彼の両腕が由香の背中を抱きしめた。由香は目を閉じ、早坂の背中へ静かに両腕を回した。
 抱き合い唇を重ねたままのふたりを乗せた観覧車のゴンドラが、夕陽に包まれながら、ゆっくりとその頂上を通り過ぎる。
 瞳を閉じた由香の睫毛を涙の雫が濡らした。

 長いキスの間に夢の場面は変わっていた。

 気が付けばそこはラブホテルの一室だった。ふたりはゴンドラのシートでキスをした体勢のまま、ラブホテルのベッドの上に腰掛けていた。
 先刻、早坂に姿を変える前の白い物体から聞こえた声が、由香の脳裡に甦る。

 ―この夢は、君の望み通りになる…そんな、幸福な夢なんだよ。

 早坂となら結ばれてもいい、と思った。
 不思議と水族館や観覧車の中で感じたときめきは消え、今、由香は、自分が想像していた以上に冷静になっていた。
 好きな異性に抱かれる事は理想だったが、今、ラブホテルのベッドの上で、ここは「ここではないどこか」などという夢想の場所ではなく、現実のどこかに確実に存在する場所なのだと感じていた。
 夢の中でこれは夢だと自覚する感覚は、いつの間にか消えていた。しかし、夢の中にいるあらゆる者がそうであるように、その感覚の消失に由香が気付く事はない。
 ただただ由香はぼんやりと思う。

 ―このラブホテル、以前に一度、見た記憶があるみたい…。

 その部屋のつくりには特徴がなかった。正確に言うと、ラブホテルの部屋だという特徴以外の特徴がなかった。
 テレビか映画のワンシーンで見たのかしら…と、由香はまずそう思った。確かにその部屋は特徴がないだけに、誰がどこから見てもラブホテルの一室だった。テレビや映画のロケーションにはあつらえたようにピッタリな凡庸なラブホテルの一室だった。

 ―ん?いや、私、一度だけラブホテルに行ったことがある、と由香は思い出す。

「なんだ、初めてなのか…」

 隣で男の声がした。早坂の声ではなくなっていた。
 夢の場面は、またしても変化していた。
 走る車の中だった。―ハンドルを握る中年の男性が、助手席に座る由香にそう話し掛けた。

 車は、確かにラブホテルに向かっていた。
 



  #08 由香 03

  「参ったな…」

 中年男性は苦虫を噛んだ顔になって呟いた。

「すみません」

 助手席の由香は、男の語調に俯いてそう言った。

「別に謝らなくていいから…むこうに着いたら、こういう所には何度も来た事ありますって顔しとけよ」
「は・ハイ」

 外見は一般車と変わらない捜査車輌の中。研修時代の旭ヶ丘署での事だった。深夜にラブホテルで起きた事件。中年の刑事とともに、その日、当直だった由香が駆り出された。

「相手は常習だ。舐められるなよ」
「は・ハイ」

 返事をするのが精一杯の由香を見て、刑事は車を路肩に停め、深い溜息をひとつ吐いた。そして、由香を見て「君が悪いってわけじゃないんだよ」とひとこと言って、ポケットから取り出した携帯電話をかけた。捜査用の物ではなく個人所有の物だった。刑事は携帯電話に向かって話しはじめる。

「悪いなぁ、こんな時間に。実は、ちょっとあってさ、助けてくんないかなぁ…例の援助交際の女子高生…そうそう、妻子持ちを引っ掛けて脅迫ってヤツ…で、今度こそいけそうなんだけどさ…同行の婦警がさ…新人なんだよ。―ちょっとまずそうなんだよなぁ」

 その後、ラブホテルで合流した電話の相手は同じ署の生活安全課の婦人警官だった。私服姿でやって来た彼女は由香たちとラブホテルの部屋へと入った。由香は彼女に付いて助手のように振舞いながら、その女子高生の所持品を調べ身体検査を手伝った。自分ひとりでは、こんなに上手く出来なかったろう、と思いながら。
 ピンチヒッターで呼ばれたその婦警のおかげで、刑事の「今度こそいけそう」という言葉は現実になった。署から応援が来るまでの間に彼女は由香を廊下に連れ出した。

「他の人に私の事、喋っちゃダメよ。全部あなたのお手柄でいいからね」

 そう言って、笑った。

「え?それは申し訳ないです。あそこまでしていただいたのに…」

 由香の反応に婦警の顔色が曇った。

「私が言ってる意味、わかんないの?」
「え?」
「ハァ…そりゃ、あの人が私を呼ぶわけだわ…」

 そう言って、キョトンとしたままの由香につづけた。

「あの人の件に私が出て来たって話が署で噂になるのが困るのよ。あの人だって奥さんや子どもいるんだから…そういうの全部言わせないでよ。少しは察してよ」
「―!」

 由香は、やっと理解した。階級が上の男性刑事を「あの人」と彼女が呼ぶ理由も解った。その表情を見て、彼女は由香の肩を軽く叩いた。

「頼むから賢くなってよ。ね、新人さん」

 そして、応援の署員が到着する前に彼女は姿を消した。
 ラブホテルの廊下に一人残された由香は、苦い思いとともに部屋に戻った。
 部屋の中には、ベッドの前に立つ早坂が寂しそうな表情で由香を迎えた。

「あ、ごめんなさい!早坂さん…私…」

 そう言った由香の顔を早坂は見つめた。

「考えちゃダメだ…僕との事以外を、考えちゃダメなんだよ」

 彼の声は震えていた。だが、彼の声を震わせているのは、怒りでも悲しみでもないと、由香には思えた。それは、まるで何かを怖れているかのように聞こえた。

「せっかく二人でいるんだから…僕との事だけを…考えて…」

 早坂はそう言いながら由香に静かに歩み寄った。

「だって、それが…僕たちの…理想の夢じゃないか…」

 そして、由香の左右の頬に両手を添えて不器用なキスをした。

 ―うん。そうだったわ、と由香は思う。こうやって本当に好きな人に抱かれる事…それが私の夢で―理想で―そして幸せだったんだわ。

 早坂は、ぎこちなく由香を抱きしめる。互いの胸が密着した。制服を通して、由香の胸に早坂の心臓の鼓動がトクトクと響いてきた。

 ―早坂さんにも、私のドキドキが聴こえているのかしら。

 そう思うと少し恥かしかった。だが、その恥かしささえ幸福だった。涙が滲んできた。幸せな今を噛みしめながら、よかった、と思う。

 ―こうなって、本当に、よかった。私には、こんな幸せなんて来ないのかもと、少し心配した事もあったんだもの…。
 ―特に、婦人警官になってからは…。

 由香が心の中でそう思った瞬間に、早坂の体がピクリと小さく動いた。

「…ぅあ」

 早坂は小さな声を上げた。その声は由香には濁った音に聞こえた。そのせいで、早坂の声ではないような印象があった。由香を抱きしめたままの早坂の口元から、濁ったままの声で言葉が漏れてくる。

「ダ・ダメだ…考えちゃダメだ…僕らの…夢…。それ以外は…考えちゃ…ダメだ」

 胸を通して伝わる早坂の鼓動が激しさを増し、由香の心に波紋を広げた。
 



  #09 由香 04

  「ど・どうしたんですか?」

 早坂の様子の変化に由香は驚く。

「じ・自分の幸せ以外は…考えるな」

 早坂の口から漏れる声が震えはじめていた。声だけではない。早坂を抱きしめた両腕から、彼の体の震えが由香に伝わってくる。由香は、この事態を収めようと必死で早坂の耳元に叫ぶように言った。

「私、幸せです!―今、早坂さんと、こうやって二人でいる事が幸せです!―本当に、夢みたいに幸せなんです!―こんな幸せが私に訪れるだなんて…」
「こんな幸せが訪れるだなんて…?」

 由香の腕の中で鸚鵡返しにそう言った早坂の体の震えは落ち着いていた。しかし、早坂の声は早坂の声でなくなっていた。

「こんな幸せが訪れるだなんて、夢にも思っていませんでした…かぁ?」

 早坂が…いや、今まで早坂であった者が顔を上げた。早坂の姿は、いつの間にか若い男に変わっていた。
 その姿は、あまりにも若すぎた。由香の目の前にいたのは坊主頭の中学生だった。切れ長の眼をした顔に、短く刈られた頭髪が「ファッション」としてよく似合った中学生だった。黒い長袖Tシャツの上に、襟や袖を引き裂いたTシャツを重ねていた。

「!」

 由香は、狼狽しながら男からその身を離した。一歩後退ると背中が壁に当たった。そこには無い筈の壁だった。突然の壁の出現に驚き、辺りを見回すと、そこは既にラブホテルの一室ではなくなっていた。

 廃墟の中だった。乾燥したコンクリートのザラザラとした匂いがした。
 目の前にいる坊主頭の後ろに、数名の少年たちの姿が見えた。

「なに?これは一体…」

 驚愕した由香の表情を見ながら、坊主頭が馴れ馴れしい口調で笑って言った。

「なに…じゃねぇよ…俺らがお巡りにビビるとでも思ってたのかよ!」

 そして、茫然としたままの由香に、彼の罵声が飛んだ。

「女がよぉ…舐めてんじゃねーよ!」

 大声を出した坊主頭の少年は、上体を後方に大きく反らせた。
 ―ガッ!
 鈍い音がして、由香の額に衝撃が走った。

「キャッ!」

 頭突きを喰らった。額より先に後頭部に痛みが来た。頭突きの勢いで由香の後頭部は後方の壁に叩きつけられた。頭部に痛みに伴う痺れが走る。坊主頭の後ろにいる少年たちが爆笑する声が聞こえた。

「アハハハハ!」
「わぁ、かわいそ。はははは」
「ふけいさぁん、がぁんばれぇーっ…くっくくく」

 そして、その中の一人が言った。

「よぉ、この婦警、ちょい、胸、でかくね?」

 それを聞いた坊主頭は「ん?」と一言だけ呟いて、由香の上着の襟を掴んで胸元を覗き込み、由香の顔を見て笑った。

「巨乳じゃないけど…確かに、いい胸じゃん」

 そして、由香の上着とベストの内側に少年の手は伸び、白いワイシャツの上で彼の掌が由香の乳房を覆った。

「ねぇねぇ…お姉さん、何カップ?―ブラ、何カップ?」

 嘲笑の笑みだった。15歳にも満たない少年の笑みとは思えぬ笑みで坊主頭の中学生が、制帽の庇の下に恥じ入る由香の瞳を覗き込む。
 由香の右手が動いた。

 パシン!

 由香の掌が坊主頭の少年の頬を打ち、彼の上体がぶれた。その時一瞬、早坂の声が聞こえた。

 ―こんなのじゃない!君の…考えていたのは…こんなのじゃないだろ!

 だが、その声も少年の行動に掻き消される。

 ギュッ!

「ぁひ!」

 由香の胸を鷲掴みにしていた少年の手にさらに強い力が加わった。彼の掌の中で由香の片胸はグリャリと音を立てて形を変えた。少年の五本の指が乳房に食い込んだ。

「ふ・け・い・さぁん…あんたのブラは何カップかって…」

 その台詞を一言発するごとに、少年の指はリズムをとりながら、由香の胸を揉みしだいた。

「き・い・て・い・る・ん・だ…よーっ!」

 ガッと音がして、再び、頭突きがやって来た。

「答えろよ!コラ!」

 鋭い眼光で坊主頭が由香を射る。

 ―こんなのじゃないだろ、と幻聴のように聞こえた先程の早坂の声を思いながら、由香はぼんやりと考える。

 ―いや、こんなのかもしれない、と。
 私は、心の奥でずっとずっと怯えたように思い続けていたのではないのか…。幸福な時間の中で処女を失うのではなく、最悪の事態に直面しながら処女喪失を迎える恐怖を…。

 特に、婦人警官になってからは…。


 
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