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「あれ?―何?」
唐突な場面の変化に由香は驚く。
一瞬にして風景が見えなくなった。目を痛めたのかと思い、何度も瞬きを繰り返した。目を閉じると視界は暗くなり、開くと真っ白だった。
由香は、今、白い空間にいる。―しかし、彼女自身がそれを理解するには、もうしばらくの時間が必要だ。
まず、由香は、反射的に何か見えるものを探そうと、左右を見た。やはり、真っ白な世界が遥か遠くまで続いていた。首を振った視界の隅に自分の肩だけが見えた。制服の肩にある金色のボタンがやけに眩しかった。
次に、由香は下を見た。
「きゃっ!」
思わず叫び声が口から飛び出した。心臓までもが一緒に飛び出しそうだった。
足元にも無限の白が広がっていた。眩暈が由香を襲い、全身がグラリと揺れた。
なにしろ、目に映る白い世界には陰影が無く、下方にずっとずっと白い風景が続いているように見えて「落下する」と思ったのだ。眩暈に数歩よろけて、やっと靴の底が地面に接しているのが―そう、そこに白い地面があるのが解かった。足がもつれそうになりながらも、なんとか踏ん張って転びはしなかった。
由香が靴底を通して感じたものは、眼を閉じて階段を登り、最後の一段を踏んだ次の一歩が空振りする感覚に似ていた。「あると思った場所にない」のと「ないと思った場所にある」という違いがあるだけだった。
そして、さらに由香は思い出す。成人式の日、写真スタジオを訪れた時の事を。撮影スタジオ奥の白壁と床の境には角がなく、そこは緩やかな曲線で結ばれていた。そこに照明が当てられ影が無くなり、境界を失った白い壁と床は一体となって、由香に距離感を見失わせたのだった。
光源不明の白色の空間に私はいる、と由香はやっと自覚した。―では、何故、こんな場所に私はいるのだろう、と思い返して由香は戸惑う。この空間に来る直前の出来事が記憶から欠落していた。
「夢…かな?」
由香は思った。
現実感と違和感とのはざ間に漂う感覚は、夢の中でこれは夢だと自覚するあの感覚だった。
「うん。これは夢なんだよ」
男の声がした。
はじめて聞く声でありながら知っている者の声にも聞こえた。―いや、知っている者の声でありながらもはじめて聞く声なのかもしれない。
声のした方向―由香の目の前に、白く輝く塊が現れていた。白い背景の手前にある不定形の塊は、由香の目に、背景よりもさらに白く映っていた。
今の由香には、なぜか不安も恐怖もない。
―悪い夢じゃない…いい夢を見ているんだ、と思った。声の主の得体は知れないが、あたたかい優しさを、由香は全身で…いや、全感覚で感じていた。
不定形だった白い物体が次第に形を持ちはじめた。それは、ぼんやりとした人の形だ。そして、物体が由香に話をつづける。
「この夢は、君の望み通りになる…そんな、幸福な夢なんだよ」
その声は、由香の知っている声に似ていた。
「―は・早坂さん?」
そう言った由香の目の前…不定形の白い塊があった場所で、駅前交番の早坂が制服姿で照れ笑いをしていた。
「…うん、突然出てきて、ゴメン。峰山さんが僕を呼んでくれたのかい?」
白い空間に立ち、そう言った早坂は、由香を目の前にして焦ったように帽子を取り、手の甲で出てもいない額の汗を拭った。それが、戸惑った時に見せる彼の癖だった。
あ、本当に早坂さんだ。…だったら、やっぱり。
―と由香は思う。やっぱり、これは夢なんだ。
そして、夢ならば…、と考えた。
考えた途端に、今まで白かった世界に、淡いブルーの光線が静かに射し込んできた。その青い光は柔らかく二人を包み、ゆっくりと優しく揺らめいた。
揺らぐ青い光線に包まれながら由香と早坂は静かに降下していた。
今、早坂は由香の目の前ではなく、隣にいる。
水族館だった。
青い光が、天に拡がるガラス張りの水槽から射し込んでいる。由香と早坂のふたりは、トンネル状の水槽の下をくぐるエスカレータに並び、下降していたのだった。
魚影の群れが、時折ブルーの光線を遮る。
由香の隣で早坂も目を丸くしていた。
「へぇ…峰山さん、ここに来たかったんだ…」
そして笑って付け加えた。
「いい所だね」
早坂の言う通り、このアクアリウムは、由香がもし男性とデートをするならば、連れて行ってもらいたい場所の筆頭だった。
由香はそっと早坂のほうを窺った。目が合ったらどうしよう、と思いながら。しかし、隣にあったのは、木漏れ日のようなブルーの陽射しを見上げる早坂の横顔だった。目が合わない事にホッとしながらも、それをちょっぴり残念に思う自分がいた。しかし、その残念な思いも、水槽を見上げる早坂の少年のような瞳が帳消しにした。
幸福感に満ちていた。
―夢なら醒めないで、と思った。
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