人警 闇
  Scene04
 

  #13 由香 08

  「わ!何だよコレ!」

 唇が触れる寸前、少年はそう叫び、キスを避けるように抱いていた由香の両肩を押した。

「!」

 突然の出来事に由香は吃驚して目を開いた。その目の前には、坊主頭の少年の怒りの形相が在った。

「手前ぇ!転んだのはゲロ踏んで滑ったからかよ、おい!」

 そう言った坊主頭の手が由香の顔の両側に伸び、左右の髪を掴んだ。今まで立膝をついていた少年は立ち上がり、由香の両側の髪を掴んだまま、その膝を由香の顔面に押し付けた。ベトリとした粘液の感触が由香の顔にあった。

「どうすんだよ、オイ!ゲロ付いちまったじゃねぇかよ!先に言えよ、手前ぇ!地面にゲロありますってよ!」

 由香の顔に押し付けられた少年のジーンズの膝は吐瀉物で汚されていた。

「どうしてくれんだよ!汚ねぇ!―元に戻せよ、このクズが!」

 ジーンズの膝頭に付着した汚物が由香の唇に密着した。強い酸の匂いが由香の鼻を突いた。

「んー。んーんんーんー!」

 汚物が付着した部分をを押し当てられながら、スカートの生地とその内側にある下着を通して臀部に滲みている冷たい液体の感触が、酔漢が吐き散らした胃袋の中身である事を、由香は今はじめて自覚していた。
 少年は「キレイにしろ、コノ!どうしてくれる!元通りにしろ、コノ!」などと貧困な語彙で繰り返し叫びながら、吐瀉物の染みがある膝を、由香の口元に、まるで、膝蹴りを喰らわすかのように、何度も繰り返し押し付けつづけた。
 そんな少年の罵倒の羅列が突然止み、彼は「ぁ!」と小さく叫んだ。

 由香の顔から彼の膝が離れた。そして次の瞬間、激しい勢いでその膝が戻ってきて、彼女の顔面を打ち据えた。

 ガッ!「ぎゃっ!」

 鈍い音と由香の叫び声が同時に聞こえた。鼻の奥で鉄の匂いがした。

「グヘッ…ゲホゲホッ」

 由香は激しく咳き込んだ。鼻血は出なかったが、鼻の奥から気管を巡り、喉から血の混じった粘液状の唾が口の中に上がってきた。その唾液は糸を引く涎となって、由香の口から地面へと零れ落ちた。その由香の口元を間髪入れずに襲ったのは、少年のスポーツシューズの底だった。
 その踵は、由香の顔面に見事にヒットした。由香は「ゥが」と小さな叫び声を喉の奥で上げ、後方に倒れた。
 倒れた由香を、更に少年の靴が襲う。
 少年の靴は由香の右頬を強い力で踏みしめ、そして、左側の頬を路地のアスファルトに密着させた。右頬には靴底の紋様が、そして、左頬には路面の凹凸が痕となって浮かび上がりそうなほど強い力で踏みつけられていた。

「手前ぇ、コラ!ゲロ踏んじまったじゃねーかよ!どーしてくれんだよ、オイ!今度は靴まで汚れちまったじゃねーかよ!」

 さらに少年の足に前後の力が加わった。まるで由香の顔がマットであるかのように、靴底が頬の上を何往復も擦った。

「買ったばかりなんだぞ!どーすんだよ、手前ぇ、コノ!」

 余りの痛みに由香は彼に背を向け、路上に伏せた。途端にヌルリとした感触が胸を襲った。シャツが肌蹴たままの素肌の胸部が、先ほど由香を転ばせた―そして、少年の膝と靴に付着した、アルコールと胃酸の匂う汚物の上に乗っていた。

「…のヤロー、逃げてんじゃねー!こっち向け!」

 少年はそう言いながら、由香の腹と路面の隙間に靴の爪先を入れ、蹴り上げるようにして、うつ伏せになった彼女を仰向けに転がした。

「わ!」

 驚愕の声が少年の口から洩れた。ついさっきまで威勢のよかった坊主頭の彼が驚いた理由は、由香自身も何となくだが、わかった。
 私の顔は、汚物と埃と、そして、自分の唾液にまみれて、きっと醜悪に見えるのだろう。さらに、私の胸を汚している酔漢の吐瀉物は、白いシャツにもその濁った色の染みを拡げ、悪臭を放っているのだろう。仰向けになった私を「汚いものを見る目」で少年は、今、見下ろしているのだから…。

 その少年の目と由香の目が合った。

「ぅわ!」

 目が合った瞬間に少年が再び叫んだ。

「見るな!―そんな汚ねぇ顔で俺を見るな!」

 今度の蹴りは由香の腹を襲った。―ボクッという低く鈍い音が響いただけで由香の口からは声は洩れなかった。
 それが少年の最後の蹴りだった。

「―今日はこれで勘弁してやるからな。―二度と俺らにあんな生意気な態度とるんじゃねぇぞ」

 そう捨て台詞を残して少年は表通りに逃げるように駆けていった。

「ぅ…ぅう」

 由香は上半身を力なく起こしながら、少年の姿が表通りに消えるのを見送った。追う気力はなかった。その上、立ち上がる気力すらも。
 ―うぅ、と痛みに唸る声が次第に泣き声になった。今になってはじめて涙が瞳から溢れてきた。ポロポロと音がしそうなくらい大粒の涙が、幾つも幾つも溢れてきた。由香は、自分が今まで泣いてなかった事に気付き、またそれを意外に思っていた。

 疲れていた。激しい疲労感が身体を重くした。
 由香は、両膝を抱えて、そこに顔を埋めてその場に座り込み、肩を小さく震わせながら、涙が止み、そして枯れるのを待ちつづけた。
 



  #14 由香 09

  「だ・大丈夫ですか?」

 そう呼びかける声に目が覚めた。男性の声だった。
 どのくらいの時間が経ったのだろう。時計を見ようとしたが身体中が重かった。

「ぅ・ぅぅ…」

 口から出たのは声というより音だった。喉の奥から絞り出すような小さな音だった。

「気が付きましたか?大丈夫ですか?」

 声の主は、膝を抱き背中を丸めてしゃがんでいた由香の肩に手を添え、彼女の上半身を起こした。由香は背中を路地の壁に預けた。
 目の前で彼女を顔を心配そうに覗き込んでいるのは、人のよさそうな中年サラリーマンだった。彼の顔は酔いのせいか、ずいぶんと赤かった。

 ―すみません、ありがとうございます、と言おうとしたが声が出なかった。身体も鉛のようだった。ただただ視覚と聴覚と、そして思考だけが鋭敏だった。まるで金縛りにあったかのように。

「ん?―あれれれ?」

 男は由香の胸元に視線を移して、驚いた顔になってそう呟いた。その声を聞いて、由香はシャツが肌蹴て露わになった自分の胸の事を思い出した。男の視線の先の状態を思い、恥ずかしさに襲われ、両手でそこを覆い隠そうとしたが、手が動かなかった。指先がアスファルトに接着されたかのようで、1ミリたりとも持ち上がらなかった。
 そんな、金縛りの由香の耳に男の独り言が聞こえてくる。

「はいはいはい、そういう事か…んふふふふ」

 ―ち・違います、と叫びたいが、もちろん声は出ない。
 男は掌を由香の目の前にかざして、彼女の意識を確かめるかのように、数度、上下に振った。―その様子は視覚では認識できたものの、まばたきは出来なかった。
 無表情の由香を覗き込む男の表情に好色の笑みが宿った。

 右の乳首に何かを感じた。ブラジャーの上から男の人差し指の先が、その部分を恐る恐る突付くように触っていた。

 ―だ・駄目です。そういうのじゃありません、と声に出してその行為を中断させたかったが、相変わらず声は出ない。

 由香にとって辛かったのは身体が動かぬ金縛りの状態だけではなかった。中年男の表情に悪意がない事も辛かった。彼はまるで路上に落ちた小銭を見つけた子どもの表情になっていた。ほんの僅かの後ろめたさと、その何倍もの幸運を手に入れた喜びが顔に出ていた。
 真夜中の路地裏に衣服の前を肌蹴て胸を露出した女が意識を失っていたのだ。したたか酔っていた男は、呂律の回らぬ口調で独り言を呟きつづける。

「あはは、夢だよな…コレ、夢だよな。こんなことある訳ないもんな。こういう夢、何度か見た事あるからな…。やっちゃう前に決まって目ぇ覚めちゃうんだよな。知ってるんだ、オレ…あはは」

 自嘲の笑いとともにそう言いながら、男は慌しく、無抵抗の由香のスカートの内側へと両手を挿し入れ、ストッキングとショーツを掴むと一気に膝の下まで引き下ろした。

「!」

 だが、そこまでされても、今の由香は叫び声を上げることすら出来ない。その由香の耳に、男がズボンを脱ごうとベルトを外すカチャカチャという音が聞こえてきた。

「あぁ、早いトコやらないと…目が覚める前にやらないと」

 ジッパーを下げながら、男がブツブツと呟く声が聞こえる。その男の独り言を聞きながら、金縛りの状態にある由香は思う。
 ―もはや、今の私は、この見知らぬ中年男性の夢に出てくる登場人物の一人に過ぎなくなってしまったのか、と。

 ズボンと下着を脱いだ男性の下半身が目の前にあった。屹立した彼のペニスを見て、この巨大な男根が自分の中に埋没してくるのというのが信じられなかった。だが、もっと信じたくない事が、由香にはあった。

 ―彼の心の中に、私の記憶は残るのだろうか。この男の酔いが醒めた後、夢を見た記憶の彼方に、私を抱いた事実は忘れ去られてしまうのではないのか。

 パンプスが脱がされ、膝下までおろされていたストッキングとショーツが、左足の先から抜かれた。

「ゃ・ゃ・ゃ」

 由香の喉から声にならない微かな息の音がやっと洩れる。だが、いまだ身体は重く微動だにしない。

 ―こんな事なら、あの坊主頭の中学生に強姦された方がよかったのかもしれない…。少なくとも、彼は私を抱いた事を記憶に残してくれるだろう…。でも、今、私を犯そうとしているこの酔漢は、朝を迎えれば、私の事を夢の中の出来事だと忘れてしまいそうだ。
 ―いやだいやだいやだ。私の事が相手の記憶に残らないだなんて…そんなの嫌だ。
 ―そんなの最悪だ!

「でも…その最悪を…君は、思ってしまったんだよ。どうして、不幸を考える?―幸福を考えてくれたなら…僕は…」

 中年男性が、一瞬だけ、悲しい目をした。彼の口は開かなかったが、その声は由香の心に鮮明に響いた。男が口を開いて呟く耳に聞こえる独り言の数々は、あまりにも不明瞭だったというのに。

 そして、今、男の目は酔った者の焦点の定まらぬ瞳に戻っていた。
 彼の両手が由香の背中に回り、その身体を地面に倒した。

「あ!」

 姿勢が変わったせいなのか、由香の口から声が出た。

「シーッ。静かに。目が覚めちまう」

 男は、突然の由香の声に対して、充血しドロリとした目でそう言った。

「いやだ!やめてやめてやめて!」
「バカ!ここまで来たんだ。もう遅い!」

 男のペニスの先端は、むき出しになった由香の膣の入り口に押し当てられていた。まだ濡れていない乾いた性器を裂くように男の亀頭が由香の中に侵入を試みはじめる。

「やだ!」

 今まで動かなかった両腕が動いた。
 由香は、思い切り両手を前に突き出して男の身体を止めようとした。掌を男の胸に押し当て全ての力をそこに集中した。
 だが、圧し掛かってくる男の力は強かった。
 大陰唇の内側に男根の先の感触がやって来た。それは、受け入れ態勢が整っていない由香の内側を貫こうと、狭い入り口を探るように蠢いている。

 由香にとって最悪の処女喪失が、ほんの数秒後に迫っていた。その恐怖に瞳を閉じ、折れ曲がりそうになる腕を必死で伸ばしながら、由香は声を振り絞って助けを呼んだ。

 その声は大きな叫び声になった。

 ―やっとの思いで大声を出した由香が助けを求めて叫んだ名前は、今夜の交番での相勤者、茜の名前だった。

「茜!―あかね!―あかねーッ!」

 由香は、茜の名前を三度叫んだ。
 襲いかかる男をくい止めようと、両手を「前にならえ」のようにして…掌を正面に向け…指先に力を込めてピンと伸ばし…そして、目を閉じたまま、茜の名前を三度叫んだ。

 そう。―まるで、あの「おまじない」のように。
 だから、もちろん…。

 もちろん、夢に茜が現れた。
 



  #15 由香 10

  「あーれーっ!」

 由香の夢の中に、茜の素っ頓狂な声が響きわたる。
 茜は、由香と男が絡みあっていた路地裏の上空約2メートルの空間に忽然と姿を現した。そんな茜を支えるものが夢の中にある筈もなく、彼女はそのまま重力の法則に従って由香と男の上に落下した。

 ドスン!

「痛ーっ」「ぎゃ!」「きゃっ!」

 三つの悲鳴が重なって聞こえた。その三つの悲鳴の次に言葉を発したのは茜だった。

「何?コレ?」

 つづいて由香の半泣きの声。

「あ・あかねぇ!」

 その声を聞いて、やっと茜はこの場にいる由香の存在を知る。

「ありゃりゃ?―由香さん?」

 そして、茜は周囲を見て、つづける。

「―ていうか、ココはドコ?―ワタシはアカネ。何やってんですか由香さん?」

 そう言った茜の目が男を発見した。由香を犯す寸前だった彼は、茜の落下のショックで勃起したままの下半身を露出して仰向けに倒れていた。

「あ・あ・あ!」

 ピンと来た。
 ―これは、由香さんの悪夢だ。
 ―私は、由香さんの見る幻の中にやって来たのだ。

「このぉ!」

 茜は大声で叫んで、倒れたままの男を睨んだ。

「この間はよくもよくもよくもこの私の大事な髪をぉ!」

 それからの茜の行動は筆舌に尽くしがたい。
 その「筆舌に尽くしがたい」内容というのは「茜の大活躍が、窮地の由香を救った」という凡庸な表現に終始するしかないのだが…。

 先ず、茜は腰から拳銃を抜き、男に向かって「ぬぉ!」などと叫びながら引き金を引いた。路地裏の空間に拳銃の発射音が、何発も響いた。―何発も、というのは大袈裟な書き方ではない。大音響は拳銃に装填された弾丸の数、五発を遥かに越えて響いたのだ。

「十…五・六発―いや、二十発以上、撃ったかもしれません。さすがは夢の中ですね」

 後に、茜はそう語っている。それを聞いた慶子は目を丸くして茜に言った。

「夢の中とはいえ、よく拳銃を撃てたわね…こっちに戻った時、弾が一発でも無くなっていたら大変な事になるっていうのに」
「いや、ご心配には及びません。夢から醒めれば、切られた髪の毛だって元に戻っちゃうんですから、銃の弾も大丈夫かなって…てへへ」

 ただし、幻の中でなくなったまま、元に戻らなかったものが、たった一つだけあるらしい。
 茜はそのことを実に不思議そうな顔をしながら瑞枝に話したという。

「ヤツは銃で撃っても死なないんですよ…っていうか、銃弾が当ったせいで気絶から目を覚ましちゃって、由香さんと私を追いかけてきたんですよ。アレはマジ怖かったです。シャレになんないくらい」

 そして、茜はポケットから空の小瓶を取り出し、瑞枝に見せた。
 例の「聖水」が入っていた小瓶だった。

「それでもう狭い狭い路地をですね、由香さんの手を引いて全力で逃げながら、ポケットの中にあった聖水に気が付いて…。危機一髪ですよ、私たち」
「何?その聖水のおかげで、あなたたちは悪夢の世界から戻れて助かったっていうの?」
「ですです。これを思わず、追いかけてくる男に向かって掛けたら、私たちクルクルと目が回って、二人で例の歩道に戻っていたんですよ。転んだ状態で…」
「ふぅーん」

 瑞枝は聖水が入っていた小瓶を手に取り、まじまじと見つめた。

「不思議でしょう。拳銃の弾も、由香さんの服も、全部元通りになったのに、この中身だけ無くなっていたんですよ」

 こうやって、交番先100メートルの歩道に帰還した由香と茜だったが、しばらくの間、由香はその場から立ち上がれなかった。
 腰を抜かしたように歩道で茫然としている由香に、茜はゆっくりと「事情」を一から話した。
 ―怖い夢を見ていただけだったんですよ。もう大丈夫なんですよ。そう話す茜の言葉に由香は涙を流しながら、うんうんうんと小さく何度も頷き、そして「ありがとう」と言って、ふらふらと立ち上がった。

「ねぇ。茜はどうして、あの路地が、現実の若宮三丁目じゃなくて、私の夢の中だと、すぐに解ったの?」

 交番に戻り、淹れたてのコーヒーでやっと気持ちが落ち着いた由香は、茜に訊ねた。

「あぁ。それはですね…」

 と、茜は由香に答える。

「おチンチンですよ」
「え?…お・お…ちん…ちん?」
「ハイ。由香さんを襲っていた男の人の…」
「…」
「あれを見て、私は由香さんが見ている幻の中に来たんだなって確信しました」

 茜は自慢げに胸を張って、顔を赤らめはじめた由香に気付かず、話し続ける。

「あれは、どう見ても変…というか、ありえない形だったんですよ。だから『妄想のアレだ』とピンと来てですね…これは、男性のアレを見た事ない人の、まぼろしチンチンだ、と。そうなると、もう…ん・あれ?由香さん…」

 顔中真っ赤になった由香が、一番真っ赤になった頬を膨らませて茜を見ていた。

「わかった!―もういい!先に仮眠する!後片付け、よろしく!」

 そう言い残して由香は仮眠室に逃げるように引っ込んだ。
 ミーシャが驚いて目を覚まして「みやぁ」と小声で鳴いた。

「あちゃー、またやっちゃった。―そんなつもりで言ったんじゃないのになぁ」

 由香を見送った茜は小さく舌を出して渋い顔になり、子猫に話しかけた。

「だって、ホントに変だったんだよ…。あの形はさ。いくらなんでも、あれはないよなぁって…はぁぁ」

 眠そうな瞳のミーシャに向かって、茜は深いため息を吐いた。


 でも、それから数日後、由香の救世主である茜は、品書きに値段の入っていない寿司屋で、絶品の鮨をたっぷりと堪能した後、板前に特別に作ってもらった品書きにはない雲丹丼を茶漬けのように貪り食い、大満足したのであった。
 ―もちろん、全て、由香の奢りで。
 



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