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「わ!何だよコレ!」
唇が触れる寸前、少年はそう叫び、キスを避けるように抱いていた由香の両肩を押した。
「!」
突然の出来事に由香は吃驚して目を開いた。その目の前には、坊主頭の少年の怒りの形相が在った。
「手前ぇ!転んだのはゲロ踏んで滑ったからかよ、おい!」
そう言った坊主頭の手が由香の顔の両側に伸び、左右の髪を掴んだ。今まで立膝をついていた少年は立ち上がり、由香の両側の髪を掴んだまま、その膝を由香の顔面に押し付けた。ベトリとした粘液の感触が由香の顔にあった。
「どうすんだよ、オイ!ゲロ付いちまったじゃねぇかよ!先に言えよ、手前ぇ!地面にゲロありますってよ!」
由香の顔に押し付けられた少年のジーンズの膝は吐瀉物で汚されていた。
「どうしてくれんだよ!汚ねぇ!―元に戻せよ、このクズが!」
ジーンズの膝頭に付着した汚物が由香の唇に密着した。強い酸の匂いが由香の鼻を突いた。
「んー。んーんんーんー!」
汚物が付着した部分をを押し当てられながら、スカートの生地とその内側にある下着を通して臀部に滲みている冷たい液体の感触が、酔漢が吐き散らした胃袋の中身である事を、由香は今はじめて自覚していた。
少年は「キレイにしろ、コノ!どうしてくれる!元通りにしろ、コノ!」などと貧困な語彙で繰り返し叫びながら、吐瀉物の染みがある膝を、由香の口元に、まるで、膝蹴りを喰らわすかのように、何度も繰り返し押し付けつづけた。
そんな少年の罵倒の羅列が突然止み、彼は「ぁ!」と小さく叫んだ。
由香の顔から彼の膝が離れた。そして次の瞬間、激しい勢いでその膝が戻ってきて、彼女の顔面を打ち据えた。
ガッ!「ぎゃっ!」
鈍い音と由香の叫び声が同時に聞こえた。鼻の奥で鉄の匂いがした。
「グヘッ…ゲホゲホッ」
由香は激しく咳き込んだ。鼻血は出なかったが、鼻の奥から気管を巡り、喉から血の混じった粘液状の唾が口の中に上がってきた。その唾液は糸を引く涎となって、由香の口から地面へと零れ落ちた。その由香の口元を間髪入れずに襲ったのは、少年のスポーツシューズの底だった。
その踵は、由香の顔面に見事にヒットした。由香は「ゥが」と小さな叫び声を喉の奥で上げ、後方に倒れた。
倒れた由香を、更に少年の靴が襲う。
少年の靴は由香の右頬を強い力で踏みしめ、そして、左側の頬を路地のアスファルトに密着させた。右頬には靴底の紋様が、そして、左頬には路面の凹凸が痕となって浮かび上がりそうなほど強い力で踏みつけられていた。
「手前ぇ、コラ!ゲロ踏んじまったじゃねーかよ!どーしてくれんだよ、オイ!今度は靴まで汚れちまったじゃねーかよ!」
さらに少年の足に前後の力が加わった。まるで由香の顔がマットであるかのように、靴底が頬の上を何往復も擦った。
「買ったばかりなんだぞ!どーすんだよ、手前ぇ、コノ!」
余りの痛みに由香は彼に背を向け、路上に伏せた。途端にヌルリとした感触が胸を襲った。シャツが肌蹴たままの素肌の胸部が、先ほど由香を転ばせた―そして、少年の膝と靴に付着した、アルコールと胃酸の匂う汚物の上に乗っていた。
「…のヤロー、逃げてんじゃねー!こっち向け!」
少年はそう言いながら、由香の腹と路面の隙間に靴の爪先を入れ、蹴り上げるようにして、うつ伏せになった彼女を仰向けに転がした。
「わ!」
驚愕の声が少年の口から洩れた。ついさっきまで威勢のよかった坊主頭の彼が驚いた理由は、由香自身も何となくだが、わかった。
私の顔は、汚物と埃と、そして、自分の唾液にまみれて、きっと醜悪に見えるのだろう。さらに、私の胸を汚している酔漢の吐瀉物は、白いシャツにもその濁った色の染みを拡げ、悪臭を放っているのだろう。仰向けになった私を「汚いものを見る目」で少年は、今、見下ろしているのだから…。
その少年の目と由香の目が合った。
「ぅわ!」
目が合った瞬間に少年が再び叫んだ。
「見るな!―そんな汚ねぇ顔で俺を見るな!」
今度の蹴りは由香の腹を襲った。―ボクッという低く鈍い音が響いただけで由香の口からは声は洩れなかった。
それが少年の最後の蹴りだった。
「―今日はこれで勘弁してやるからな。―二度と俺らにあんな生意気な態度とるんじゃねぇぞ」
そう捨て台詞を残して少年は表通りに逃げるように駆けていった。
「ぅ…ぅう」
由香は上半身を力なく起こしながら、少年の姿が表通りに消えるのを見送った。追う気力はなかった。その上、立ち上がる気力すらも。
―うぅ、と痛みに唸る声が次第に泣き声になった。今になってはじめて涙が瞳から溢れてきた。ポロポロと音がしそうなくらい大粒の涙が、幾つも幾つも溢れてきた。由香は、自分が今まで泣いてなかった事に気付き、またそれを意外に思っていた。
疲れていた。激しい疲労感が身体を重くした。
由香は、両膝を抱えて、そこに顔を埋めてその場に座り込み、肩を小さく震わせながら、涙が止み、そして枯れるのを待ちつづけた。
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